津田一郎の『千夜千冊エディション』を謎る②『心とトラウマ』に「心の統合」という不思議を謎る

2025/06/16(月)08:00
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統合失調症という言いかえの不思議

 

松岡さんは、第684夜、『心とトラウマ』pp131-141で、「精神分裂病」という病名が「統合失調症」に変わったことに違和感を表明した。「統合」というからにはそもそも何を「統合」したのか。それがさっぱりわからない。わからないものを統合するのだから勝手に「統合」の基準を設けられるだろう。それが正しい基準なのか。そんなあやふやなことで統合されたら危険極まりないのではないか、というのである。そして、この疑問はミンスキーの『心の社会』(第452夜、『心とトラウマ』pp.257-267)への疑義へとつながっていく。まずは「統合失調症」から入っていこう。

「統合失調症」という言葉には本来人の心にはそれを構成している複数の要素が存在しているということが前提になっている。一つの考え方として、思考、感情、記憶などを統合する力が欠けた状態だという説明がある。その背景には、この「要素心」たちが何らかの基準で統合されたのが正常な(健常な)心だという認識がある。これはこの言葉の前に使われていた「精神分裂病」という言葉の意味するものとは全く異なる思想に基づいているように思われる。

「精神分裂病」という言葉は、そもそも「精神」(つまり心)なるものがあることは明らかな(あるいは解明不可能な)前提として認めることを出発点にしている。それが分裂すると精神は機能しなくなる、というのが「精神分裂病」の言葉の意味するところだ。分裂する前の「精神」が正常かどうかは問題にしていない。さらに、この言葉は重要な観点に基づいている。それは心は「要素心」に分解できないということだ。仮に分解されたものがミンスキーの言う心のないエージェントたちだとしても、今度は心のないエージェントたちからいかにして心が創発するのか、という問題が残る。このように、「精神分裂病」という言葉は「統合失調症」という言葉とはその背景にある考え方が180°違うのである。だから、大問題なのだ。心の在り方をこんなに変えてしまってよいのだろうか。

 

複雑系科学、編集工学からみた病名へのチャレンジ

 

日本精神神経学会が2002年6月30日に病名変更を宣言した。「精神分裂病」という病名が差別、偏見を生むという理由からである。これには患者本人や家族からの強い要望があったらしい。“人格が分裂するという怖いイメージから偏見を生んでいる”ということだった。これは当然の要望である。”精神分裂“という言葉は、精神が分裂したら人間として何も残らないという人間失格のようなイメージが強い言葉でもあるし、そのような説明もなされてきた。また、本来はそう解釈すべきものでもあった。だから、病名変更は当然であるし、遅きに失した感もあった。では、何が問題なのか?「精神分裂病」では心を全体論的にみているのに対して「統合失調症」では心を還元論的にみている、というように学問的にみるといきなり両極端に触れたという点に違和感を覚えるのである。還元論を否定する複雑系科学や編集工学の立場では、この問題をどのように扱うべきなのか。英語では一貫してschizophreniaが使われている。スキゾフレーニア、いわゆる「スキゾ」だ。schizoは分裂する、分離するという意味で、phreniaは精神、心であるから、文字通り「精神分裂」なのである。英語圏やドイツ語圏で差別、偏見を生むからこの病名を変えようという動きを浅学菲才にして私は知らない。日本語も英語もともに人格否定的な病名であるにも関わらず。海外の事情を知らないのでここでは偏見の比較には踏み込まない。複雑系科学の立場からみた病名の意味をもう少し深く考えてみよう。

 

上の図は白と黒どちらを背景として見るかで見えるものが変わる。『分裂病のはじまり』を著したクラウス・コンラートは、一般の人々が難なくこなす情報の地と図の切り替えが困難になるのが精神分裂病の特徴であると考えた。この考えは、人間の心理過程全体は単純な感覚の足し算以上のまとまりをもった何かになるとするゲシュタルト分析に基づいている。

出典:wikipedia

 

脳の機能分化・機能分割と拘束条件付き自己組織化の原理

 

