【工作舎×多読ジム】太極から生じた工学屋の蜘蛛(畑本ヒロノブ)

2022/11/18(金)08:01
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多読ジム出版社コラボ企画第二弾は工作舎! お題本はメーテルリンク『ガラス蜘蛛』、福井栄一『蟲虫双紙』、桃山鈴子『わたしはイモムシ』。佐藤裕子、高宮光江、中原洋子、畑本浩伸、佐藤健太郎、浦澤美穂、大沼友紀、小路千広、松井路代が、お題本をキーブックに、三冊の本をつないでエッセイを書く「三冊筋プレス」に挑戦する。優秀賞の賞品『遊1001 相似律』はいったい誰が手にするのか…。

 

SUMMARY


 気まぐれな工学屋である蜘蛛を再発見する三冊。『青い鳥』で高名なメーテルリンクの『ガラス蜘蛛』では、物理学的な計算能力を持ったミズグモの計算高い一面を知る。ミズグモの寿命は人間よりも短いが、高速の輪廻転生で進化し続け、工学屋の地位は不動だ。
オーストラリア登山家ハラーの『白い蜘蛛』では、アルプスの標高3970mのアイガーの登頂ルートに潜んでいた万年雪と万年氷の蜘蛛が明かされる。氷壁の前で登山家はミミズのような存在に過ぎないが、冒険への永久の欲求と運と実力の《三位一体》によって頂上に到達した。
地主との闘争経験のあるスイス人牧師ゴットヘルフはキリスト教とヒューマニズムの精神を短篇の『黒い蜘蛛』に反映した。悪魔のシナリオによって、黒い蜘蛛が領主に支配された村人達を蹂躙する。しかし、神への信仰心を持った者によって柱に封印されて禍福の属性が反転した。敬虔な心で蜘蛛に接すれば日常の幸福を得ることもできるのだ。


 

 雪と氷の壁に対する《メタファー》によって名付けられた白い蜘蛛。悪魔によって召喚された殺戮の化身たる黒い蜘蛛。これらは人間たちをあっさりと消し去ることもあれば、幸福や自信を与える気まぐれな存在だった。そして、白黒を重ねて昇華されたミズグモは、海や河の水中建造物の基礎を築く機能を持つエンジニアだ。その正体を探りたい。

 

●輪廻転生し続ける建築屋

 ノーベル文学賞を受賞したベルギーのフランス語詩人で、童話的夢幻劇『青い鳥』で高名なメーテルリンク。彼は20世紀に入った人生の後半からは愛と希望や自然界の神秘を探る主題へと関心を転じた。著作『ガラス蜘蛛』では、からくりやしかけを見通す眼差しを持ってミズグモの生態を解き明かす。ミズグモは水中の水草の間に糸でドーム状の住居を作り、そこに水面から空気を腹部と歩脚を使って運び込んで活動する。小さきモノたる蜘蛛は人類が誕生する以前から、先祖代々のさまざまな試みの成果としての先天的な知恵を獲得していたのだ。

 進化の過程で蜘蛛は誰に円網建築の真髄を教わったのだろうか。それは宇宙から運び込まれた情報に記載されていたのか。それとも神々と呼ばれる超越した存在による奇蹟なのか。蜘蛛は物理学的な計算能力を持ったエンジニアであり、流体静力学や気体の作用に関する法則を理解し、正確に網を設計する。構造物を築き上げても気に入らなくなった住居を破裂させ、その元となるクモ糸を食べて、新しい住居に移すリサイクルな気質さえある。
 ミズグモの寿命は人間よりも短いが、高速の輪廻転生で進化し続けるため、文明的な電気制御で動く人工蜘蛛を作る道は険しい。工学屋を「地」とする私にとって蜘蛛は大いなる先達であることに気づくのだ。

 

