大河ばっか組! – 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp Fri, 07 Mar 2025 12:50:26 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.5.2 https://edist.ne.jp/wp-content/uploads/2019/09/cropped-icon-512x512-32x32.png 大河ばっか組! – 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp 32 32 185116051 べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その九 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_009/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_009/#respond Fri, 07 Mar 2025 11:00:33 +0000 https://edist.ne.jp/?p=82533  「あんただって、わっちに食いつく蛭じゃないか!」。瀬川の、この言葉が蔦重の目を覚ましました。助六における意休のような嫌なやつならともかく、花魁を笑わせることができる検校なら、瀬川も幸せになれるのでしょうか。
 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。



第9回「玉菊燈籠恋の地獄」


 「恋の地獄」とあるだけに、うつせみと新之助、瀬川と蔦重、ともに吉原の「苦界」を感じる回となりました。

 

幸せになれない二組の恋人たち

 鳥山検校による身請けの話を止めようとする蔦重は、最初は細見の売りが悪くなるから、などと言っていましたが、ついには「俺がお前を幸せにしてえの」と本音がぽろり。だから、鳥山検校のところに行かないでくれ、と頭を下げた蔦重の胸ぐらをつかみ「心変わりなんてしないだろうね」と詰め寄った瀬川は、身請けの話を断ります。簡単に身請けにのったら安くみられるんじゃないんですか、といううまい言い訳ではありましたが、松葉屋の女主人・いねは、後ろに間夫、つまり蔦重がいるからだろうと察し、証拠をつかむために二人を監視しはじめます。
 さらには、瀬川が客を取っているところを蔦重にわざと見せる松葉屋の主人。このあたりの二人の亡八っぷりはなかなかのものでした。が、それくらい花魁には金と手間をかけている、ということなのでしょう。

 行き着く先は「足抜け」。抜け出すためのシナリオを蔦重が語り、瀬川と蔦重が「再現ドラマ」したのですが、実際に窓から屋根に抜けてきたのはうつせみ、下で受け止めたのは新之助でした。しかし、逃げきることはできず、うつせみは水責めの折檻を受けます。

 しかし瀬川が蔦重との未来を諦めたのは、この水責め折檻を見たから、ではなく、いねの言葉でした。花を生けながらとつとつと「瀬川」という名跡が生き返ることで、女郎がみんな救われると思った、と聞いた時、瀬川は蔦重への思いを断ち切り、身請け話を承知したのです。

 

それは「天の網島」だった

 監視の目をくぐり抜けるために二人が取ったのが本にメッセージをはさんでのやりとり。中でも、足抜けのための通行切手を挟み込んだのは『天の網島』でした、そう、あの心中ものの名作の(しかし、これを死をも辞さない蔦重の決意とみるか、幸先悪くない? と思うか…)。
 身請けを決意した瀬川は「馬鹿らしい本だった」と言って、蔦重に本を返します。「この筋じゃ、誰も幸せになんかなれない」と言いつつ、本と、逃げ出すための方法とを重ねて「とびきりの思い出になった」と万感の思いをこめ、蔦重の手にそっと本を乗せたのです。可能ならば、この筋通りに生きてみたかったのではないでしょうか。


幸せになる瀬川

 この先はどうも辛い展開になりそうなので、せめて圓生師匠の人情噺「雪の瀬川」で、同じ名前の瀬川の幸せを願いたいものです。
 
 主人公は大店の若旦那・善治郎。学問好きで堅物の善次郎を、無理矢理、吉原に連れ出したら、松葉屋の瀬川にすっかりはまってついにはお定まりの勘当。以前の奉公人・忠蔵の家に身を寄せた善次郎が瀬川に金を無心する手紙を書くと、その返事に「雨が降ったら(吉原を)出ていく」とある。やがて雪の日、そわそわと待つ善次郎の元に、瀬川が来るのです。

 下は燃え立つような緋縮緬の長襦袢、お納戸献上の伊達巻をきりきりっと巻いて前のところできゅっとはさむ。
 頭布をとりますと、七分珠か八分珠かしれませんが珊瑚のかんざしへ、洗い髪をやけにきりきりっと巻きつけている。すっと立っているその姿、色の白いのはまるで抜け出るよう。雪女郎ではないかと思われるぐらい。


 「つかまってもかまわない、一目逢いたい」と覚悟を決めた遊女のまぁ美しいこと。手助けをしたのは幇間の五蝶です。善次郎と瀬川は「会いたかった」と、そりゃもう大騒ぎ。

 翌日、忠蔵が店へ行って話をする、ま、いい按配といいましょうか、お父っつァんが今、大病という。そこへ話をしたので、一も二もなく勘当は許される、家へ帰れば金はくさるほどありますので、松葉屋の方へは立派に身代金を払います。
 相当な仲人を立てて善次郎と瀬川がめでたく夫婦になったという。「傾城にもまことあり」。『松葉屋瀬川』でございます。

『圓生の落語2 雪の瀬川』(河出文庫) 


 善次郎の堅物振り、まわりの人々の優しさ。人情たっぷりのこの噺、肝心の善次郎がちとだらしないようにも思いますが、…そういえば蔦重も新さんも、女性の方がしっかりしていましたね。



べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八(番外編)
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その七

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八(番外編) https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_0085/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_0085/#respond Thu, 06 Mar 2025 13:07:50 +0000 https://edist.ne.jp/?p=82489  光を当てることが、必ずしも解放につながるわけではない。見えなかったものが可視化されることで、新たな価値が生まれる一方、それは何者かを縛り、軋轢を生み、そして支配の形を変えていく。可視化された情報は、時に秩序を揺るがし、新たな構造を生み出す力を持つのだ。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けするこの連載。第八回についてはまだまだ語りたい。番外編として続きをお届けします。

 


 

駿河屋市右衛門 vs. 鶴屋喜右衛門——情報を巡る支配とシステムの暴力

 前回は瀬川に焦点を当て、遊女たちが直面する「個人の感情と疎外」の問題を掘り下げました。一方で、情報流通の影響は個人にとどまらず、社会の権力関係にも深く関わります。今回は、重三郎の細見が引き起こした権力闘争に注目し、吉原というシステムの中で情報がどのように流通し、それが権力の構造にどのような影響を及ぼしたのかを考察していきます。

 

 重三郎が手掛けた吉原細見『籬乃花』は、従来の倍以上の売れ行きを記録し、吉原内外で話題となりました。しかし、その成功の陰で、かつて偽本の罪で捕らえられた鱗形屋孫兵衛が、新たな青本『金々先生栄花夢』を発刊し、見事に復活を遂げます。彼は地本問屋・鶴屋喜右衛門らと手を組み、重三郎を排除しようと画策しました。地本問屋の仲間たちは、かつて交わした「細見の売り上げが倍になれば地本問屋に加わる」という約束をなかったことにし、吉原の主人たちに通達します。

 出版を通じて新たな地位を築こうとしていた重三郎にとって、これは重大な打撃でした。加えて、さらに衝撃的だったのは、鶴屋が「ここにいない仲間が話していたことですが…」と前置きしながら、「吉原の者たちは卑しい外道であり、市中にかかわらないでもらいたい」と言い放ったことでした。これを聞いた重三郎の養父・駿河屋市右衛門(忘八衆の一人)は激昂し、鶴屋を座敷から引き摺り出すと、そのまま階段から突き落とし、地本問屋の吉原への出入りを禁じると宣言しました。

 

 一見すると、重三郎は不条理な社会的暴力の被害者であり、駿河屋は彼を守ったかのように見えます。しかし、忘八衆の行動もまた、吉原というシステムを維持するためのものにほかなりません。駿河屋が守ろうとしたのは、遊女たちの尊厳ではなく、吉原という商業共同体そのものでした。彼は吉原が幕府公認の「独立した世界」であることを主張し、外部からの支配を拒絶しました。ですが、その自治の確立が本当に遊女たちの自由や幸福につながるのかについては、疑問が残ります。

 

遊女たちの自由とシステムの構造

 遊女たちは生き抜くために「自由」を手放さざるを得ませんでした。吉原に足を踏み入れるのは彼女たちの意思ではなく、経済的・社会的な制約の中で選ばされた道でした。その中で、「名花」として名を上げることが、自己を確立する唯一の手段となることもありました。

 身請けされることは、限限られた選択肢の中で「成功」とみなされるひとつの形であり、望んでその道を選ぶ者もいたかもしれません。しかし、それすらも、遊女がシステムの枠内で生きることを強いられる現実の一側面に過ぎません。

 駿河屋が守ろうとしたのは、遊女たちの個人としての尊厳ではなく、吉原というシステムそのものでした。そして、その枠組みの中で、遊女たちは「資産」として扱われ、重三郎もまた「その資産を効果的に宣伝する役割」として位置付けられていました。彼が志向した情報流通の自由化もまた、結局は吉原というシステムの一部として機能し、最終的には遊女たちの生き方をより強く縛るものへと変わっていくのです。

 

階段落としの象徴性

 階段落としは、支配者と被支配者の交代、権力の流動性、そして吉原のシステムの変遷を示す重要なモチーフです。興味深いのは、落とす側と落とされる側が入れ替わることで、単なる個人同士の対立ではなく、システムの維持や変革における権力の転覆を象徴している点です。

 

