【三冊筋プレス】”つげ”ザーしようぜ〜! 《A面》(金宗代)

2021/09/14(火)09:00 img
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 多読ジムSeason06・春の三冊筋プレスのお題は、「旅する三冊」だった。現在進行中のSeason07・夏でもすでに三冊筋プレスのお題(「笑う三冊」)が配信済みだが、あらためて第一季から第五季までのテーマを振り返ってみると、(01)数寄をつなげて広げて (02)チャレンジする (03)幼な心へ (04)今年(2020年)の3冊 (05)日本する と続いてきた。

 ぼくは順番に、(01)ドン・キもすなる仮託というもの (02)黄色い本 セイゴオ・Mという名の先生 (03)編集的 “異神” 像 (04)シン・おしゃべり病理医 (05)ツイッター朱子学 というふうに本のタイトルにあやかりながら、なるべく「”ほ”の字」を強調して書くようにしてきた。「”ほ”の字」の「ほ」は、もちろん「惚れた」の「ほ」でもあるけれど、いちばんは「方法」の「ほ」。つまりは「よ(与件)・も(目的)・が(概念)・せ(設営)・わ(枠組)・ほ(方法)・り(隣接)」の「ほ」、「方法の強調」である。

 

三冊筋プレスのアイキャッチ画像
上左:ドン・キもすなる仮託というもの  上右:黄色い本 セイゴオ・Mという名の先生
下左:編集的 “異神” 像 下中:シン・おしゃべり病理医 下右:ツイッター朱子学

 

 たとえば「編集的 “異神” 像」では異神や牛頭天王の図版をガンガン貼りまくり、「シン・おしゃべり病理医」はわちゃわちゃとおしゃべり文体を、「ツイッター朱子学」は”Twitterもどき”で遊ぶようにした。で、今回の「旅する三冊」は”つげ尽くし”、”つげ三昧”。けれども、もともと芸の持ち札がたいして多いわけではないから、そろそろ次の一手に困ってきた。

 “つげの一手”…どうする、俺? …いやいや、落ち着け、落ち着け。“つげ本”はいつもこう告げているじゃないか。逃げたっていいんだよ。

 え? 逃げるは恥だが役に立つ?

 

「つげ義春 探し旅」

『スペクテイター〈41号〉 つげ義春』(幻冬舎) p28-29

本誌編集長の青野利光は巻頭言で次のように述べている。「ぼくたち編集部も特集を編集するにあたり、可能な限り多くの『つげ作品』に目を通しましたが、読み進めていくうちにまるで暗闇を歩いている気分になったり、ぱっと目の前が明るくなったり、さまざまに感情を揺さぶられました。あの不思議な体験は、まさに旅と言えるものだったと思います。この特集が、あなたの知らない世界を旅するお役に立てれば幸いです。」

 

 つげ義春はいつもどこかへ逃げようとしている。言ってみれば、漫画家という職業を選んだのも「逃げることから逃げる」ために選んだようなものだったのかもしれない。そもそものこと、出生のタイミングからしてまるで謀ったかのように、つげ一家が福島四倉から伊豆大島へと「引っ越しの途中」だった。

 その後も転居につぐ転居、母は転職につぐ転職、父は5歳のとき変死した。幼稚園では集団生活になじめず三日で退園し、たび重なる空襲のために小学校にもほとんど通わなかった。この頃から絵ばかり描いて遊ぶようになったらしい。「学校嫌い」だった義春は、空襲のたびに休校になるのが嬉しくて、「毎日空襲があればいいのに」と夢想した(まあ、子どもなんてそんなもんなんだろう。ぼくも父が死んだとき、内心では学校が休みになるのが嬉しかった)。


左:井上有一『東京大空襲』(岩波書店)表紙

右:「夢幻録〈草稿〉敗戦記」<21> 本書P26-27

「夢幻録〈草稿〉敗戦記」<21>は「明くる朝 学校へ来てみて始めて惨劇を目撃した。教室も校庭も全く酸鼻の極、目を蔽った。人間も黒焼ニなれば 猿や犬とかわりない、生やけの凄惨さはまともニ見られず、かわいそうとかゆう様な甘いものではない。…」と続く。

 