●蜘蛛の放つ声を聞いて登頂したミミズ達

 スイス中部でアルプスの高峰、標高3970mのアイガーの北壁にある百メートルも延びた万年雪と万年氷。困難な登頂ルートには「白い蜘蛛」が棲む。ワンダーフォーゲルと関連深いアドルフ・ヒットラーはアイガーの北壁を「アルプスに残された最後の問題」と位置づける。このルートを通って1938年7月24日に首尾よく頂上に到達した4人の中に『白い蜘蛛』を執筆したハインリヒ・ハラーがいた。オーストリア生まれの彼は登山に情熱を燃やした男であり、ダライ・ラマ14世との交流もあった。悪天や雪崩に見舞わると絶体絶命になる氷壁の恐ろしさが本書で示されるが、若者達はアイガー北壁の最初の悲劇の後で巻き起こった論争の辛辣な言葉など気にしない。彼らを真に興奮させていたのは冒険への永久の欲求だったのだ。登攀不可能という絶対性に抗おうとした登山家の業ともいえる。
 登山家達は白き蜘蛛の背中を這いずる《メタファー》としてのミミズであり、簡単に粛清されるIFの世界もあった。しかしながら、彼らには優れた視覚と聴覚があり、蜘蛛が放つ声を聞いて、事前に雪崩から身を守る。奇跡と恩寵は山と自然によって与えられるのではなく、最後の危険な瞬間にあっても為すべきことを為すという人間の意志に加えて、運と実力の《三位一体》が必要であること知るのだ。ミミズ達が初登攀した後、ナチス・ドイツの国威発揚に宣伝利用されるという悪意に晒され、自然の白き蜘蛛に対して鉤十字の黒の烙印を押されたのは無念である。

 

●災い転じて福をなす信仰のシンボル

 人間の弱さにつけこむ悪魔と殺戮の使徒である蜘蛛の猛威の前で、それを打破る神の勝利に至るまでの犠牲は大きい。ただし、神とともに封じられた蜘蛛も信仰の対象にすれば祝福が得られる。スイスの牧師であったイェレミアス・ゴットヘルフは『黒い蜘蛛』で物語る。彼は原始キリスト教徒の信仰と生活を理想とする頑固な保守主義者で、為政者の農村に対する冷淡な態度にも憤慨し、ペンを武器として時代の退廃を告発した。蜘蛛は城主からの重役に苦しむ村人達を助ける緑の男(悪魔)の眷属。婦人の顔に寄生し、頬からはじけて生れ出た真っ赤に燃える炭の中から無数に登場し、村人達を蹂躙した。

 その後、神に祈る者達の手で柱へ閉じ込められ、封印という楔によって禍福の属性が反転する。神の大切さ、力強さを相対的に高めるために『ヨブ記』の悪魔に類似した理不尽極まりない存在が遣わされたのではないか。悪魔に惑わされることが無いように、先人が受け継いだ過去の事件からの教訓を守り、日常の幸福を捉え直したい。
 自然のものであれ、神のものであれ、その源泉に近づいて捉え直すことで、白と黒の太極のような溢れ出る叡知へと近づける。我々人類は先ずミズグモをはじめとする蜘蛛の生態と構造を解明すべきなのだ。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

∈『ガラス蜘蛛』モーリス・メーテルリンク/工作舎
∈『白い蜘蛛』ハインリヒ・ハラー/山と渓谷社
∈『黒い蜘蛛』イェレミアス・ゴットヘルフ/岩波書店

 

⊕多読ジムSeason11・夏

∈選本テーマ:版元コラボエディストチャレンジ
∈スタジオくるり(田中睦冊師)


  • 畑本ヒロノブ

    編集的先達:エドワード・ワディ・サイード。あらゆるイシスのイベントやブックフェアに出張先からも現れる次世代編集ロボ畑本。モンスターになりたい、博覧強記になりたいと公言して、自らの編集機械のメンテナンスに日々余念がない。電機業界から建設業界へ転身した土木系エンジニア。