【AIDA】いまの日本には歴史に対するリスペクトが欠けている/池田純一さんに聞いた「メディアと市場のAIDA」

2022/03/17(木)16:05
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AIDA Season2 第5講では、ゲスト・池田純一さんとAIDAボードメンバー・武邑光裕さんに、それぞれの視点からデジタルメディアと資本主義のAIDAについて語っていただいた。鼎談セッションやAIDAセッションでは話題が多方面に広がったこともあり、終了後にあらためて「メディアと市場のAIDA」について池田さんに伺った。(聞き手・米川青馬)

 

 

エンヤを選んでいる気になっているが選ばされている

――今日の感想を教えてください。

池田:大変面白かったです。ただ、「メディアと市場のAIDA」というテーマに立ち返ると、僕が『監視資本主義』や『巨大企業の呪い』を課題図書に挙げたこともあって、メタヴァース以外のメディアについてはあまり話せなかったですね。

 


――メディアの話、ぜひ伺いたいです。

 今日の話題に関係するところから少し話してみます。『監視資本主義』に出てきた「道具主義」という言葉は、原文では「Instrumentalism」です。道具主義は少し突き放した訳語で、個人的には「器具主義」と訳すくらいがちょうどよい感じがします。楽器(music instrument)のように、自由自在に奏者が操ることができるというニュアンスが込められているようにも思うからです。器具を一種のメディアとみなせば、Instrumentalismとは「メディア主義」でもあります。

 道具主義社会=器具主義社会=メディア主義社会とは、GoogleやFacebookなどの、『監視資本主義』でいうところの「パペットマスター(人形遣い)」が、私たちユーザーの日々の行動を自由自在に操ることのできる社会です。ポスト・トゥルースという言葉が生まれた2016年以降、Instrumentalismは顕著になりました。もはやネットメディアを楽観視することはできません。ネットメディアがユーザーを操ろうとしていることは明らかでしょう。

 問題は、私たちがGoogleやFacebookなどをあまりにも日常的に使っているために、もはや媒介だと意識していないことです。ネットメディアは、よくできたグローブあるいは義手のように自分の身体の一部になってしまっています。

 ボー・バーナム監督の映画『エイス・グレード』(2018年)では、そうした事態がよく描かれています。ケイラというエイス・グレーダー(13歳)の女の子がミドルスクールを卒業し、ハイスクールへの進級を果たす物語です。ケイラは自分でvlog映像を撮影してネットにアップするような子で、彼女も周囲のエイス・グレーダーたちもずっとスマホをいじっています。いわゆる「Z世代」の彼女たちは、まったく無自覚にメディアに操られているのです。たとえば、ケイラが自室に閉じこもってMacBookを立ち上げるときにiPhoneで聞く曲はエンヤです。彼女はエンヤを自分の「お気に入り」として選んでいる気になっていますが、その実、彼女の方がエンヤを選ばされていると見ることも可能です。Z世代の日常はこのように、常に操作される機会に囲まれています。『エイス・グレード』は、ネットメディアを身体のように無意識に使いこなしているつもりになっているローティーン特有の「不安」をよく描いています。でも私たちも、ケイラとそれほど変わりませんよね。

 現在31歳のボー・バーナム監督は、16歳のときにYouTubeで一躍有名になり、そのままプロのコメディアンになったインターネットの寵児です。彼はインターネットやソーシャルメディアに大変詳しく、だからこそ批判的な立場を取っています。

 

 

 

NFTはカジノ資本主義ではないか

――日本のメディアについてはどう見ていますか?

池田:日本にはいまもテレビが残っていますよね。でも、アメリカはもはやネットメディアがテレビを飲み込んでしまいました。ただ面白いことに、ネット時代に日本の新聞が力を弱める一方で、たとえばニューヨーク・タイムズはインターネットによって世界の新聞になりました。アメリカにはもともと朝日や読売のような全国紙がなく、ニューヨーク・タイムズもローカルメディアの一つに過ぎなかったのですが、インターネットが世界的メディアに変えたのです。このようにアメリカのメディアは状況の変化に応じてどんどん変化していきます。それに比べて日本のメディアの変化は緩慢で、ほとんど停止しているようにもみえます。

 いま日本にはアメリカからNetflixやHuluなどが入ってきていますが、すべてグローバルプレイヤーであり、日本発のコンテント・プラットフォーマーはありません。メディア市場としての日本の魅力が低下すれば、いつか彼らは去っていくかもしれません。日本は弱い立場にあるといってよいでしょう。

――日本企業の状況についてどう感じていますか?

池田:先ほど「90年代リバイバル」という話をしましたが、日本企業に関しては、90年代をきちんと記憶していない会社が少なくないように思います。もとをたどれば、現在のインターネットは、80年代後半から90年代初めにかけての、日本のハイビジョン構想に脅威を感じたアメリカの政財界が対抗策として拡大させてきたもの、と見ることもできます。当時日米間で起こっていた通信・放送分野での競争に日本は破れたわけです。そうした経緯を記憶している企業人がどれだけいるのか、不安になるときがあります。歴史に対するリスペクトが欠けているのではないか、という不安です。

 アメリカが急速な変化を遂げられる要因のひとつに法律があります。これはジェフ・コセフ『ネット企業はなぜ免責されるのか』(みすず書房)に詳しく書かれていることですが、アメリカでは1995年に「セクション230」という法律が制定されました。1980年代以後のコンピュータ技術の進展を受けて、通信と放送の融合を狙った電気通信法の改正に便乗した法律です。セクション230はユーザーの違法行為からインターネット企業を免責する法律で、21世紀に入ってからの最初の10年間は、セクション230はオンライン事業者を外部の訴訟から守る強力な盾として機能し続けました。その恩恵を受けてFacebookをはじめとしたソーシャルメディアが急成長したわけです。ところがフェイクニュースやヘイトスピーチなどが社会問題として無視できなくなった現在、そのネガティブな面のほうが目立ってきました。

 アメリカの場合、法律家と経済学者との間で、政治権力の争奪戦が繰り広げられるほど、法が力を持っています。『巨大企業の呪い』の著者ティム・ウーも法律家(法学者)であり、彼は法学の立場からビッグテックにカウンターアタックを仕掛けているわけです。法学は経済学とは異なり、国ごとに固有のローカルな文化ですから、ただ法律を真似するだけでは、後の先を取ることは難しい。ではどうしたらよいのか。知恵を絞らなくてはなりません。

――インターネットのこれからをどう捉えていますか?

池田:繰り返しになりますが、もうインターネットを楽観的に見ることはできません。投資家を含めてネット側はプラス面ばかり強調して目くらましをしかけてきますが、それを鵜呑みにしてはいけないでしょうね。たとえば、昨今、NFTが注目されていますが、これもデリバティブやサブプライムローンが登場したときと似たような感じがします。トレーディングで利益が出るように、デジタル資産の流動性を高めるだけのことで、その点ではカジノ資本主義と大して変わらない。そのようなきな臭さを直感的に感じてか、ゲームの世界では今、ユーザーたちの間からNFTへの反対運動が起きていたりもします。ゲーマーの多くは、ゲームを楽しみたいのであって、ゲームアイテムで一山当てたいなどと思っているわけではないからです。理解できる話です。

――ありがとうございました。

 

 

写真:後藤由加里


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。