 1945年3月10日の東京大空襲も被災した。井上有一が「ぼくの今までの人生で、一番強烈な体験」と語った、約三百機のB29による東京人皆殺しを企んだかのような惨劇である。有一、二十九歳。義春、八歳。有一が教師をしていた本所の横川小学校と、義春が通学していた葛飾区の本田小学校はそう遠くない距離にあったから、もしかしたら二人は一度くらいすれちがっているかもしれない。有一は岩手の志戸平温泉へ、義春は新潟の赤倉温泉へと学童疎開した。

 さらに数十年を経て、前衛書家となった井上有一は「あの夜の大虐殺」を書をもって告発する。さっき「”つげ本”はいつもこう告げている」と書いた。そうは書いたけれど、つげ義春は何かを「告発」したくて漫画を描いてきたわけではない。「告白」は嫌いではないようだけれど、そのぶん、つげ義春は「告げる」ことよりもセルフ・エディトリアルに「”つげ”る」ことに徹していく。そういう意味では、井上有一が生涯こだわって描き続けた「貧」や「愚徹」をまっ正直に生きて、1987年の「絶筆」(断筆?)までそのことを一途に漫画にし続けた。

 

「噫横川国民学校」 前掲書『東京大空襲』P122-123

 

海上雅臣『井上有一 書は万人の芸術である』(ミネルヴァ書房)

 

左:「貧」 井上有一『新編 日々の絶筆』(平凡社)表紙

右:「愚徹」 前掲書 海上雅臣『井上有一』P150

 

 戦後、母親が再婚すると義父からはひどい虐待を受けた。いっぽう、元漁師で泥棒(!)に転職した祖父(母の義父)からは溺愛された。この「義父の虐待」と「泥棒の祖父」、さらには先述した「実父の変死」という奇妙な「父性の三位一体」「逃亡癖のアーキタイプ」を培ったのかもしれないとも思える。

 されど義春の苦難は続く。生まれながらの自閉症、赤面癖、対人恐怖症の傾向がいっそう激しくなって、小六の秋の運動会のとき、大勢の人前で走るのが恐ろしくなり、自分の足の裏をカミソリで切った。怪我をしたと偽れば、運動会に参加しなくてすむと思ってそうしたのだが、傷は計算以上の大きさになり、数日も治らなかった。この男、大人しそうに見えて、やることは結構過激だ。普段はモーレツに内気なのに、ふいに大胆不敵な行動に出ることがある。

 十四、五歳のとき、やはり義父から逃れるために二度も密航(!)を企てた。とくに二度目が惜しかった。横浜からニューヨーク行きの日産汽船にもぐりこむことに成功した。しばらく煙突の中に隠れていたのだが、あまりの暑さに入り口の戸をごく細めに開けて風を入れていたのが運の尽き。あえなくバレて、横須賀の田浦海上本部に連行される。「己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし」と石川啄木のように悔恨したわけではないけれど、つげ義春は「十四の春」を「海へ」という漫画にした。執筆は1987年、絶筆の年である。

 

 「海へ」

『つげ書春コレクション 大場電気鍍金工業所/やもり』(筑摩書房)P66-67

「義父の意地悪い目」から逃れるために密航する少年の様子が描かれている。

 

「海へ」(同書P73-74)

「大島にはぼくが四歳のときに死んだ父がまだ元気でいるような…」とノスタルジックに回想する。


 かくして悶々としながらも兄とメッキ工員をやったり、唯一の親友O君の中華そば屋で働いてみたりしていたのだが、十六歳の秋、あることをきっかけに漫画家になることを決意する。まさにレジェンド、漫画の神様・手塚治虫(L-01①)との出会いである。「小六の秋」に続く「秋」の大事件だ。

 兄に付き添ってもらい、まだ手塚が一人で暮らしていたトキワ荘を訪ねた。「ファンです」とドアをノックすると、とても親切に応じてくれたらしい。突然の来訪にもかかわらず、一時間以上も長居させてくれた。兄が外で待っていることを伝えると「早く中へ連れてきなさい」とも言ってくれた。

 これだけ聞くと、漫画家を夢見る少年が憧れの人に会いにいったふうの話に思えるけれど、義春が手塚に面会した理由はちょっと変わっている。というか、切実だ。もちろん手塚に会ってみたかったということもあるのだけれど、義春の最大の関心事は「原稿料」だった。それで食っていけるのかどうか。新人漫画家の原稿料を知りたかったのである。

 

