【三冊筋プレス】生命と非生命のあいだの青き陽炎(猪貝克浩)

2022/05/05(木)10:09
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<多読ジム>Season09・冬の三冊筋のテーマは「青の三冊」。今季のCASTは小倉加奈子、中原洋子、佐藤裕子、高宮光江、大沼友紀、小路千広、猪貝克浩、若林信克、米川青馬、山口イズミ、松井路代。冊匠・大音美弥子と代将・金宗代の原稿が間に合えば、過去最高の13本のエッセイが連載される。ウクライナ、青鞜、村上春樹、ブレイディみかこ、ミッドナイト・ブルー、電波天文学、宮沢賢治、ヨットロック、ロラン・バルト、青水沫(あおみなわ)。青は物質と光の秘密、地球の運命、そして人間の心の奥底にまで沁みわたり、広がっていく。


 

水も言問う

 

 月草とも呼ばれる露草の青色は、夜明けの薄明のようで儚さを感じさせる。夜は終わり朝が再生される前の一瞬の静寂、天と地、生と死のあいだの色にふさわしい。『露草の青』は民俗学者谷川健一の歌論、歌人論、そして自撰歌集からなる。二十歳で若き日の歌を封印した谷川は、六十六歳からまた歌を詠み始める。その歌は民俗研究や日本神話から題材を得たものが多い。

 

青水沫言問う川に罔象女(みつはのめ)あそぶと見しはもゆる陽炎(かげろう)

 

 第二歌集『青水沫』からの一首だ。罔象女はイザナミから生まれた水神である。「出雲国造神賀詞」によれば国家誕生前の日本は荒ぶる国だった。異神や木や石ころ、青水沫(あおみなわ)までが相手に屈することなく、呪言を発し相手を打ち負かそうとした。青水沫とは水のアワのことで、なにかぶつくさ不平を言っているのだ。なぜ古代人は石ころや水のアワにまで命や霊魂があるとみなしていたのだろう。現代人には奇異に思えても、古代人にはあたりまえの認識であったに違いない。

 言問うとは、異議申し立てである。言葉には呪力があった。折口信夫は「うたふ」は「うつたふ」と同義であるといい、歌はもともと神への訴えであったと白川静は説く谷川は言問うことに「うた」の発生を見た。

 

 谷川の民俗学の出発点には自然を擬人化するアニミズムの世界との出会いがあった。雑誌「太陽」の初代編集長であった谷川は、平凡社を辞めた後、五十歳を過ぎて民俗研究に向かった。信州遠山郷の各集落を渡り歩き、蝶類、這う虫、狼、狐、鬼、天狗、山の精が一堂に会する霜月祭の体験からアニミズムの世界に触れる。谷川にとって民俗学は神と人間と自然の交流の学となった。 

 

鉱物と生物の共進化

 

 古代日本人は『古事記』にあるように、天は定まり神が現われたとき、国はどろどろに漂っていたとイメージした。まるで誕生したばかりの地球の姿のように。

 鉱物学者ロバート・ヘイゼンは『地球進化46億年の物語』で、地球誕生から生命誕生までの道のり、酸素が発生し鉱物が進化する地球の変転を数億年単位で描き出す。46億年のあいだに地球はいくつも色を変えてきた。岩石の固まりの黒い地球は海が生まれて青い地球となった。地球の内部にある鉱物は海水の80倍もの水を含み、地球はまさに水の惑星である。光合成と大酸化イベントで赤い地球となり、氷のおおわれた白い地球があり、陸上生物が出現したいまは緑の地球だ。

 

 水や石にも命があると感じるのは、地球の歴史を見れば自明なことなのかもしれない。アポロとルナが持ち帰った月の微細な粉を調べることから科学者としてのキャリアをスタートしたヘイゼンは岩石の声に耳を傾ける。ヘイゼンは生命の起源には鉱物が深く関わっていたと言う。その研究を通じ、今では生命は地球以外のあらゆるところで生まれていると予想する。地球は生命と非生命が複雑に絡み合い、生物圏と鉱物圏の共進化の歴史を歩みだした。藍藻による光合成によって作られた酸素分子は鉱物に影響を与えた。甲殻類は身を守るために鉱物から殻を作り、森林は根を張ることで岩石の風化を速め、そこで作られた土には粘土鉱物や有機質が豊富で、微生物が多く棲息することになる。

 

