【三冊筋プレス】なる、なっているユーモリスト(林愛)

2021/11/17(水)09:11
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 おもしろいつもりなんてない、ぼくはいつでもおおまじめだよ。
 おかあさんはどうしてぼくをみてわらっているの?

 

 ヨシタケシンスケの絵本の男の子にそう聞かれているような気がして、『笑いの哲学』という本を手にとってみた。美学とダンスの研究者である木村覚は、西洋哲学の中で考えられてきた笑いを整理し、日本のお笑いを例に重ねながら、笑いを三つに分類している。

 

 優越と恐怖
 ひとつ目は、優越の笑い。ベルクソンは『笑い』(岩波文庫・ちくま学芸文庫・光文社古典新訳文庫)の中で、「わたしたちを滑稽なものにする欠陥は、外からもってこられた出来合いの枠というべきもの」だという。「出来合いの枠」とは、社会が想定する不恰好な状態を指すレッテルである、と木村は添えている。
 よくわからないものは怖い。その恐怖から解放されたくて、異質なものに出来合いの枠を嵌めて、滑稽なものとして笑おうとするのかもしれない。エドマンド・バークも『崇高と美の観念の起原』(みすず書房)に「或る事物が極めて恐ろしいものであるためには、曖昧さが概して不可欠な要素のように思われる」と書いている。曖昧の中にそんな枠を嵌めて輪郭をとれば、恐怖を滑稽に変換できる。

 

 はかない関係
 ふたつ目は不一致の笑い。木村は18世紀のスコットランドの詩人で哲学者のジェイムズ・ビーティの「笑いとおかしな構成について」というエッセイを取り上げる。それによれば、「二つのものの笑える組み合わせとは、両者の関係がある程度不適合であり、異質的であることをその条件とする」という。笑いの原因あるいは対象は、「関係と関係の欠如との対立」なのだと。異質なものに暫定的に関係が結ばれ笑いが生まれる。ここではそれぞれが異質であるからこそ、笑いが生まれている。関係発見術である編集術は、笑いも創発する。

 

 掟破りのユーモリスト
 みっつ目はユーモアの笑いだ。ここでは20世紀前半のアメリカの批評家であり政治活動家のマックス・イーストマンが引き出される。イーストマンは、笑うことを可能にする気分を「遊びの気分」と呼んだ。木村は「ものごとに対する通常の見方や価値から一旦距離をとり、別の見方や価値をそこに見出してみることが、ここで言われている遊び」と解説する。
 『薔薇の名前』(東京創元社)で描かれていたように、中世のキリスト教会で笑いが禁忌とされていたのも、社会の掟に対する笑いの突破力がわかっていたからなのだろう。笑いは緊張や不安をほどき、うっかり人をなにかの管理下からはみ出させてしまったりもする。

 

 ここで、赤坂憲雄が「とびっきり腕っ節の弱そうなアナキスト」と評する栗原康を登場させよう。栗原は『はたらかないで、たらふく食べたい―「生の負債」からの解放宣言』という、今の社会の掟をハナから無視したようなタイトルの本を書いた。独特のグルーブ感のある文章で、衒いなく収入や恋愛や身の回りの出来事を語り、そこに一遍上人や荘子や源氏物語が重ねられたりするエッセイだ。そこでこう主張する。
 「修行や功徳をつんで、自分のちからで救いを求めるのはよくないことだ。それは自分の行為に見返りをもとめるということであり、これだけやったのだから、これだけの報酬がみあっているとか、なんらかの価値尺度をもうけることである。それは善悪優劣のヒエラルキーをみとめるということであり、ひとがひとに支配されるということでもある。そういう自力をすべて捨てて、かんぜんなる自由に身をまかせよう。」
 これはマックス・ヴェーバー資本主義を実現した精神とした、プロテスタンティズムの真逆をいっている。「はたらかないで、たらふく食べたい」のだからあたりまえか。

 

 なること礼賛
 栗原のかんがえる自由とはこういう状態のようだ。
「わたしたちはこうありえたという無数の過去とともに、いまを生きていくことができるだろうか。たぶん、それができたとき、わたしたちはなにものにもしばられずに、自由にものを考え、自由にふるまうことができるのだろう。」
 そして、ひさしぶりに開いた高校の教科書でラスコーの壁画に目を引かれては、「クロマニヨン人は、シカになることそれ自体を、生きるよろこびだとおもっていたのだ」と感ずる。
 ありえた過去にもシカにもなれる。というより、なっている、出入りしている、混じっている。栗原が本書の後に『村に火をつけ白痴になれ』(岩波書店)という評伝を書いた伊藤野枝の、「偶感23」という文章から「子どもになって子どもをおもう。それが子どもを育てるということなのではないか」と解釈したところにもそれは通じている。

 

 「子どもになる」ことの達人として思い浮かぶのがヨシタケシンスケだ。『もうぬげない』は、早くお風呂に入れようとするおかあさんに対して、自分で服を脱ぐと主張し、頭を抜くことができなくなった男の子の、外見には小さく内心では大きな奮闘を描いた絵本。その結果衝撃(笑)の姿でおかあさんに発見される、彼はまさにユーモリストだ。
 現在のヨシタケは2児の父だが、絵本の中では「…けっきょくいつもおかあさんのいいなりだ」とこぼす子どもになる。わたしはここではっとした。子どもになる回路をもっていることを、親になってから忘れていたことに気づいて。

 

 『夜と霧』(みすず書房)を書いた精神科医のフランクルは『死と愛 実存分析入門』(みすず書房)で「症候に対して距離をもつこと、及び症候を客観化することは、自らを不安感情のいわば「傍ら」に或いは「上に」おくことを患者に可能にする使命をもっているのである。そしてこの場合に距離をつくるのにはユーモアが極めて適当なのである」と書いている。
 遊びの気分で「なにかになる」ことができたら、傍らでも上でも動きまわることも自由自在だ。


 誰かに枠を嵌めることで優位になり、劣位になる恐怖から逃れようとするのではなく、枠を成立させる優劣の掟から自由になったところに、ユーモアの空間がある。異質あたりまえ。笑いは場によるのだ。場とはなにかとなにかの関係性。それを断じて枠や掟などで測らないぞ。むしろ掟を笑っちゃおう、遊んじゃおう、「ふくがぬげないんだったら、ぬがなきゃいいんだ!」。今たまたま見つけた関係、消えモノの笑い、ばんざい。

 

 

INFO


∈『笑いの哲学』木村覚/講談社選書メチエ

∈『はたらかないで、たらふく食べたい 増補版 ―「生の負債」からの解放宣言』栗原康/ちくま文庫

∈『もうぬげない』ヨシタケシンスケ/ブロンズ新社

 

⊕多読ジム Season07・夏⊕

∈選本テーマ:笑う三冊

∈スタジオNOTES(中原洋子冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐型


  • 林 愛

    編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。

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