左:メッキ工の少年を描く「大場電気鍍金工業所」 前掲書『大場電気鍍金工業所/やもり』P28

右:『痛快ブック』(芳文社)1954年10月号に掲載されたつげ義春デビュー作品

『つげ義春 夢と旅の世界』(新潮社)P60

 

貸本マンガの『白面夜叉』(若木書房)はつげ書春の最初の著作。

『つげ義春 夢と旅の世界』P59

 

 その翌年、雑誌『漫画少年』の編集室(L-01③)で偶然もう一度手塚と会った。義春のことは覚えていないようだったが、持ち込み原稿にアドバイスをしてくれた。つげ義春が手塚治虫と会ったのは生涯でこの二度だけである。他のトキワ荘のメンバーでは赤塚不二夫(L-19)とは親しかったらしいが、ともかくも、思惑どおり手塚治虫から原稿料の金額などを聞き出し、プロの漫画家になることを決意する。

 対人恐怖であっても、部屋に閉じこもったまま収入が得られる漫画家という職業にどんどん惹かれていった。メッキ工場に勤めるかたわら、4コマを描いては出版社に送り続け、ついに児童雑誌の『痛快ブック』(芳文社)で採用決定。有無を言わせず、最初の原稿料は八人家族の生活費の一部にあてられた。まるで樋口一葉だ。それでも自信を得た義春は母の反対を押し切り、メッキ工を辞めて退路を断つ。

 さらに翌年、若木書房から『白面夜叉』を出版し、実質的なデビューを飾る。手塚治虫作品をベースとしながら、同じ若木で作品を発表していた同世代の永島慎二や遠藤政治の手法にあやかった。のちにつげ・永島・遠藤の三人は「若木の三羽鳥」とも言われ、出版社の看板作家となった。このあたりの話はホリエさんの「マンガのスコア つげ義春」(L-02①)に詳しい。

 ちなみになぜ若木書房からデビューしたのかといえば、やはり原稿料に目をつけた。若木は他社のおよそ倍の一冊分、買取で3万円だったからだ。だが、貧乏は止まらない。貸本業界も不景気でたびたび飢餓状態に追い込まれた。自殺未遂もした。

 

水木しげる「つげさんはスケベで怠け者でしたね。でも品物はいいんです」

千夜千冊0921夜『ねじ式・紅い花』より


 ところで、つげ義春は「もどき」がうまい。『つげ義春 漫画術』(つげ義春、権藤晋/ワイズ出版)には「ぼくは個性がないんですよ、最初から」という名言もある。水木しげる(L-29)の助手をつとめていた頃は、一日か二日で20ページほど描き上げ、「原稿のなかに女性の顔が出てこなければ、つげさんが描いていたとは誰も気がつかなかった」と言われるほどにソックリ真似て描くことができた。

 そして「擬く」のもうまいが、「口説く」のもうまい。旅のエッセイなんかを読んでいるといつも妙に納得させられる。説得力がある。とくに「締めくくり」がうまい。口説くのがうまいといえばもう一つ、旅先では気がつけば女と寝ている。炬燵の中でいちゃいちゃしている。

 千夜千冊0921夜『ねじ式・紅い花』で紹介されている「つげさんはスケベで怠け者でしたね。でも品物はいいんです」という水木しげるのつげ評のとおり、つげ義春は根っからのスケベ。スケベ・オブ・スケベ。世の大半のスケベさんと違うのは、”むっつり”ではないところだ。照れない。怯まない。むしろそんなときこそ大胆不敵な捨て身なつげ義春にスイッチする。女風呂だってヘッチャラで、カメラを持たせれば、ためらうことなくずかずかと乗り込んでいってしまう。

 ところが、スケベなわりに(そのせいで?)女を描くのは下手だった。「美人とブスは簡単に描き分けられるけど、美人はみんな同じになっちゃう」(『つげ義春 漫画術』)のだそうだ。

 

左:夏油温泉(岩手県北上市和賀町岩崎新田、昭和44年8月撮影) 『つげ義春の温泉』P16-17 

右:蒸ノ湯温泉(秋田県鹿角市八幡平能沢国有林内、昭和44年8月撮影) 同書P40-41 

 