 最初に駿河屋が重三郎を落としたとき、それは「吉原の掟に従え」という強いメッセージでした。次に、重三郎が(意図せず)駿河屋を落とした場面では、駿河屋の権威が揺らぎ、重三郎が新たな情報流通の枠組みを築こうとする変化が示されました。そして、今回の駿河屋による鶴屋の階段落としでは、忘八衆が外部の介入を拒み、吉原の支配を維持しようとする意志が強調されています。

 つまり、階段落としは単なる制裁ではなく、支配の移行や権力闘争の縮図として機能しているのです。落とされる者がいるということは、その地位が揺らいでいることを意味し、一方で落とす側に回る者は、新たな権力を掌握しようとする動きを可視化します。この入れ替わりの連鎖は、吉原という社会が固定された支配構造ではなく、絶えず変化し続ける動的なものであることを象徴しているのです。

 

 さらに、この階段落としは、ドラマ自体のメタ的な仕掛けとしても機能しています。作中で描かれる情報の可視化が新たな枠組みを生み出す流れを、視覚的に示しているのです。階段落としによって、誰が権力を掌握し、誰が排除されるのかが一目でわかるようになっており、これは「権力関係」という情報が可視化されることで、新たな「権力関係(枠組み)」が生まれる様子を視覚的に表現しています。このように、階段落としは物語の象徴的な要素でありながら、同時にドラマ全体の主題を表現するためのメタファーとしても機能しているのです。

 

情報の可視化と権力の変遷

 江戸時代の吉原でも、現代のデジタル社会でも、情報の流通は単なる個人の自由ではなく、権力の変遷と密接に結びついています。可視化された情報が、既存の秩序を揺るがし、新たな枠組みを生む。吉原の細見を巡る争いは、この普遍的な構造を象徴的に描いています。現代においても、メディアやデジタルプラットフォームが情報を管理することで、新たな支配構造を生み出しているのではないでしょうか。情報の可視化が生む影響をより広い視点で捉え直すことが、私たちが情報社会を生きるうえで不可欠なのかもしれません。

 


 

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その七

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_008/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_008/#respond Fri, 28 Feb 2025 14:59:04 +0000 https://edist.ne.jp/?p=82261  名が広まることで、人は称えられ、道が拓ける。しかし、その光が強まるほど、影もまた濃くなる。期待はやがて重圧となり、善意で示された道であっても、いつしか逃れられぬ枷へと変わっていく。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。

 


第8回 逆襲の『金々先生』

 

 大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第8回では、情報流通がもたらす「可視化と不可視化の逆説」が鮮明に描かれていました。蔦屋重三郎が手がけた『籬の花』は、確かに吉原の繁栄を支える媒体として成功を収めました。しかし、それは遊女たちの未来を照らす光となったのでしょうか。それとも、彼女たちを縛る新たな影を生み出すものだったのでしょうか。

 この矛盾は、現代のメディア環境にも通じる問題です。情報が広く行き渡ることで、個人の存在はより鮮明に浮かび上がる一方で、その「可視化」が逆に「本音の不可視化」を引き起こすことがあります。SNSの発展により、誰もが自由に発信できるようになった一方で、フォロワーの期待やアルゴリズムの影響に縛られ、本当の自分を表現することが難しくなる状況が生まれています。そればかりか、本音を語ることが「裏切り」と見なされ、時には社会的な排除や攻撃の対象となることさえあります。この構造は、江戸時代の出版文化と現代の情報プラットフォームに共通する課題を浮かび上がらせます。

 

 今回は、江戸時代と現代の情報流通を比較しながら、第8話における瀬川の涙を手がかりに、感情労働や超現実といった概念を交え、情報流通の本質とその影響について考察していきます。

 

『籬の花』と「超現実」——侵食される私的領域

 新たな吉原細見として登場した『籬の花』の成功は、遊女たちの「商品価値の可視化」を促進しました。しかし、それは同時に、彼女たちの「私的領域の不可視化」をもたらしました。細見に名前や逸話が掲載されることで、遊女は「商品」としての価値を公に認知され、より多くの客を引きつける存在となります。しかし、情報が流通すればするほど、彼女たちの個人的な感情や自由は、ビジネスを阻害するものとして徐々に削がれていくのです。

 この現象は、ジャン・ボードリヤールが提唱した「超現実(ハイパーリアリティ)」の概念と密接に関係しています。ボードリヤールは、「現実を超えてリアルに見える虚構」が人々の認識を支配すると指摘しました。遊女たちにとって、『籬の花』はまさに「超現実」を生み出すメディアとなっていたのです。

 たとえば、『籬の花』によって「名花」としての瀬川が「物語化」されると、客たちは実際の彼女ではなく、「細見に記された瀬川像」に期待を抱き、吉原を訪れるようになります。こうして彼女自身の人格は次第に「名花としての瀬川」という虚構に塗り替えられ、自己を表現する余地を失っていきます。これは、現代のアイドルやインフルエンサーが理想の自分を演じ続けなければならない状況と極めてよく似ています。

 さらに、この情報流通の影響は遊女個人にとどまらず、吉原というシステム全体に及びます。『籬の花』が話題を集めるほど、細見での評価そのものが生存戦略として不可欠なものになっていくのです。その結果、遊女たちは「可視化競争」に巻き込まれ、常に自分を演出し続けることを求められるようになります。これは、情報が可視化されるほどに個人が演じる役割を固定され、自由を失っていくという、現代のメディア社会とも共通する構造を示しているのではないでしょうか。

 

「感情労働」としての遊女、そしてシステム暴力への転化

 アーリー・ホックシールドは著書『管理される心——感情が商品になるとき』において、「感情労働(Emotional Labor)」という概念を提唱しました。これは、労働者が業務の一環として「本心とは異なる感情を表現することを求められる」ことを指します。たとえば、航空会社の客室乗務員がどれほど理不尽な客にも笑顔を崩さずに応対することや、コールセンターのオペレーターが怒りを抑えながら丁寧な対応をし続けることが、そのステレオタイプです。

 本作では、この感情労働の構造が瀬川の苦悩として描かれました。彼女は「吉原随一の名花」として、常に優雅で魅力的な花魁であり続けることを求められます。細見が成功し、名が広まるほどに、彼女自身の「瀬川」としての存在は虚構化し、「理想の花魁像」を演じることが義務となっていきます。本来の感情を抑え、期待されたロールを全うすることこそが、彼女にとっての感情労働だったのです。

 

 さらに、ここで注目すべきは、重三郎の宣伝は「善意」から始まったにもかかわらず、システムの暴力へと転化する可能性があるという点です。

 

 本作では、瀬川の名声が高まりすぎたことで、吉原の構造そのものが新たな負担を生む様子が描かれます。特に印象的なのが、強蔵(精力旺盛な客)を相手にする瀬川の苦しみを知った重三郎が、「もっと瀬川をいたわれ」と激昂する場面です。しかし、その言葉に対し、他の遊女がこう詰め寄ります。

 

「ならば、わっちならかまわぬと? 空蝉ならかまわぬと?

瀬川でないのなら良いと? 誰かが相手をせねばならぬのでありんす。」

 

 この言葉が示しているのは、瀬川の人気が高まることで、彼女だけでなく他の遊女たちにも新たな負担が生じるという構造です。細見によって遊女の商品価値が明確に可視化されたことで、遊女たちは「推される存在」として競争させられることになりました。瀬川が成功することで、彼女が休む時間を確保するための負担が、他の遊女へと転嫁されていくのです。彼女の成功は遊女全体の待遇向上にはつながらず、むしろ「誰かがその穴を埋め合わせなければならない」というシステムの圧力を生み出してしまいました。

 

 結果として、瀬川と重三郎は吉原のシステムの中で孤立していく危険を抱えます。瀬川の名声は上がる一方で、彼女を支える吉原の構造が疲弊し、やがて「瀬川だけが特別扱いされている」という不満が周囲に蓄積していくのです。この状況は、現代における「人気クリエイター」や「トップインフルエンサー」が抱える孤立の問題にも通じます。個人の成功がコミュニティ全体の不均衡を生み、それが軋轢や嫉妬を引き起こすという現象です。

 

 感情労働を強いられた瀬川は、商品価値を維持するために理想像を演じ続け、やがてそのロールに絡め取られてしまいました。そして、その成功ですら、システムの負担を別の遊女たちに押し付けることで成り立っていたのです。これは、吉原という閉ざされた世界の中で生まれた問題でありながら、現代の情報社会や労働環境においても繰り返される普遍的な構造なのではないでしょうか。

 

 

瀬川の涙——感情労働と自己疎外の極致

 重三郎が「お前のおかげだよ」と感謝を述べ、『女重宝記』という女性の教養書を贈る場面は、一見すると彼の誠実な気持ちが表れているように見えます。しかし、この言葉が瀬川にとって「救済」ではなく、「疎外」として受け取られることが重要です。重三郎は彼女が「名のある武家や商家に身請けされ、幸せになってほしい」と願っていますが、それは彼自身の価値観に基づいた「理想の未来」であり、瀬川の本心とは必ずしも一致していません。

 身請け後の生き方を学ぶ本である『女重宝記』は、結局のところ、「わっちは重三郎にとって救うべき女郎の一人に過ぎないのか」という絶望を突きつけるものでした。瀬川の涙は、このOne of themのもどかしさと孤独感からこぼれ落ちたのです。