脳神経系は様々な機能をつかさどる領域に分かれていることは「ブロードマンの機能地図」としてよく知られた事実である。視覚情報処理は網膜で明暗や色の情報が取り出された後、後頭葉の第一次視覚野という脳領域において、ある方位に傾いた線分がそれに直交する方向に運動した時に反応する細胞群に分化する。線分の異なる方位ごとに(多くの場合)異なる細胞群が存在している。さらに高次の視覚野では物体の角に反応する細胞が存在し、それらは別の脳領域を形作っている。聴覚情報はまた視覚とは別の脳領域で情報処理されているし、そのほかの感覚情報も種類が異なれば異なった脳領域で情報が処理される。記憶に関しても海馬のような脳の特定の領域で表現され、最終的には側頭葉の神経細胞の活動に折りたたまれて存在する。性格などをつかさどる場所も大脳新皮質の前頭葉の裏側の帯状回という領域が深く関係していると言われている。このように、脳は発生の段階から成長を経て異なる機能をつかさどる異なる領域に分化する。これを「機能分化」という。また近年になって、成長した脳においても機能分化した領域の細分領域が課題遂行時に様々な組み合わせでダイナミックに情報をやり取りしていることが分かってきた。これを「機能分割」という。

機能分化、機能分割はいったいどのような仕組みで起こるのだろうか。私たちは10年ほど前からこの問題を考え、拘束条件付き自己組織化という新しい変分問題としてこれを定式化した。脳神経系の数理モデルである人工ニューラルネットや力学系のネットワークで構成されたシステム全体にある拘束条件をかけて、それを満足するようにモデル脳の要素間の結合の強さやネットワークの構造(トポロジー)を変化させたときの構造単位の活動を動的に調べたのである。ここで、システム全体にかかる拘束条件とは入力情報をシステム全体に最大限いきわたらせるという条件であったり、情報処理に必要なエネルギーを最小限に抑えるといった条件のことである。すると、ニューロンのモデルである構造単位やそれらから成るモジュールが情報処理に応じて機能分化することが分かったのである。例えば、入力情報をネットワーク内へ最大限伝搬させるという拘束条件の下では、ネットワークの構成ユニットは結合強度の違いによってニューロンのような興奮型力学系に分化したり、グリア細胞のような振動型力学系や受動的分極型力学系に分化した。また、入力情報として視覚情報と聴覚情報を同時入力して、ある種のエントロピーを最小化するように拘束条件をかけると、ニューラルネットの出力層に視覚情報だけ、あるいは聴覚情報だけに特異的に反応するニューロンが分化したのである。

この分化の数学モデルの哲学的意味は明白だ。これらの数学的事実は脳神経系が要素還元できないシステムだという仮説に導くという意義があるのである。機能要素はシステム全体が拘束条件を満たすように作られていくのであって、あらかじめ機能分化した要素が存在してそれらが相互作用して脳神経系を構成しているわけではないということである。機能分化や機能分割はこのような新しいシステムダイナミックスの必然として捉えられる。それでは、いったん分化した要素をシステムから切り離すとどうなるか。切り離した途端要素は機能を失うのである。だからシステム全体の性質を要素還元はできないのだ。

 

ブロードマンの機能地図。ブロードマンは脳の外側に見える薄い表層である大脳皮質を52の領域に塗り分けた。皮質の細胞群の大きさや形状、結びつき方の類似具合で区分された領域は、脳の機能群と大まかに一致している。

 

「統合失調症」という病名の不思議と新たな病名の提案

 

このように考えてくると、「統合失調症」という病名の欺瞞に気づく。すなわち、松岡さんが喝破したように、統合すべき要素機能あるいは要素心といったものはそもそも存在しないのである。失調しているのは統合機能ではなく、分化の機能なのだ。逆なのである。分化機能、分割機能が上手くいかないからシステム全体の不調が起こるのである。したがって、病名を素直に考えれば、「分化・分割機能失調症」と呼ぶべきであろう。それがちょっと長いなら「機能分化失調症」でもよいかもしれない。いずれにせよ、統合の失調によるのではなく、分化の失調に依るのなら”統合失調症“に対する治療方法は全く異なってくるのではないだろうか。機能分化・機能分割は上でも述べたように、脳神経系全体への拘束条件のかけ方に依存する。脳神経系全体とは大脳、小脳、脊髄神経系と身体を含む総合システムであり、拘束条件は環境によって与えられる。環境から来るさまざまな刺激を情報に変換するのがこの脳神経系である。この連関のパラメーターを変更することで機能分化、機能分割のダイナミクスを変えることができる。ここに新たな精神医学への知見、さらには新たな治療方法が得られると考えるのは素人考えにすぎるだろうか。