 擬くためには「手本」がいる。手本を見つけるつげ義春の「注意のカーソル」の動向も面白い。たとえば小説は「私小説一本槍」と決めている。私小説フェチだ。ともかく私小説だけを読みまくる。嘉村礒多、葛西善蔵、加能作次郎、古木鉄太郎、宮地嘉六…など私小説作家の名前ならいくらでも列挙できるようだ。そしてなんてったって、川崎長太郎。

 漫画なら、デビュー当時は横山光輝(L-18)の「音無しの剣」と永島慎二の「謎の白仮面」を何度もくり返し読んだ。また、時代物は白土三平(L-21)、ミステリー物を描くときは辰巳ヨシヒロ(L-11)を擬くとこれも決めていた。その後、辰巳とは親交を結び、奇しくも『ガロ』につげ義春を抜擢したのは白土だった。短編作品の「おばけ煙突」を高く評価したらしい。白土はつげ義春のことをよほど気に入っていたらしく、贔屓にしていた千葉・大多喜の旅館にも招いてともに滞在した。かの有名な「旅館寿恵比楼」である。

 そんなこんなでいよいよ、つげ義春の第二期と目されている「『ガロ』時代」を迎え、1966年、「沼」「チーコ」を立て続けに発表。批評家のあいだでは、この二作品がつげ義春のターニングポイントになったとされている。当時、つげ義春自身も「沼」について「完璧な作品だと思った」と相当の自信をもっていた。「チーコ」は初めて私的体験を漫画にすることを試みた。だが、評判は散々だった。

つげ義春の「全体像」赤田祐一のエッセイ「つげ作品の面白さ」内の図解)

『スペクテイター』P33

 

「”ガロ時代”の2年間」を見開きで展開。

『つげ義春 夢と旅の世界』P64-65

 

「沼」

『つげ義春コレクション 李さん一家/海辺の叙景』P224-225

 

チーコ」

前掲書『李さん一家/海辺の叙景』より 

 

 この頃、つげ義春は井伏鱒二にハマっていた。井伏を教えてくれたのは白土のマネージャーだった。「沼」のセリフも井伏文学にあやかった。旅と釣りをこよなく愛するこの作家に影響を受け、旅に出たくてウズウズしてもいた。そんな中、自信作が不評に終わり意気消沈ときたものだから、やるべきことは一つしかない。

 1966年8月、友人Tと東京の秘境、檜原村の数馬へと旅立った。そこで「世の中から見捨てられたような貧しげで粗末で惨めな風景」、とりわけ「家畜小屋に近いような貧しげなワラ葺き」に目を奪われた。心を洗われた。このときから「素朴でもの詫びた地方の風景」を求めて、取り憑かれたように旅をするようになる。また同年、「亀田屋」という旅籠に滞在したことをきっかけに、こんどは宿場や街道にも興味を持つようになった。

 「つげさび」と「つげわび」…? もし、つげ義春に「さび」を感じるならその原型はメッキ工場の「錆び」なのかもしれない。あるいはもし、つげ義春に「わび」を感じるのなら、その原体験は檜原村の数馬で見た「ワラ葺き」なのだろう。

 なんにせよ、1966年、中国の大文化革命が始まったこの年、やはりつげ義春にとっても「革命の年」になったことは間違いない。まさに「断点」から「断然」へ。旅人・つげ義春の誕生である。

 

「長八の宿」

『つげ義春コレクション 紅い花/やなぎ屋主人』P40-41

 

「二岐渓谷」

前掲書『紅い花/やなぎ屋主人』P66-67

 

「ほんやら洞のべんさん」

前掲書『紅い花/やなぎ屋主人』P124-125

 

「もっきり屋の少女」

前掲書『紅い花/やなぎ屋主人』P134

「ねじ式」発表と同じ1968年、「長八の宿」「二岐渓谷」「オンドル小屋」「ほんやら洞のべんさん」「ゲンセンカン主人」「もっきり屋の少女」など旅を題材としたいわゆる「旅もの」の漫画を次々と発表し、好評を博した。

 

左:つげ義春のカメラコレクション 『スペクテイター』P200

右:カメラを売る 『つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人』P273

いっときは250台ものカメラを蒐集し、中古カメラ屋の「ピント商会」を設立するも失敗。「無能の人」のようにさすがに石屋になろうとは思わなかったらしいが、古本屋、喫茶店などつげ義春は隙あらば副業を目論んでいる。『つげ義春の温泉』の「養老(年金)鉱泉」というエッセイでは鉱泉の経営計画を披露している。