 

 この状況は、アーリー・ホックシールドが『管理される心——感情が商品になるとき』で指摘した「感情労働の自己疎外」のステレオタイプといえます。感情労働とは、労働者が仕事の一環として「本心とは異なる感情を表現すること」を強いられる状況を指します。瀬川は、『籬の花』の成功によって「幸福な花魁」というロールを演じ続けなければならなくなり、本来の自分を徐々に喪失していきました。

 瀬川が涙を堪えながら「莫迦らしゅうありんす」と呟いたのは、単なる失望からではありません。吉原から抜け出すことは、単なる社会的な身分の変化ではなく、「名花としての商品価値」から解放され、「ひとりの女性」として見てもらうことを意味していました。瀬川が本当に求めていたのは、「救済」ではなく、「愛」でした。しかし、重三郎は彼女の本心に気づくことなく、その願いを「合理的な成功」と決めつけています。その結果、彼は無意識のうちに彼女をさらに孤立させ、疎外していたのです。

 

 感情労働を続ける中で、自分自身を見失いかけた瀬川は、最後の望みとして、重三郎に「本当の自分」を拾ってもらいたかったのです。しかし、この期に及んで鈍感重三郎は、その想いに気づくことはありませんでした(平賀源内からそれとなく指南されていたにもかかわらず)。

 

 だからこそ、瀬川は「莫迦らしゅうありんす」と涙を噛み締め、九郎助稲荷から「ばーか、ばか、ばか!豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」と罵られることになったのです。

 

情報の「可視化」が生むパラドックス

 「情報の可視化」において悩ましいのは、その「情報流通の自由」が逆説的に「個人の自由」を奪いかねないことです。YouTubeが発信の自由を保証しながらも、その収益モデルを管理することで事実上の支配を確立しているように、重三郎の「善意」による可視化もまた、瀬川の「本当の自分として生きる自由」を奪い、彼女を虚構のロールへと縛り付けるものとなってしまいました。本来の自分ではなく、社会が求める「理想像」として生きることを強いられる――それこそが、情報流通の持つ力の影の側面なのです。

 このドラマが突きつける問いは、「情報の可視化は、本当に人を自由にするのか?」という点にあります。情報が広がることで、社会的な評価を得る機会は増えます。しかし、同時に、その評価に応えなければならないという新たな制約も生まれるのです。江戸時代の遊女たちも、現代のSNSユーザーも、情報流通の中で「自由」に見えて、実は「管理された自由」の中に生きているのではないでしょうか。

 

 情報の「可視化」が常に新たな「囲い込み」を生むパラドックス——それは、過去の吉原でも、現代のデジタル社会でも、私たちが向き合うべき本質的な問題なのです。


Info


多読アレゴリア2025春

【申込】https://shop.eel.co.jp/products/tadoku_allegoria_2025haru

【開講期間】2025年3月3日(月)〜2025年5月25日(日)

【定員】20名

【受講資格】どなたでも受講できます

【受講費】月額11,000円(税込)
 ※ クレジット払いのみ
 ※ 初月度分のみ購入時決済
 以後毎月26日に翌月受講料を自動課金
 例)2025春申し込みの場合
 購入時に2025年3月分を決済
 2025年3月26日に2025年4月分、以後継続

 ・2クラブ目以降は、半額でお申し込みいただけます。
 ・1クラブ申し込みされた方にはクーポンが発行されますので、そちらをご利用の上、2クラブ目以降をお申し込みください。

 


べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その七

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その七 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_007/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_007/#respond Fri, 21 Feb 2025 11:00:46 +0000 https://edist.ne.jp/?p=81938  表と裏の顔を使い分け、にやり、いやにたりと笑うと江戸の悪徳商人らしさたっぷりだった鱗形屋も、牢の中ではしおたれる。暗闇にうなだれた表情がこれからの没落を暗示させるような。鱗形屋の影は蔦重の踏み台になるのでしょうか。
 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けしま
す。



第7回「好機到来『籬の花』」

 蔦重のアイデアとプロデュース力が開花した回と言えましょう。


 入牢中の鱗形屋に代わり、誰が「吉原細見」を作るか。錦絵の出版で蔦重と欺いた西村屋とはりあい、今までの倍売れる吉原細見を作ったら、地本問屋の仲間入りをさせてもらうという約束を蔦重は取り付けます。


 ところで改めて、蔦重がこだわる地本問屋とは?

 「地本」の「地」は「地酒」の「地」と同じです。~(中略)~
近世初期、伝統に立脚した文化的要素の何も無かった江戸という人口都市は、文化的なもの(本も酒も調味料も)をすべて京都から移送されるものに依存していました。京都から下ってくるものはすべてよいものです。
京都で制作されたものから見ると格段に見劣りする地元江戸出来のチープな草紙類が「地本」なのです。


『本の江戸文化講義 蔦屋重三郎と本屋の時代』鈴木俊幸


 京都との文化の差から生まれた、少々見劣りするような言葉にも思える「地本」を、むしろ地方の読者が欲しがるものへと育て上げる一端を担ったのが蔦重でした。


 問屋仲間に入りたかった理由を、蔦重はこう語っています。「吉原が自前の地本問屋を持つことができる」。それにより、吉原を売り込み放題にできるのだと。


 ここから蔦重と、蔦重に巻きこまれた周囲の人々の奮闘が始まります。


 どんな細見が必要とされているか。
 手の届く女郎が載っていること(高嶺の花の花魁ばかり載っていても役には立たないですし)。
 薄いこと(なんといっても持ち歩きに便利です)。
 続いて本当の店の並びどおりに作ることにします(おお、そうすればまさに地図代わりのガイドブックそのもの)。


 吉原にある見世を全部載せるために、何度も修正し(協力すると、うっかり言ってしまった新之助が何度もキレていました)、一度は「そんな割の悪い仕事はできねぇ」という彫師を、「吉原での接待」という一言でコロリと転がし、あとは地獄の彫り地獄。これ以上は無理というほど細かい字での彫りを強いられた彫師が、彫刻刀を柱にびゅんと投げつける始末。
 何を言われてもしれっと「よろしくお願いします」と言ってのける蔦重と、吉原のための地本問屋の必要性を亡八連中に熱く語る蔦重。硬軟の二面性が光りました。


 そして西村屋の脅しにも負けず、ついに細見を作り上げたところに、さらなる強力な後押しが。
 それはNewsです。今の時代も街中で号外が出ると「飛ぶように」と枕詞をつけたくなりますが、西村屋が知り得なかったニュースを、花の井がもたらしてくれました。
 細見が売れるとしたら。花魁が名跡を継ぐ時(そういえば、歌舞伎も襲名公演はひときわ盛り上がるものですね)。吉原を盛り立てようとする蔦重の心意気に打たれた花の井と、花の井が身を置く松葉屋が、花の井の五代目瀬川太夫の継承を決めました。そういえば第2回で、平賀源内先生に対して「今宵のわっちは『瀬川』でありんす」と啖呵を切ったのが花の井。あの時から、瀬川になることは運命づけられていたのでしょう。


 ニーズを探り、手を抜かずに作りあげ、ニュースを捉えた蔦重の細見の方に、西村屋を除く地本問屋たちが群がりました。


 蔦重の細見はきっと江戸市中に流れていくのでしょう。最後に、真面目に学問をしていたはずの若者が、細見のせいで吉原に夢中になってしまう。そんな様子を詠んだ三間連結の川柳で締めたいと思います。

 

細見を四書文選の間(あい)に読み→足音がすると論語の下に入れ→

細見は分かり論語は分からねぇ


『吉原の江戸川柳はおもしろい』小栗清吾

 

 勉強しているふりをしながら、こっそり細見を読む若者。親の足音に慌てて論語の下に隠すものの、頭に入っているのは吉原のことばかり。

 ……蔦重の細見、どうやら出来が良すぎたようですねぇ。

 

 

Info


多読アレゴリア2025春

【申込】https://shop.eel.co.jp/products/tadoku_allegoria_2025haru

【開講期間】2025年3月3日(月)〜2025年5月25日(日)

【申込締切】2025年2月24日(月)

【定員】20名

【受講資格】どなたでも受講できます

【受講費】月額11,000円(税込)
 ※ クレジット払いのみ
 ※ 初月度分のみ購入時決済
 以後毎月26日に翌月受講料を自動課金
 例)2025春申し込みの場合
 購入時に2025年3月分を決済
 2025年3月26日に2025年4月分、以後継続

 ・2クラブ目以降は、半額でお申し込みいただけます。
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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_006/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_006/#respond Sun, 16 Feb 2025 04:30:02 +0000 https://edist.ne.jp/?p=81751  吉原の灯が妖しく揺れ、路地裏では密やかな囁きが交わされる。権力と欲望が絡み合う闇の中で、誰もが己の欲望を隠す「鱗」をまといながら生きている。しかし、一度その鱗が剥がれ落ちれば、露わになるのは生身の本性。それが純粋な信念なのか、それとも汚れた欲望なのか。

それは時に自らを蝕み、時に他者を傷つける刃となる。
 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。

 


 

第6回 「鱗(うろこ)剥がれた『節用集』

 

 NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第6回は、一見すると商業的な偽版問題を巡るエピソードのように見えます。しかし、この回が真正面から描いているのは、人間が社会の中でまとう「鱗」という虚構と、その剥がれる瞬間に明らかになる本質です。この「鱗」というモチーフを軸に、キャラクターたちの心理的葛藤、そして人間の持つ「影」の部分が浮き彫りにされます。


「鱗」とは何か?——人間がまとう虚構の鎧

「目から鱗が落ちる」という言葉があるように、本作では「鱗」が剥がれることで、主人公・蔦屋重三郎は自身の本質と向き合うことを余儀なくされます。それまでまとっていた「鱗」が剥がれることで、隠されていた真の姿が露わになり、否応なく自己を直視する瞬間が訪れます。それは、人間の持つ「光」と「影」のコントラストを際立たせる象徴的な
出来事でもあります。

「鱗」とは、本来、魚や龍が身を守るための防御器官です。それは外部からの攻撃に対して自分を保護する鎧であり、剥がれることで内部の柔らかい部分が露呈するものでもあります。

 人間社会において、この「鱗」は象徴的な意味を持ちます。人は自らの弱さや本音、欲望を隠すために「鱗」をまとい、社会における居場所を確保しようとします。しかし、状況が変われば、その「鱗」は役に立たなくなり、時に剥がれ落ちることもあります。

 物語冒頭で登場する「金々(きんきん)」と呼ばれる男たちは、流行の髷を結い、引摺りの着物をまとい、粋な遊び人のように振る舞いながら吉原を闊歩します。しかし、彼らの「鱗」はあまりにも薄っぺらく、少しの衝撃で剥がれ落ちてしまうものでした。遊女たちは彼らの虚飾を見抜き、冷ややかな目であしらいます。それでも、彼らは「本物」のように振る舞うことで、少しでも周囲の承認を得ようとするのです。


崩れゆく虚構——鱗形屋孫兵衛の終焉
 
 本回の中心となるキャラクターが、版元・鱗形屋孫兵衛です。彼は、吉原随一の版元として知られていましたが、その裏では偽版を密かに制作し、不正な利益を得ていました。彼の中には「正規の版元」という表の顔と「偽版を扱う闇の商人」という裏の顔がありました。

 しかし、長谷川平蔵による捜査によって鱗形屋の偽版が暴かれ、彼の「鱗」は剥がされます。「鱗」を剥がされた商人は、もはや社会という大海では生きていけません。鱗形屋が自分の息子とともに捕らえられるシーンは視聴者の心を揺さぶります。息子が父に追いすがろうとする姿、そしてその状況を沈痛な表情で見つめる主人公・蔦屋重三郎……。

 重三郎は鱗形屋の偽版に気づいていながらも、それを密告しませんでした。もし彼が告発していれば、鱗形屋の息子の人生を破壊したのは、重三郎ということになります。重三郎自身もまた、自らの選択の影響を強く感じているのです。


重三郎の葛藤——「影」との対峙


 ここで思い出したのが、心理学者カール・ユングのシャドウ(影)の概念です。ユングは、人間の無意識には「影」と呼ばれる、自分でも認めたくない部分が存在すると指摘しています。それは、抑圧された欲望や欺瞞、権力への野心といったものです。

 重三郎が鱗形屋を密告しなかった理由は、まさに自分の中にも「影」があることを直感的に理解していたからでしょう。鱗形屋を落とし入れることで自分の立場を強めることは可能でしたが、彼はそれを選びませんでした。むしろ、自分の中の野心と、それに伴う後ろめたさに苛まれていたのです。

 

 「(摘発される可能性があることを)なぜ言ってやらなかったんだ」

 

 摘発した長谷川平蔵の問いかけに、重三郎は光溢れる通りから、建物の影の中へと歩み入ります。

 

 「そりゃあ、心のどこかで望んでたんですよ」

 

 この場面のカメラワークは、重三郎の「影(シャドウ)」が顕在化する瞬間を強調しています。光から影へ。明るい世界から、闇の中へ。その移動は、彼の心の中に生まれた「変化」を視覚的に表現しています。

 そしてカメラは、重三郎の顔をアップにします。彼の口元には、自嘲気味の乾いた笑いが浮かんでいますが、その目は笑っていません。

 

「こいつ(孫兵衛)がいなきゃあ、取ってかわれるって」

 

 重三郎の手は、鱗形屋の看板に添えられています。それは、看板をかけ替えようとしているような仕草です。鱗の旦那がいなくなれば、俺が版元になれる……。彼もまた鱗形屋と同じように、「鱗」の下に「影」を隠していたのです。そして、この摘発で「鱗」が剥がれたのは鱗形屋だけではありませんでした、重三郎もまた「鱗」を剥がされ、その内面が剥き出しになり、苦痛に喘いでいたのです。

 

 甘き報酬、苦き余韻——粟餅に滲む後悔

 「俺は上手くやったんすよ。けど上手くやるっていうのは堪えるもんすね」


 「鱗」を剥がされた痛みに苛まれ、弱音を吐く重三郎に、長谷川平蔵は粟餅を差し出します。「濡れ手で粟」「棚から牡丹餅」いずれも、思いがけない利益を指す言葉です。そして、重三郎が受け取ったのは、それらを一種合成した粟餅でした。この粟餅という要素は、重三郎が図らずも得てしまった利益が、べらぼうに大きいことを強調しています。

 

「せいぜい有り難くいただいとけ。それが粟餅を落とした者へのたむけってもんだぜ」

 

 ここで、哀愁に満ちたレクイエムのような旋律が流れます。大きな利益も得たというのに、まるで葬送のようです。

 そして次のカットでは、重三郎を背中から捉えます。光の世界から、影の世界に佇む重三郎の背中を見つめる、という構図です。

 

「濡れ手に粟餅、有り難くいただきやす!」

 

 意を決して、重三郎は険しい顔で粟餅をほおばります。その大きめの咀嚼音が、倫理的妥協の代償としての心痛を強調します。

 カール・ユング『アイオーン』には、次のような記載があります。

 

影(シャドウ)は自我全体に道徳的挑戦を突きつける問題である。

誰も重大な道徳的努力なしに影を意識化できない。

 
 重三郎は、道徳上の心痛に耐え、自分の中の「影」を意識し、ついにその「影」を飲み込みました。「影」を受け入れた彼は、もはや以前の重三郎ではありません。哀愁に満ちた旋律は、重三郎がこれまでの自分を手放したことを暗示しているのでしょう。


ひび割れ始めた「鱗」——田沼意次の危惧

 

 そして幕府にも、「鱗」をまとって出自の悪さという「影」を覆い、幕府での居場所を確保した者がいます。言わずと知れた田沼意次です。

 田沼意次は、商業の発展を促し、財政難にあえぐ幕府を立て直そうとしていました。彼にとって、商人の力を利用することは「武士の力を高める手段」であり、幕府を支えるための現実的な政策でした。しかし、その方法は忠義と武威を尊ぶ朱子学の思想とは相容れず、旧来の幕府体制を支持する者たちから激しい反発を受けていました。

 

 特に、次期将軍・徳川家基は彼を強く敵視していました。

「家基は、余はそなたの言いなりで、そなたは幕府を骨抜きにする

成り上がりの奸賊であると考えておる」


 現将軍・徳川家治は、そう田沼に忠告します。

 家治の庇護のもとで権力を掌握していた田沼でしたが、家治から家基に代が変われば、田沼派は排除される危険があるということです。その瞬間、カメラは田沼の顔を捉えます。

 「奸賊」という言葉に、怒気と苛立ちが一瞬、彼の顔を支配します。しかし、すぐに呼吸を整えるようにまぶたを伏せ、冷静さを取り戻し、微かな自嘲の笑みを浮かべながら、「成り上がりは、否めませぬが」と低く呟きます。

 その言葉の奥には、彼自身が鍛えてきた「鱗」にひびが入りつつあることへの自覚があったのかもしれません。

 

 「鱗」を剥がされて失墜する者がいる。逆に、「鱗」をまとうことで活路を見出す者がいる。そして、剥がされまいと画策する者もいる。
本回は、この「鱗」の”剥がし剥がされ”に人間の生が大きく左右されることを見事に描き出しています。

 「鱗」が剥がれたとき、人は本当の自分と向き合うべきなのか、それとも、内面を守るために新たな虚構をまとうべきなのか。その答えは、粟餅を味わい尽くした者だけが知るのかもしれません。

 


 

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
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【多読アレゴリア:大河ばっか!】べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五 https://edist.ne.jp/just/taigabakka_005/ https://edist.ne.jp/just/taigabakka_005/#respond Fri, 07 Feb 2025 13:00:24 +0000 https://edist.ne.jp/?p=81099  数寄を、いや「好き」を追いかけ、多読で楽しむ「大河ばっか!」は、大河ドラマの世界を編集工学の視点で楽しむためのクラブです。
 ナビゲーターを務めるのは、筆司(ひつじ)こと宮前鉄也と相部礼子。この二人がなぜこのクラブを立ち上げたのか? それは、物語好きな筆司たちが、過去の大河ドラマを編集工学の型によって紐解き、その魅力を分かち合いたいという思いからです。

 節分が2月2日になるのは4年ぶり。その節分の日に放映された第5回は、「福内鬼外」こと平賀源内先生が大活躍の回となりました。

 


 

第5回「蔦に唐丸因果の蔓」

 

