おしゃべり病理医 編集ノート-がんを育てる場所

2020/01/20(月)10:48
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 乱雑に重なり合いながら増殖するがん細胞が、秩序だった美しい正常組織を破壊する様子。がんの病変部はまさに「熱死」の状態だなと、顕微鏡越しに思う。

 
 量子力学の思考実験で有名なシュレディンガーは、『生命とは何か』(1043夜)https://1000ya.isis.ne.jp/1043.htmlにおいて、量子レベルから生命活動を大胆に繙いてみようとした。熱力学的には、どんな物質も閉鎖系システムの中なら、無秩序な状態に向かう。エントロピーが増大する、と表現することもできるが、コーヒーに注いだミルクが溶け込むように、最終的に周囲との環境と区別がつかなくなった最高に無秩序な状態を「熱死」という。
 
 人体では、1秒あたり数百万回の細胞分裂がおきているといわれる。人体は約37兆個の細胞で構成されているが、その数が一定に保たれているということは、細胞分裂による新しい細胞の誕生と、アポトーシス(プログラムされた細胞死)がほぼ同じくらいであるということだ。つねにあたらしいわたしに次から次へと生まれ変わる感じ。1か月前のわたしと今のわたしは細胞レベルではほぼ別人である。
 
 細胞分裂の際は、遺伝子から遺伝情報の転写、翻訳が正しくなされることが必要である。時にエラーが生じるが、生物は巧みにこれを修正する機能も持つ。修復遺伝子やがん抑制遺伝子によって、エラーの生じた情報をもとに戻す機能があったり、たとえがん細胞が誕生してしまっても免疫細胞によって排除されたりする。
 
 われわれの身体は、個々の細胞の小さな熱死を絶えず抱えながら、エントロピー増大のエネルギーを細胞の誕生という極めて緻密で秩序だった現象に費やしている。シュレディンガーはそれを「生物は負のエントロピーを食べて生きている」と表現した。
 
 もしも細胞の誕生と死のエネルギーがきわめて均衡的な状態に維持されれば、生命は永遠に生き続けられるのかもしれない。しかし、われわれには寿命というものがあって、熱死に向かって、少しずつ進んでいく。熱死に向かう無秩序へのエネルギーが、身体の中に蓄積することを、「老化」と言い換えることもできるだろう。遺伝子のコピーミスが修復されずに蓄積されることで異常な細胞が増殖し続けるとがんになる。
 
 近年、抗がん剤治療の研究が飛躍的な進歩を遂げているが、その中で注目されているのが、「がんの微小環境」である。
 がん細胞が増殖するには、どこかに定着する必要がある。白血病のように、もともと全身を巡っている血液の細胞ががん化したもの以外、「ノマドながん細胞」が生き残るのは難しい。基本的にがん細胞は、増殖するための「足場」が必要なのである。その足場を「間質」という。
 
 間質とは、硬い線維をつくる細胞や栄養や酸素を運ぶ血管、そして、マクロファージやリンパ球など免疫担当細胞と、様々な細胞が産生する生理活性物質からなる。「間」質。多様な情報が「アイダ」で交換される、かなり編集的な場がイメージされるのではないだろうか。
 がんの微小環境とは、がん細胞と周囲の間質の相互関係性で成り立った特殊な「場」なのである。たとえば、がん細胞が自身に必要な栄養や酸素を運搬するための血管や増殖する足場となるための線維を作る因子を分泌することもある。また、免疫担当細胞からの攻撃を免れるためのたんぱく質を産生することもある。本庶佑先生がノーベル賞を受賞したのはこのたんぱく質が結合する受容体PD-1を発見したことによる。
 
 がん組織もそれなりの秩序を有し、熱死に抗っている側面を持つのである。顕微鏡からがん細胞たちを観察していると、彼らは無秩序さと秩序さのせめぎあいの中で、自らの生き残りをかけているんだなぁと思う。がん細胞たちが美しいパターンを織りなしているところを目にすることもあれば、一方で、これぞカオス!と思うほど、無秩序に増殖して、エントロピー増大の迫力にこちらが負けそうになることもある。
 
美しい肺がん(乳頭腺癌)
 
カオスながん(未分化肉腫)
 
 がん細胞の熱死を上手にコントロールすることががん治療には重要である。少し前に日本でもオプシーボという商品名で発売された薬は、PD-1をターゲットにした新しい抗がん剤で、免疫療法薬とよばれる。末期の肺がん患者さんの予後を著しく改善することで話題を呼び、その後も次々と色々な種類の免疫療法薬が登場している。
 免疫療法薬よりも先に登場した分子標的治療薬は、がん細胞がもっている特異的な分子めがけて攻撃する治療薬で従来の抗がん剤よりも副作用が少なく、効果が高いことが注目されていたが、がん細胞自体をターゲットにしている薬剤であった。それに対し、免疫療法薬は、微小環境に存在するリンパ球に着目している。
 がん細胞は、キラーTリンパ球からの攻撃を免れるために、このリンパ球の細胞表面に存在するPD-1と結合するPD-L1というたんぱく質を有している。免疫療法薬は、PD-1とPD-L1の結合を阻止し、リンパ球のがん細胞への攻撃性を強めるのである。がんの微小環境を巧みに利用した方法なのである。
 
 がんを攻略するには、がん細胞に「穏便な熱死」に向かっていただくことが賢明である。がんを闇雲に抗がん剤で叩き過ぎると、がんは生き残りをかけて、より悪性度の高い状態に変化することが分かっているし、がんの増殖の足場となる微小環境の状態が悪化しても、がんはその居心地の悪い環境から旅立つ力、つまり転移能を獲得しやすくなる。いずれにしても強い抗がん剤を使うと、強い耐性を持ったがん細胞が残っていくのが、抗がん剤治療のジレンマである。だから、がん細胞を怒らせ過ぎず、微小環境という場の状態をコントロールして、がん細胞を暴走させない方法が模索される。がんと共存する、というような発想もこれからきっともっと治療に取り入れられるだろう。がん治療にも相互編集的な視点と多角的なアプローチが必要なのである。
 
がんの微小環境

  • 小倉加奈子

    編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。