 本書の表紙の帯には地球史の年表が付いている。現在の地球は誕生から46億年が過ぎ、膨張する太陽に飲み込まれて寿命を迎えるのはさらに50億年先だ。弥勒による救済までにはいささか時間が足りないが、地球史の中で今は折り返しの手前であると見て取れる。

 

『地球進化46億年の物語』帯の地球史年表

 

生と死の境を見つめて

 

 女の一言で男の心が一変する、吹き始めの風、見知らぬ町の辻、入院する、張りつめていたものがぷつりと切れる、笑いと真顔、安堵と空虚。古井由吉は執拗に境を描き出す。「じつに一年後には、ここに往来する人間たちのうち、かなりの数がこの世の者でない。これを重ねて眺めれば、往来は今において幽明の境、生者と死者の行きかうところだ。是非もない」とつぶやくように記した。生と死の境に往生はある。では、往生はどこでするのか。触穢は避けなくてはならず、往生しても人間(じんかん)に身の置きどころはない。臨終を悟った聖は野中の樹下で端然と往生を遂げる。亡骸を集落の境の内に埋めて、田畑を穢すわけにはいかないのだ。

 

 『仮往生伝試文』は、往生伝に見える数々の聖たちの逸話と古井由吉の考察、日記、さらに数篇の創作から成り立っている。本書は1989年の刊行である。バブル経済末期の浮かれた世相があり、一方で昭和天皇の崩御で日本国中が「自粛ムード」に覆われた。ベルリンの壁は崩壊し、中国では多数の死傷者を出した六四天安門事件があった。今から振り返れば、この年を境に世の中が一変したのではないか。

 

『情報の歴史21』1989 昭和64 平成1

 

 古井由吉は「内向の世代」の作家として知られている。戦争体験、空襲体験がこのグループの特徴のひとつだ。本書の中でも、古井は荏原での罹災や横浜空襲に触れている。空襲の夜が明け、蒼ざめた地平に陽炎の立つとき、生き残った人々を見て、「この者たちは、往生人か」と漏らす声を聞く。これは諦念ではない、まして戦争反対と声高に訴えているのではない。生命と非生命の境を見つめる古井の観想である。

 

 往生に際して、人間(じんかん)に身の置き所がないことを突き詰めれば、鳥獣に施し、食わせることこそ輪廻にかなうに違いない。古代人の目で見れば、石も水も草も木もみな等しい。地球もまた生命と非生命の連環であるならば、ヘイゼンが言うように、「わたしたちは地球だ」と観ずることができるだろう。

 

 

Info

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⊕アイキャッチ画像⊕

∈『露草の青 歌の小径』谷川健一/冨山房インターナショナル

∈『地球進化46億年の物語』ロバート・ヘイゼン/講談社ブルーバックス

∈『仮往生伝試文』古井由吉/講談社文芸文庫

 

⊕参考千夜⊕

1322夜『常世論』谷川健一 

1615夜 『生命と地球の歴史』丸山茂徳・磯崎行雄 

1315夜 『槿(あさがお)』古井由吉 

 

⊕多読ジム Season09・冬⊕

∈選本テーマ:青の三冊

∈スタジオよーぜふ(浅羽登志也冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):三間連結型

『露草の青 歌の小径』→『地球進化46億年の物語』→『仮往生伝試文』

 

 

◆著者プロフィール◆

 

∈谷川健一(たにがわ けんいち)

谷川健一は1921年に熊本県水俣に生まれた。弟に詩人の谷川雁、東洋史学者の谷川道雄がいる。短歌を作る早熟な文学少年であった。結核を患い、各地の療養所を転々とした。編集者として勤務していた平凡社を結核の再発により退社する。その後執筆活動に入り『最後の攘夷党』で第55回直木賞候補となる。民俗学者としての代表作に『孤島文化論』、『黒潮の民俗学』、『青銅の神の足跡』、『南島文学発生論』など。八十歳で同人誌「花礁」を創刊、主宰し、『海霊・水の女』で短歌研究賞を受賞する。2009年の歌会始に召人として臨み、『陽に染まる飛魚の羽きらきらし海中(わたなか)に春の潮(うしほ)生れて』が朗詠された。没年は2013年

 


  • 猪貝克浩

    編集的先達:花田清輝。多読ジムでシーズン1から読衆として休みなく鍛錬を続ける日本で唯一のこんにゃく屋。妻からは「人の話が聞こえていない人」と言われてしまうほど、編集と多読への集中と傾注が止まらない。茶道全国審心会会長を務めた経歴の持ち主でもある。

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