◆語られる限り、夢は次の世へ流れていくもの◆

 

 夢ってぇのは、ふしぎなもんだよ。「夢がある」と言やぁ前向きな響きがするのに、「夢物語」となると、途端に後ろ向きに聞こえちまう。

たしかに、世の中はそう甘くはない。夢は朝露みてぇなもんさ。日が昇りゃすうっと消えちまうし、指先で掬おうとすりゃ、ぽたりと落ちてしまう。そんな儚ぇものを語ったところで、無駄な話だって?でもねぇ、本当にそうかねぇ?夢を語ることが、そんなに無意味なことかい?夢ってのは、ただ口にしただけじゃ終わらねぇ。語る者がいて、聞く者がいて、拾う者がいりゃあ、いつかそれは「もし」に変わって、新しい現実になるかもしれねぇ。

 だからこそ、夢は語り続けることが肝心なのさ。夢がついえちまっても、誰かがそれを語り続ける限り、それは物語として生き続ける。物語になっちまえば、それは誰かの胸に残り、やがて次の世へとつながっていくのさ。夢は消えたときが終わりじゃない。夢が語られた瞬間、次の物語が始まるんだよ。

 

刹那の輝き、そして儚く散った夢

 

  秩父で鉄の精錬を試みた平賀源内は、火事を起こし、大損害を出しちまった。借金を背負い、金を返せと迫られ、今度は炭の商売に乗り出そうってんだから、まったくもって、しぶとい男さね。

 そんな源内に、蔦屋重三郎(蔦重)がぽつりと漏らした。「儲け話を考えて、人を集めて、金を集めて、一々大変なのでは?」すると、源内は笑いながら言ったのさ。

 

「自由に生きるってなぁ、そういうもんでさ。自らの思いによってのみ、わが心のままに生きる、わがままに生きるということを自由に生きるっていうのよ。」

 

 なるほどねぇ、夢を見る自由ってのは、こういうことを言うのかもしれないねぇ。人が思うように生きるには、世間のしがらみや掟を越えなきゃならねぇ。けれど、源内先生はそれをものともせず、まるで蔦のように、どんな障害があろうともするすると絡まり、手を伸ばせる先へと伸び続けるのさ。けんどねぇ、自由を貫くにも、夢を追うにも、まずは金がいるのさ。そこで源内は田沼意次のもとを訪ね、こう言い放った。

 

「開国しようじゃありませんか」

 

 異国と交易すりゃあ、幕府の堅物どもも「ものの値打ち」ってもんを知ることになる。この国じゃ、武士だの家柄だので人の価値が決まっちまうが、外国じゃそうはいかねぇ。ものの値打ちを決めるのは金銀銅、そして知恵と才覚。

 

「やつら(異人)が取り引きしてくれるのは(米ではなくて)金銀銅。人の値打ちだってそう。おりゃ、先祖が偉いんだってまくしたてても通じませんし、通じたところで、『は、それで?』って話でしょ。」

 

 これが、開国すれば世の中が変わる、って話につながるわけさ。言葉を覚えた幇間(ほうかん)が通詞(通訳)になり、商才のある町人が異国の商人と渡り合い、力のある者が身分に縛られずに生きていける時代が来る。そうなりゃあ、先祖の名だの格式だのじゃなく、「今、何ができるか」で人の価値が決まる世の中になる。力のある者が身分に縛られずに生きていける時代が来る——。そんな未来を、二人は夢見た。

 

 だが、意次はため息をついてこう言った。

 

「開国すれば、あっという間に属国になるだろう。」

 

——その一言で、夢は砕けた。手元でふわりと揺れていた灯火が、ひと息で消されちまうように。けれど、そこで終わりかい? いいや、夢ってやつはそう簡単に消えはしないのさ。夢がついえたなら、その続きを考えるのが人間ってもんだ。源内と意次が夢見た開国の物語。それが誰かの耳に届いたとき、こう思うかもしれない。

 

 もし、属国にならずに開国する道があるとしたら……?

 この「もし」が生まれた時点で、夢はまだ生きている。そして、それを考え続ける者がいる限り、夢は形を変えながら、次の時代へと受け継がれていく。それは、唐丸の話とおんなじさね。

 

夢が枯れても、語り続けりゃあ、また花が咲く

 

 唐丸は、天才的な絵の才能を持っていた。だが、唐丸の過去を知るという浪人に脅され、蔦屋の銭箱に手をつけ、姿を消した。更に悪いことに、その浪人が川で溺死体となって発見された。唐丸は盗人どころか、人殺しの仲間と噂され、名を汚されることになったのさ。

 

 その前夜、蔦重は楽しそうに語っていた。「おめぇを、当代一の絵師にしてやるよ」。けれど、唐丸はどこか遠くを見つめるように微笑んで、静かに言った。「そうなるといいね」——その言葉は、まるで遠い未来へ向かってつぶやかれたもののようだった。

 

 唐丸失踪後、九郎助稲荷で何も知らなかったことに落ち込む蔦重に、花の井はそっと言った。

 

「真実がわからないなら、できるだけ楽しいことを考える。

それが私たちの流儀だろう?」

 

 そうさ、夢が潰えたなら、新しい夢を紡げばいい。ならば唐丸には、新しい物語を与えてやろうじゃないか。

 

 唐丸は大店の倅だった。後妻に疎まれ家を追われるように出たものの、やがて戻ってきた——けれど稼業に身は入らず、ただ筆を握って、

ひたすら絵を描き続けた——。

 これが花の井の見た夢、いや紡いだ物語。

 

「きっと、唐丸は絵を捨てきれねぇ。いつかまた戻ってくるさ。」

 

 蔦重は、そう言って口元を歪めた。唐丸がどこへ消えようと、噂がどう広がろうと、この江戸に戻ってきたときには——

 

「そのときは、『謎の絵師』として売り出してやるよ。」

 

 現実の唐丸は消えちまった。だが、それなら新しい唐丸というキャラクターを仕立てて、語ればいい。盗人でも、人殺しの仲間でもなく、世を忍ぶ「謎の絵師」として、江戸に蘇らせるのさ。夢は一度は砕け散った。けれど語り続ける限り、唐丸は「物語のなかの絵師」として生まれ変わる。

 そして、いずれ誰かが「もし、この謎の絵師が本当にいたなら?」と「もし」を語り継げば、唐丸という存在は、ただの噂話ではなく、伝説となって生き続けるのさ。

 

◆さぁ、あなたの大河を紡ごうじゃあないか◆

 

 語られる夢の数だけ、新しい物語が生まれる。夢が生まれるたびに、それを語る者がいて、聞く者がいて、そこからまた、新たな「もし」が生まれる。

 

 もし、田沼意次が開国に踏み切っていたら——
 もし、唐丸そのままが絵師として世に出ていたら—

 

 さぁ、あなたも歴史からたくさんの「もし」を集めて、新しい大河を生み出そうじゃないか。物語は、語られるうちは途切れることはない。夢がある限り、大河のように、どこまでも続いていくのさねぇ。



多読アレゴリア2025春「大河ばっか!」


【定員】20名(各クラブごとに定員が異なります。定員になり次第、締め切ります)
【申込】https://shop.eel.co.jp/products/tadoku_allegoria_2025haru
【開講期間】2025年3月3日(月)〜2025年5月25日(日)
【申込締切】2025年2月24日(月)
【受講資格】どなたでも受講できます
【受講費】月額11,000円(税込)
 ※ クレジット払いのみ
 ※ 初月度分のみ購入時決済
 以後毎月26日に翌月受講料を自動課金
 例)2025春申し込みの場合
 購入時に2025年3月分を決済
 2025年3月26日に2025年4月分、以後継続

 ・2クラブ目以降は、半額でお申し込みいただけます。
 ・1クラブ申し込みされた方にはクーポンが発行されますので、そちらをご利用の上、2クラブ目以降をお申し込みください。

 



べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_004/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_004/#respond Fri, 31 Jan 2025 13:00:31 +0000 https://edist.ne.jp/?p=80759  田安家当主の死が不穏な影を落とし、亡八衆が猫を抱きながら笑いさざめく。無慈悲な真実と甘美な欺瞞を行きつ戻りつ、おちこちで沸騰する欲望は歓喜を狂騒へと変え、やがて主人公・蔦屋重三郎を追い込んでゆく。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。

 


 

第4回 『雛(ひな)形若菜』の甘い罠(わな)

 

 NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第4回は、文化と経済が交差する地点で生じる闘争を描いています。主人公の蔦屋重三郎は、浮世絵を単なる娯楽ではなく、広告メディアとして活用するビジネスモデルを考案しました。しかし、既存の流通構造を支配する地本問屋に阻まれ、出版業界の権力構造と資本の力学を十分に把握しきれないまま、苦汁をなめることになります。この物語は、単なる個人の挑戦と挫折を描いたものではなく、文化と経済の関係性における「不足の発見」のプロセスそのものであると言えるでしょう。
 本エピソードを読み解くためには、ピエール・ブルデューの「資本」の概念と、編集工学における「不足の発見」を組み合わせることが有効です。

 

重三郎の試みと資本の不足

ブルデューは、社会的な力を形作る資本を以下の4つに分類しました。

 