 

 ちなみに「友人T」というのは、つげ義春の唯一の友人である「立石くん」のこと。「相模原の酔狂人とか、退屈男、ニヒリスト、鉄面皮などと自称する救いのないヒマ人で、旅行に誘うと死にもの狂いでとんでくる」らしい。そのため、「旅行の回数の半分くらいは、いつも友人の立石さんと一緒だった」らしい。また、立石くんは町田で<天堂>という古本屋を営み、「その店は、大正・昭和初期の本を目玉にしていた」らしい。

 まったくの別人だが、同時代の「立石くん」といえばタイガー立石こと立石紘一が思い出される。ちょうどいま、「大・タイガー立石展」が開催されているが、立石紘一はこの頃からナンセンス漫画を描きはじめ、1968年に「タイガー立石」を名乗り『TIGER TATEISHI』を自費出版。革命の狼煙を上げていたのはつげ義春だけではなかったのである。

「動乱の1968年」といえば、東大紛争、プラハの春、金嬉老事件、キング牧師暗殺、パリ五月革命、ケネディ暗殺、三億円事件、キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』、スチュワート・ブランドの雑誌『ホールアース・カタログ』、アラン・ケイの「Dynabook」、カスタネダ『呪術師と私』吉本隆明『共同幻想論』、ツェッペリンやジャーマン・ロックの出現、『少年ジャンプ』創刊、そして、つげ義春の「ねじ式」である。

 

1968年

『情報の歴史21』(編集工学研究所)

 

右:「大・タイガー立石展 POP-ARTの魔術師」フライヤー(千葉市美術館)

左:「大・タイガー立石展 トラック、トラベル、トラップ、トランス」フライヤー(青森県立美術館)

 

 ちょっと話が逸れた。捩れた。今回のテーマは「旅」。「ねじ式」の話は、もっかトレーニングまっ最中のSeason07・夏の三冊筋のテーマ「笑う三冊」に逃したい。「”つげ”ザーしようぜ〜! 《B面》」に書いてみたいと思う。

 つげ義春の旅は1966年から始まった。『貧困旅行記』巻末収録の「旅年譜」もこの年から始まっている。とりわけ1976年までの10年間は旅、旅、旅の日々。付録の「つげ義春 旅マップ」にはその夥しい旅路の痕が記録されている。北海道、島根、和歌山、山口、宮崎、鹿児島、沖縄の7道県を除いて、日本全国に足を運んだようだ。妻の藤原マキと同棲し、息子・正助が生まれてからは家族旅行が中心になった。本書収録のエッセイ「大原・富津」「奥多摩貧困行」「下部・湯河原・箱根」「鎌倉随歩」などは家族旅行の話である。

 ちなみに『貧困旅行記』という本のタイトルの由来は「貧乏な旅と、旅の内容と自分の貧困に拠るものである」。

 

つげ義春 旅マップ 『貧困旅行記』巻末収録


『つげ義春の温泉』はほとんど文庫写真集の様相で、本の半分以上が温泉地の写真で埋まっている。エッセイは温泉ではなく鉱泉の話が多い。そもそもつげ義春の温泉旅行の目的は温泉につかることではない。「ふらりとやって来て、何をするのでもなく、宿でごろりと横になっているだけでいいのだ、みすぼらしくて侘しげな部屋にいる自分が何故かふさわしいように思え、自分は『本当はここにこうしていたのかもしれない』というような、そんな気分になるのだ」。

 また例えば、「オンドル小屋でムシロを敷いて毛布にくるまっている細々とした老人」を見て「人生のどんづまりを見る思い」になったり、「侘しい部屋でセンベイ蒲団に細々とくるまっていると、自分がいかにも零落して、世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚える」。「ささやかな解放感」や「つかの間の安息」が旅の醍醐味なのである。「ボロ宿考」というエッセイにはそんな話ばかりが淡々と綴られている。

 そのため、バブル経済とあいまって全国各地に温泉ブームがおとずれ、しだいに温泉地から「侘びしげな佇まい」が失われていくと、温泉には興味を失った。今度は「鄙びた鉱泉」に惹かれるようになったというわけである。

 

「オンドル小屋」

前掲書『紅い花/やなぎ屋主人』P84-85

 