 

ミンスキーの「エージェント」の不思議

 

松岡さんはミンスキーが『心の社会』(第452夜、『心とトラウマ』pp.257-267)で人の心を心を持たないエージェントの集合体に分割し、それらの相互作用が重要だとした点を評価する。しかし、様々なエージェントを構成するまでは良かったが、それらを細分しすぎたと批判する。むろんエージェントはその役割に応じてある種の階層性を持つだろう。しかし、それを“ニーム”としてどんどん細分化したことにミンスキーの失敗があったと確信した。松岡さんは、ニームはさらに小さなニームに分かれるのではなく、文脈に応じてトポグラフィックにネットワーキングされているはずだと唱えた。

松岡さんがもう一点ミンスキーの考えに興味を持ったのが「割り込み」という心の働きである。しかし、ここでも我々は「割り込み」ができるのではなく、「割り込み」のような分岐性によって思考しているのではないかと「割り込み」を寺田寅彦の「割れ目」と結びつけている。つまり、思考は割れ目でできているのだと。その通り。思考というのはつるつるとしたものではなく、ごつごつとしたもので、いたるところに割れ目としての結節点が分化してくるものだ。心の動き(環境からの拘束条件)が割れ目ネットワークに働くと、結節点が分化する。そのことで、他の分化した結節点との新たなネットワークが働き、新たな思考が可能になる。
ミンスキーの“心の社会”を構成するものは心を持たないエージェントである。中島秀之によれば、ミンスキーはフロイトの影響を受けていたという。つまり、我々が認知できる知能は表層部分であり、水面下に認知できない活動がある。そのプロセスの競合の総体が心だという考えだという(中島秀之『知能の物語』)。松岡さんも指摘しているように、これでは心のないエージェントがいかにして心を創発するようになるのかを問わねばならないが、そこは不問に付したままだ。中島は一歩進めて、常に現在であるような時間論をもとに意識を考え、意識の一方向性を離散時間力学系をモデルとして考えた(前掲書)。要素の相互作用でシステムが創発すると考えるのは従来の自己組織化理論である。その意味で、ミンスキー流の心の社会は自己組織化による創発を期待しているように見える。しかし、私たちが数理モデルによって示してきたように、複雑システムは要素の相互作用によって創発されるのではなく、むしろ環境を拘束条件として異なる機能を持つ要素への分化プロセスが創発するように構成されたシステムなのである。このようにして初めて、システムに心が生まれるのではないだろうか。

 

フロイト=ミンスキーの仮説通り複数のエージェントが同時に働くのなら、意識も同時に複数あり得るのが自然だ。それにも関わらず意識が常にひとつであることは、バラバラな向きや連続性を持った複数の処理が互いに影響を及ぼし合って一つの円を描くような自己組織化として説明される。
この従来の自己組織化の見方に対し、拘束条件付き自己組織化の理論は、要素を投げ縄で括り、その全体に対して「うまく働くよう」な抽象的な指示がはたらくことで、自ずと役割を分担するように内部がグルーピングされてくるような見方を取る。

出典:MDPI 「Self-Organization with Constraints—A Mathematical Model for Functional Differentiation」 

 

図版構成(カオス的編Rec):梅澤光由、稲垣景子

 

津田一郎の『千夜千冊エディション』を謎る

① 『心とトラウマ』に西洋と東洋のAIDAを謎る

②『心とトラウマ』に「心の統合」という不思議を謎る

 

  • 津田一郎

    理学博士。カオス研究、複雑系研究、脳のダイナミクスの研究を行う。Noise-induced orderやカオス遍歴の発見と数理解析などで注目される。また、脳の解釈学の提案、非平衡神経回路における動的連想記憶の発見と解析、海馬におけるエピソード記憶形成のカントールコーディング仮説の提案と実証、サルの推論実験、コミュニケーションの脳理論、脳の機能分化を解明するための拘束条件付き自己組織化理論と数理モデルの提案など。2023年、松岡正剛との共著『初めて語られた科学と生命と言語の秘密 』(文春新書)を出版。2024年からISIS co-missionに就任。