・経済資本(財産、収入、資金力)
   例:呉服屋などのスポンサーからの出資や、出版事業の運営資金

・文化資本(知識、創造力、芸術的価値)
   例:浮世絵や読本を生み出す作家や絵師の才能、出版のノウハウ

・社会関係資本(人脈、信頼関係、流通ネットワーク)
   例:地本問屋との取引関係、商人やスポンサーとの信頼関係

・象徴資本(名声、ブランド力、社会的評価)
   例:「日本橋界隈の版元」としての格、出版業界内での知名度

 

 吉原細見(一目千本)を成功させた重三郎は、次の一手として、呉服屋から入銀(スポンサー料)を募り、店の着物をまとった遊女の錦絵を制作する計画を立てました。これは、錦絵を単なる娯楽商品ではなく、広告メディアとして活用する試みであり、彼の持つ文化資本(創造力・アイデア)を生かした画期的な発想でした。しかし、錦絵を広告メディア化するビジネスでは資金集めに苦戦し、計画が頓挫してしまいます。これは、単にアイデアの良し悪しではなく、市場のスケールや流通構造の違いが影響しています。
 吉原細見は、吉原遊郭に特化した情報を提供するガイドブック的な出版物であり、読者層が限られていたため競争が少なく、比較的参入しやすい市場でした。また、遊女や茶屋の協力を得ることでスムーズに資金調達ができた点も、成功の要因となりました。

 一方で、錦絵は江戸全体を対象とする娯楽メディアであり、市場規模が大きい分、競争が激しく、流通も地本問屋が独占していました。したがって、錦絵の市場に参入するには、地本問屋との取引関係(社会関係資本)や、版元としての信用(象徴資本)が不可欠でした。
 また、錦絵の制作には吉原細見よりも多くの資金が必要でした。経済資本(制作費)を補うために、まず重三郎は呉服屋たちを接待し、スポンサーとしての支援を得ようと試みます。しかし、重三郎には象徴資本(名声・ブランド力)が決定的に不足しており、育ての親である駿河屋市右衛門から「吉原のけちな刷り物屋が、まともな錦絵を上げてくるなんて思うか?」と一蹴されるシーンが象徴するように、呉服屋からの信用を十分に得ることができませんでした。そのため、資金提供を受けることも叶わず、計画は行き詰まってしまいます。
 そんな重三郎に救いの手を差し伸べたのが、西村屋でした。彼は自身の持つ社会関係資本(地本問屋の流通網)を活用し、重三郎の企画をバックアップすることを提案します。重三郎にとっては、まさに渡りに船とも思える申し出でした。しかし裏では、西村屋は重三郎の文化資本を利用し、最終的には利益を独占して重三郎を排除する策略を巡らせていました。

 

西村屋の戦略と出版業界の力学

 西村屋の属性は「地本問屋」「既得権益層の代表」「策士」「体制維持者」「商業的リアリスト」であり、要素として「狡猾さ」「保守性」「経済合理主義」を備えています。
 地本問屋のネットワークは、「流通の支配者」として市場を独占しており、新規参入者にとって大きな障壁となっていました。これは、現代においてGoogleやAmazonが検索エンジンやECプラットフォームの分野で市場を独占的に支配し、広告や流通において圧倒的な影響力を持っている構図とよく似ています。

 文化資本は、それ単体では市場における影響力を持ちません。経済資本や社会関係資本と結びついて初めて、商業的な価値を生み出します。
 例えば、ピカソの絵画は、単なる芸術作品としての文化資本に留まるものではなく、評論家による評価(象徴資本)、美術館での展示(社会関係資本)、オークション市場での取引(経済資本)と結びつくことで、市場価値を確立しています。この仕組みは現代のアートビジネスにも当てはまり、村上隆とルイ・ヴィトンのコラボレーションのように、ブランドの象徴資本とアーティストの文化資本が融合することで、新たな商業的価値が創出されるケースも多く見られます。

 重三郎もまた、浮世絵を広告媒体として活用するという画期的なアイデアを持ち、文化資本には恵まれていました。しかし、それを市場に流通させるための経済資本(資金)、社会関係資本(業界内ネットワーク)、象徴資本(名声・ブランド力)を十分に持ち合わせていなかったため、事業の成功には至らなかったのです。

 

重三郎の転機——社会関係資本の構築と文化資本の創出

 ラストシーンで声を荒げていた重三郎の姿が象徴するように、今回の敗北は彼に「文化資本だけでは巨大な市場を動かすことはできない」という厳しい現実を突きつけました。しかし、この挫折は終わりではなく、新たな戦略へと踏み出す契機となります。これまでアウトサイダーとして独自の道を切り開こうとしてきた彼は、一度はシステムの内側に身を置き、その仕組みを学ぶ決断を下すでしょう。そこには、自らの立場を強化し、次なる挑戦へとつなげるための新たな「不足」が待っているはずです。
 江戸の出版業界は、既に確立された強固なネットワークによって支配され、新規参入者にとって容易に突破できるものではありません。重三郎は、その現実を受け入れた上で、どうすればこの壁を越えられるのか、次なる一手を模索することになります。

 そんな中、重三郎は思いがけず、社会関係資本の構築とは別の可能性を発見します。それは「象徴資本を自前で発掘・育成すること」であり、その象徴となるのが唐丸です。
 西村屋の計らいで、錦絵の下絵を手掛けることになったのは、美人画を得意とする名絵師・礒田湖龍斎(鉄拳)。しかし、仕上がったばかりの下絵が、猫のいたずらによって水浸しになり、台無しになってしまいました。顔面蒼白になる重三郎に、唐丸は思いがけない提案をします。

 

「蔦重、試しにおいらに直させてもらってもいい?」

 

 重三郎は半信半疑でしたが、唐丸が湖龍斎の筆致を完璧に再現しながら描き始めると、その見事な技術に圧倒されます。「俺には元の絵にしか見えねえ」と感心する重三郎。「おめえ、なんでこんなことできんの?」と問いかけると、唐丸は不思議そうに「なんでだろ…」と答えるばかりでした。

 

この瞬間、重三郎は確信しました。

 

「お前はとんでもねえ絵師になる! 間違いなくな。俺が当代一の絵師に

  してやる!」

 

 これまで誰からも認められたことのなかった唐丸にとって、この言葉は衝撃的でした。「おいら、そんなこと言われたの初めて」と、目を輝かせながら喜びを爆発させる唐丸。その様子を見た重三郎の表情にも、彼の未来に対する確信と期待がにじんでいました。
 こうして完成した錦絵を見た湖龍斎も、まさか少年が復元したとは気づかず、「よく仕上がっておる」と満足げに頷きます。まさに、唐丸は偶然の出来事によって、自身の秘められた才能を証明したのです。

 もし、この唐丸をプロデュースし、一流の絵師として育て上げることができれば、重三郎自身の文化資本はさらに強固なものとなり、それが象徴資本へと転換される可能性があります。
 実際に、重三郎は、当時無名だった喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出し、彼らを世に送り出した出版人として知られています。その視点から見れば、今回の唐丸のエピソードは、あの“謎多き絵師”の誕生につながる伏線とも考えられます。

 

 敗北を経験し、「社会関係資本の構築」という新たな道を模索し始めた重三郎。さらに、無名の才能を発掘し、それを育成することで市場を切り拓くというもう一つの可能性を手に入れました。

 重三郎は、これからどのような不足を発見し、どのように進化していくのか。そして、唐丸の成長が物語にどうかかわってくるのか。

 今後の展開に注目です。

 


 

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_003/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_003/#respond Fri, 24 Jan 2025 10:00:43 +0000 https://edist.ne.jp/?p=80408  血はつながっていない養子とはいえ、親に認められるのは嬉しいこと。手にとった『一目千本』をめくりながら思わず笑ってしまった駿河屋さん(蔦重の養父)の顔こそ、蔦重に見せてあげたかった。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。



第3回「千客万来『一目千本』」


 第2回は花魁・花の井と平賀源内が主役のような回でしたが、今回こそは蔦重の出番。源内先生が書いた序のついた『吉原細見』は評判にはなったものの、吉原は寂れる一方。
 そこで蔦重は次の手を繰り出します。今でいうところのフリーペーパーみたいなもの、でしょうか。女郎さんたちの見本帳のような冊子を企画します。入銀本という、掲載料を多く支払えば支払うほど、紙面のいい位置を確保できるという。こうやって女郎から、いや、その後ろにいる馴染みの旦那方からお金をかき集め、『一目千本』ができ上がりました。
 もう一つの手法が「見立て」に「アワセ」。人の姿をそのまま描いても違いがうまく伝わらない。花に見立てることで、女郎の個性が光り出す、とまぁ、こういうわけです。表紙に「華すまひ」と書かれていましたが、相撲仕立て。花の相撲とは何とまた優雅なことか。
 さらにダメ押し、銭湯、居酒屋、髪結床など、人がたむろするところに配ったのは見本だけ。吉原に来れば全部見ることができるよ、とチラ見せの手法。
 こうして吉原に大勢の人が戻ってきます。

 寂れた吉原でお茶ひいている女郎も総出ででの本作りは見応えがありました。江戸の本作りの世界をのぞくとしたら、三谷一馬『江戸商売図絵』に手を伸ばしたい。
 衣、食、薬、住、旅人、芸能、願人坊主・物買い、旅、季寄せ、雑という10の分類で、実に300以上もの職業を紹介しています。原画を著者の三谷氏が模写し、そこに短い解説がつけられています。