「ゲンセンカン主人」

『つげ義春コレクション ねじ式/夜が掴む』P30-31


 いきなり結論めいたことを書くけれど、「本当はここにこうしていたのかもしれない」と思うのも「世の中から見捨てられたような心持ち」になるのも、おそらくつげ義春はその旅によって得られる、いっときの「気分」や「つもり」というものに賭けているのである。”「どんづまり」の何か”にいっときアイデンティファイすることでそこに立ち現れる「別様可能性」というものが、どうやら「救い」になっているらしい。

「あっそこに私がいる」という誰でも感じたことのある、あの感覚だ。「別様”可能性”」という以上、それはあくまでも未完未遂の”可能性”にとどまるが、「いつもの私」ではない「別の私」、そのほか「たくさんの私(=つげ義春)」に出会えさえすれば、それでいいのである。

 当然、いわゆる「自分さがし」とはぜんぜん違う。つげ義春はそれを「自己否定」という言い方であらわしているが、わかりにくい。それなら、みうらじゅんふうに「自分なくし」と言った方がわかりやすいかもしれない。ただし、つげ義春の場合、「マイ仏教」には向かわない。どちらかといえば、荘子の「胡蝶の夢」「万物斉同」「無用の用」っぽい。そのとき、「注意のカーソル」はたいていは「貧」であり「負」であり「愚」なるものに向かっている。

 

この紀行の系譜は、つげ義春が継げばいいはずなのである」

千夜千冊0921夜『ねじ式・紅い花』より

 

 けれど、そうかと思えば、川崎長太郎の「ふっつ・とみうら」を読んで「富浦」へ。「蒸発旅日記」は深沢七郎「風雲旅日記」の話から始まり、「猫町紀行」は萩原朔太郎の「猫町」が下地になっている。「日原小記」は田山花袋の「花袋紀行集」を読んで旅を追体験している。こうした仮託の旅をつげ版の「奥の細道」と言ったら大袈裟だろうか。
 はたまた、「日川探勝」というエッセイでは「小島烏水、木暮理太郎、田部重治、河田棹(ツクリは貞)、大島亮吉、中村清太郎、辻まこと」の名を挙げて「今はそのあとを継ぐものがどうして出ないのだろうか」と惜しんでいる。それならと千夜千冊では「この紀行の系譜は、つげ義春が継げばいいはずなのである。それができる人なのである」と背中を押すが、そこはつげ義春。「継げる」ことにも「告げる」ことにもいっさい関心を示していないようである。

 絶筆が早かったのもそのせいだろう。もったいないが、よく言えば、いさぎがいい。だからこそ、「締めくくり」がうまいのかもしれない。

 そういう出世に無頓着なところ、いつも隠居に憧れ、宵越しの銭は持たないこころ、ときに火消しのように大胆不敵で、カメラを持たせれば逝きし世の面影を写し、引っ越しが朝飯前で三軒長屋でも構わず移り住むあたりなど、まさしく“つげつげ”しい。まるで落語の登場人物のような、そんな葛飾生まれの実は江戸っ子なつげ義春もぼくはたまらなく好きである。

 

アイキャッチ画像で模倣した「肘枕でだらしなく寝そべる」ポーズ。

『つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人』「無能の人」扉絵より

 

《B面》に つ げ く

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

『スペクテイター〈41号〉 つげ義春』エディトリアル・デパートメント 編/幻冬舎

『新版 貧困旅行記』つげ義春/新潮社

つげ義春の温泉』つげ義春/筑摩書房

 

⊕多読ジム Season06・夏⊕
∈選本テーマ:旅する三冊
∈スタジオゆいゆい(渡會眞澄冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体型

 

   ◉『スペクテイター

  ・ ・

 ◉ ・ ◉『新版 貧困旅行記

つげ義春の温泉

 

⊕著者プロフィール⊕
∈つげ義春
編集的先達A:井上井月。嫌なことからはとりあえず逃げる。転居と転職を繰り返す転々の日々。趣味は読書と旅と写真。旅のバイブルは『図説 日本文化地理体系』。秘湯ガイドなら大石真人。

 

 


  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:水木しげる
    セイゴオ師匠の編集芸に憧れて、イシス編集学校、編集工学研究所の様々なメディエーション・プロジェクトに参画。ポップでパンクな「サブカルズ」の動向に目を光らせる。
    photo: yukari goto