 例えばただいまの蔦重の職業、貸本屋でいうと、黄表紙『七福神大通伝』北尾政演の絵を模写しています。おお、北尾政演といえば山東京伝の浮世絵師としての号。今回、絵師として活躍した北尾重政門下でもありました。

 さて今回でいうとまずは彫師です。絵巻物『近世職人尽絵詞』の眼鏡をかけているように見える彫師が彫刻刀を持って机に向かっている姿が模写されています。解説を見てみましょうか。

彫師は摺師より格が一枚上だとされていました。また彫りには字掘りと絵彫りの別があり、字彫りは武家の内職でした。字堀りには学問が必要だったからです。

 
 その隣の頁で摺師が紹介されています。模写したのは、鈴木年基の草稿。解説では

職人気質で気の向くまま、横箱(摺り道具を入れた箱)を担いで仕事場を転々とする渡り者が多かったようです。馬連(薄く丸い芯を竹の皮で包んだもので、摺る時の道具)があれば飯に困らなかったといいます。


 と書かれています。

 著者の三谷氏は冒頭に

商売の意味を広く解釈して、あらゆる庶民の生業の姿を荒らしたものです。
これ等の職人、商人は当時としては極く普通の人達ばかりですが、今から見ると随分珍しいものがあります。
古い昔の故かもしれません。


と書きました。


 今はなくても名前を見れば想像がつくものあり、さっぱり見当のつかないものあり(定斎屋、紅かん、うろうろ舟。これなんだかわかりますか?)。けれど、絵を見ていると、こんな人たち(何せ職種だけで300、ということは、この本には300人以上の人が描かれている!)が行き来する街を思い、画面で吉原にぞろぞろと来ていた衆のなりわいにも思いをはせることができそうです。

 そして…「若き日の鬼平は野暮だった」なんて書いてしまいましたが。入銀本のためについには親の遺産を食い潰し、あの花の井から「五十両で吉原に貸しを作った男なんて粋の極みなんじゃないかい」の言葉を引き出した。一気に、大通、そう、遊里に通じた粋人となりました。またどこかでお会いできるのでしょうか。

 



べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_002/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_002/#respond Sat, 18 Jan 2025 14:14:58 +0000 https://edist.ne.jp/?p=80254  吉原炎上。栄華をほこる街が火の海に消えるという衝撃のシーンで幕を開けた今年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」。大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。

 


 

第2回 吉原細見『嗚呼(ああ)お江戸』

 

 2025年の大河ドラマ『べらぼう』のワールドモデルは、江戸中期という「抑圧と挑戦がせめぎ合う時代」を背景としています。平和が長く続くと、社会は安定と同時に硬直化し、抑圧や停滞感が生まれることは歴史が繰り返し示してきた宿痾のようなものです。戦乱の終結により武士の軍事的役割は薄れ、その存在意義が揺らぐ中で、多くの武士は伝統的な規範や価値観を守ることで自らの権威を維持しようとしました。一方で、圧倒的な経済力を持つ商人の台頭が社会全体のバランスを揺るがし、江戸社会に新たなヒエラルキーを生み出していました。

 

 商人たちが豊富な経済力を背景に社会的影響力を拡大していくと、その存在は武士階級の権威を脅かすものとみなされました。この状況に対処するため、幕府は出版統制や奢侈禁止令を強化し、贅沢な消費を取り締まることで、商人の台頭を牽制しようとしました。これらの規制は文化や商業活動を抑え込むものでしたが、一方で抑圧の中で新たな創発を生むきっかけにもなりました。風刺画や浮世絵、町人文学といった新しい表現が規制の隙間を縫う形で次々と誕生し、江戸文化に独自の活力をもたらしました。

 

 同時に、商人の力を積極的に利用する武士も現れました。その象徴的な存在が田沼意次です。田沼は商人の経済力を巧みに取り込み、経済的な手綱を握ることで、武士の権威を新たな形で再建しようとしました。商人との連携を通じて、武士階級の存在意義を再編集しようと試みた彼の姿勢は、従来の伝統的な価値観に縛られた硬直的な姿勢とは、一線を画しています。このような経済を基軸とした新たな価値観の模索と、伝統を守ろうとする動きがせめぎ合う中で、江戸中期の社会構造は表面的には安定しているようでありながら、内側では大きな変化の兆しを孕んでいました。

 

 このような江戸中期のワールドモデルの特徴は、2025年の現代社会とも深く共鳴する部分があります。急速な技術革新や新しい価値観の登場に対し、既得権益層がその変化を抑え込もうとする構造は、江戸時代の抑圧的な状況と驚くほど似通っています。また、経済格差の拡大が新たな社会階層を生み出し、社会全体に停滞感をもたらしている点も共通しています。この「江戸中期と2025年の相似点」を浮き彫りにすることも、現代の大河ドラマとして江戸中期のワールドモデルを再現する意義の一つであると言えるでしょう。

 

 蔦屋重三郎を駆り立てる心理的要素は、停滞した社会のヒエラルキーがもたらす悲しみ、そして、その閉塞的な構造をどうにかして変革してやろうという炎のような闘争心です。第二話では、吉原という閉ざされた空間を文化的・経済的に再編集する挑戦に踏み出す姿が描かれます。試練を乗り越え、覚醒を経て成長していく重三郎。その成長に、田沼意次、花の井、平賀源内といった個性豊かなキャラクターたちが絡み合い、ストーリーに厚みをもたらしています。抑圧の中で生まれる編集力がどのように成長し、やがて社会を動かす力へと昇華するのか――その核心を、私たちは『べらぼう』を通じて識ることができるでしょう。


<樽詰めからの覚醒(重三郎の擬死再生)>

 第一話で、重三郎は吉原の衰退を食い止めるため、非公認の店を取り締まるべく、警動(町奉行による摘発)を動員するよう田沼意次に直訴します。彼の行動は吉原の復興を目指したものでしたが、「吉原だけのために警動を動かすことはできない」と一蹴され、重三郎は自身の視野の狭さや思慮の浅さを思い知らされます。

 第二話では、この出過ぎた行為が吉原内部に新たな緊張をもたらします。重三郎の行為は、吉原全体に無用な疑いを向けられる可能性を作ったとして、女郎屋や引手茶屋の主人たちの反感を買い、重三郎は三日三晩、樽の中に閉じ込められるという屈辱的な仕打ちを受けることになります。しかし、この出来事は、彼にとって単なる挫折ではなく、革新者として再生するための重要な転機となるのです。


▶田沼意次の示唆
 田沼の「人を呼ぶ工夫が足りないのではないか」という一言は、重三郎に対して、時代の変革には単なる行動力だけではなく、創意と視点の転換が必要であることを教えるものでした。田沼の言葉は、経済と文化を融合させ新しい価値を創発するというヒントを与え、重三郎に新たな可能性を考えさせる契機となります。


▶樽詰めの象徴性
 樽詰めという仕打ちは、秩序を守ろうとする保守的な勢力と、変革を目指す重三郎との対立を象徴しています。一方で、この試練は、重三郎が自身の限界と向き合い、革新者として新たに生まれ変わるための通過儀礼でもありました。重三郎は樽の中で深い内省を重ねる中、「吉原をどのようにすれば人々にとって魅力的な場所にできるか」について具体的なアイデアを見出します。それは、吉原細見(吉原ガイドブック)の再編集でした。それまでの吉原細見は、単なる遊郭案内帳でしたが、重三郎はこれを、吉原の魅力を発信する宣伝ツールに作り変えることを思いつきます。

 この瞬間、重三郎の属性は大きく変化しました。試練を経る前の彼は、吉原の衰退に対する危機感を持ちながらも、行動は感情や衝動に基づいたものでした。しかし、樽詰めという極限状態の中で、彼は吉原という空間を「文化・流行の拠点」として再編集する視点を得ました。改革を求める直情的な理想家から、具体的なビジョンを描き、実行できる革新者へと進化したのです。
 
<天才を呼び覚ます花魁の機転>
 樽詰めを経て、新たな視点と決意を得た重三郎は、吉原細見の序文執筆を依頼するため、「平賀源内を知る者」と名乗る人物を訪ねます。その人物に依頼を取り次いでもらおうとする重三郎でしたが、予想外の条件を提示されます。「吉原に連れて行ってもらえれば、考えてやる」というのです。さらにその人物は「瀬川」という名跡の花魁を指名しますが、その名跡はすでに存在せず、重三郎は窮地に立たされます。
 このとき、重三郎を救ったのが花魁・花の井でした。彼女は咄嗟に機転を利かせ、男装して「今宵限りの瀬川」として振る舞います。その巧みな演技は「源内を知る者」の心を掴み、重三郎の目的を前進させることとなります。そして宴が進む中で、「源内を知る者」として振る舞っていたその人物こそが、実は源内本人であることが明らかになります。源内は、重三郎の熱意と花の井の対応に心を動かされ、最終的に吉原細見の序文執筆を引き受けます。このシーンは、花の井の知恵と行動力だけでなく、平賀源内という人物の複雑な内面を際立たせる場面でもあります。


▶源内と花の井が織りなす対話の深層
 源内が「瀬川」という名跡に執着した背景には、彼の内面に潜む郷愁や過去への切ない想いが反映されています。「瀬川」は源内にとって、かつて心を揺さぶられた美しい記憶や芸術的な感動の象徴であり、単なる名跡を超えた存在でした。それは、彼の創作意欲を支える源泉とも言えるものだったのです。
 花の井は、源内の抱える感情を敏感に察知し、その心に寄り添う形で応えました。彼女が演じた「今宵限りの瀬川」は、源内が心の中で追い求めていた記憶や理想を再現するものであり、その演技は源内の感情に深く響きました。この一夜のやり取りは、源内にとって失われた過去に触れるひとときであり、彼の中に眠る創作意欲を呼び覚ます鍵となりました。
 一方で、花の井にとってこの行動は、単なる機転の利いた演技以上の意味を持ちます。彼女は吉原という世界に生きながらも、その役割を超えて人の心に寄り添うことを使命として体現していました。源内の記憶を共に辿るように振る舞う彼女の姿勢には、花魁としての誇りと知恵、そして他者の感情に共鳴する能力が強く表れています。

 

▶記憶と感情が生む創作の火種
 花の井との一夜を通じ、源内は「失われた記憶」に触れるという貴重な体験を得ました。この体験は単なる遊興にとどまらず、源内の内に眠っていた創作意欲を再び燃え上がらせる火種となります。彼が執筆した吉原細見の序文は、「完璧な器量を持つ女などこの世には存在しない。それでも吉原ならば、誰しも“いい人”を見つけられる」とシニカルに記し、理想の代替を享受することの本質を描き出しています。この内容には、源内自身が「今宵限りの瀬川」と過ごした一夜に込められた自身の感情と記憶が反映されています。二人のやり取りは、過去と現在、記憶と感情が交差する象徴的な瞬間として描かれ、源内の創作の深層を鮮やかに浮き彫りにしています。


<革新者・田沼意次と保守派の対立>
 田沼意次は、資本経済を軸にした改革を推進する中で、保守派の老中の批判に直面していました。その対立は、幕府内の権力闘争だけでなく、時代の価値観の転換を象徴するものでした。田沼が目指したのは、商人の経済力を利用し、武士の権威を新しい形で再建することでしたが、その革新性は保守派にとって受け入れがたいものでした。

 

▶祝宴における対立
 第二話の中で、田沼と保守派の対立を象徴する場面の一つが、一橋治済の嫡男・豊千代誕生を祝う宴席でのやり取りです。治済が「いっそ傀儡師(人形遣い)にでもなろうか」と軽口を叩いた際、田安賢丸(後の松平定信)は、「我らに流れる吉宗公の血を、武門の血を何とお考えか」と真剣に非難します。さらに、保守派の老中は田安賢丸の発言を擁護する形で「むしろ見習うべきではないか」と述べた一幕は、田安賢丸の考えに賛同しつつ、経済重視の田沼意次の改革を間接的に批判するニュアンスを含んでいます。

 

▶寛政の改革への伏線
 田安賢丸の思想や発言は、後に彼が松平定信として行う「寛政の改革」の伏線とも言えます。定信が老中首座として行った寛政の改革は、田沼意次の改革が招いた「専横」とみなされる政策や、商人の台頭による社会の歪みを是正しようとするものでした。寛政の改革では、倹約令の発布や質素な生活の奨励などを通じて、武士階級の権威を再び確立し、幕府の威信を取り戻そうとしました。その出発点には、この祝宴での田安賢丸の発言が象徴するような、田沼政治への批判と武士道回帰の意識があったと言えるでしょう。

 

▶治済の微笑み
 作中では、田安賢丸と一橋治済の微妙な緊張感を象徴する場面として、治済がニヤリと笑うシーンが描かれています。この笑みは、後に徳川将軍家の後継争いが激化し、治済が田安賢丸の暗殺を画策するに至る事件の伏線として解釈することができます。 一橋治済は、息子である豊千代(後の徳川家斉)を将軍に据えるため、田安賢丸という有力な後継候補を強く警戒していました。この場面では、武士道を重んじる潔癖な態度で保守派の指示を集める田安賢丸に皮肉を込めた視線を送り、ニヤリと笑うことで、自身が抱える野心と策謀をほのめかしています。この笑みは、治済の計算高さや狡猾さを際立たせるだけでなく、将軍後継争いという幕府内部の緊張を象徴するものでもあります。


<吉原に灯る絆の光>
 第二話がクライマックスを迎えるのは、花の井が重三郎に「あんたはひとりじゃない」と語りかける場面です。このシーンは、孤軍奮闘してきた重三郎が抱えている孤独や葛藤を解きほぐすだけでなく、仲間と共に変革を目指すことの意義を認識させる転機となっています。

 

▶花の井の共感と支え
 花の井の「朝顔姉さんのこと悔しいのは、あんただけじゃない」「あんたはひとりじゃない」という言葉には、吉原に生きる人々の切実な思いと共感が込められています。花の井自身も、吉原という閉ざされた空間で、自分の限界を受け入れながらも懸命に生き抜いてきた一人です。だからこそ、彼女は重三郎が吉原に希望の光をもたらそうと奮闘する姿に強く心を動かされ、その挑戦に深く共感していました。この言葉は、単なる励ましを超えたものであり、重三郎にとって転機となるものでした。彼の取り組みが、単なる個人の夢や野心ではなく、吉原に生きるすべての人々の未来を左右する挑戦であることを再認識させたのです。その一言が、重三郎の胸に深く響き、彼の孤独を癒すとともに、新たな使命感と責任感を芽生えさせました。花の井の言葉は、重三郎の決意を一層強くする原動力となったのです。

 

▶吉原の可能性を信じるバディ
 花の井は、単なる遊郭の象徴的存在ではなく、知恵と感受性を兼ね備えた文化的媒介者として描かれています。彼女は、自分が直接的に変革を成し遂げる立場ではないことを理解しながらも、限られた状況の中で自身の果たすべき役割を全うしようとしています。「あんたはひとりじゃない」という彼女の言葉には、自分と同じく吉原の可能性を信じる重三郎への強い信頼と期待が込められています。花の井は重三郎の心強いバディとして、これからも物語の中で重要なロールを担っていくことでしょう。

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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一 https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_001/ https://edist.ne.jp/nest/taigabakka_001/#respond Sat, 11 Jan 2025 04:30:12 +0000 https://edist.ne.jp/?p=80085  吉原炎上。栄華をほこる街が火の海に消えるという衝撃のシーンで幕を開けた今年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。



第1回「ありがた山の寒がらす」

 「元気いっぱい」。主人公・蔦屋重三郎(以後、蔦重と省略)を見ていると、そんなフレーズをぺたっと額に貼り付けたくなります。
 火事を知らせる半鐘をつき、禿たちが助けたいと言った稲荷をかつぎ(火事場から逃げるのに…)、幼い頃、優しくしてくれた元・花魁、今は落ちぶれた女郎が餓死したことに憤慨して、女郎屋や引手茶屋の主人達の宴席の場に乗り込み、食べていけない女郎たちへの炊き出しを求める。断られると「とにかく吉原に客が戻ればいいんだ!」と思いつき、老中の田沼意次に、吉原以外、つまり許可を受けていない私娼街の取り締まりを働きかける。
 そして田沼意次に諭されるわけです。お前は吉原に客が戻るように何か工夫をしているのか、と。これが蔦重が江戸のメディア王、江戸文化のプロデューサーとなる出発点となりました。

 燃える吉原もなかなかのものでしたが、目をひいたのは蔦重の幼なじみにして松葉屋の花魁・花の井(演・小芝風花)の花魁道中。
 思い出したのが小林恭二『カブキの日』です。歌舞伎の演目「籠釣瓶花街酔醒」は田舎者が吉原の遊女・八ツ橋に一目惚れ、通いつめるものの、結局、八ツ橋に愛想を尽かされ、それを恨んで斬り殺してしまう、というお話。花魁道中のさなかに八ツ橋に微笑みかけられたのが、一目惚れ、恋に、いや沼に落ちた瞬間でした。

 『カブキの日』では、こう書かれています。

 八ツ橋の艶姿をみた次郎左衛門は忘我の境に達する。
 次郎左衛門の恍惚は八ツ橋にも伝わる。
 八ツ橋は次郎左衛門にむけて振り返り、にーっと笑みを浮かべる。
 この笑いこそ、謹厳実直に生きてきた次郎左衛門の身を破滅させ
る運命の笑みだった。
 カブキにはさまざまな笑いがある。ヒーローの笑い、悪人の笑い、
実役の笑い、若衆の笑い、町娘の笑い、赤姫の笑い。それぞれ高度
に様式化されており、所作はもとより表情筋の一本一本に至るまで
計算され尽くしている。
 しかし、この八ツ橋の笑いはどれにも属さない不可思議な笑いだ
った。

 

 もちろん、女形が演じる歌舞伎の世界と、本物の女性の笑いとは違うのでしょう。けれど、一方で食べることにもことかく闇の部分を持ちつつ、華やかに彩られる場は「虚構の世界の美」という点で重なるものがあるのではないでしょうか。
 あの花の井の笑みが蔦重の生きる世界の一端を象徴しているように感じました。


 そして…ドラマで笑みを受け取ったのが、何と鬼平。吉原の遊びのルールを思いっきり無視して…、若き日の鬼平は野暮だったんですねぇ。

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