【三冊筋プレス】世界の裂け目にユーモリストあり(小倉加奈子)

2021/10/08(金)09:09
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切なくて間抜けで、愛しくて

 

 『蚊がいる』の穂村弘さんは、自意識過剰でいつも他人のリアクションを予想し、くよくよ、いじいじ、もぞもぞと決断しきれないままでいる。ケーキのシェアの方法も、雑踏で誰かとぶつかりそうになった時のごめんのタイミングも、閉まっているトイレのドアをノックしていいのかどうかもわからない。穂村さんは正解を求めて悶絶する。なんとか意を決して行動に出るが、その予想はいつもあっけなく外れる。穂村さんと他者との世界の間には、とてもささやかだけれど深い裂け目があって、その溝に毎度、穂村さんは足先をひっかけ、ずっこけるのだ。その真面目さ、愚直さ、不器用さは、切なく間抜けで愛しい。そして、おかしい。

 

 でもそれらの出来事は、穂村さんだけの話ではない。おかしいのは身に覚えがあるからだ。日常は他者とのズレと溝に満ち溢れている。だから本当は、毎日もっと笑えるはずなのだ。


笑いの偏差値?

 

 日常をさらに笑いで満たすことは可能である。でも、それには笑いの能力を育てていくことが必要らしい。笑いは、自然と漏れてきたり湧き上がったりするものだと思っていたけれど、どうもそうではないようなのだ。笑いにも、学力同様に“笑い偏差値”のようなものがあって、生き抜く力の強さやストレス耐性が、指数として表せたりするのかもしれない。松本人志は、俺たちのコントがウケないのは、客の笑いのレベルが低いのだと言っていたらしい。


 笑いのレベルとは、具体的にふたつある。ひとつは、言葉の意味が理解できること、もうひとつは、話者が発揮した機知の才がわかることである。この両方が満たされない場合、時に笑いは受容されずに悲劇を生む。SNSやYouTubeにおいて、尖ったユニークさは共感が得られずに時に炎上の要因になり、バッシングの対象となる。それほど尖っていなくとも、私が口にした何気ない冗談の一言が、天然ボケのじゅんちゃん(私の母)を思いがけず傷つけてしまうこともある(天然のひとのボケは、本人としては一生懸命の結果だから笑うと傷つくことが少なくない)。一方で、私自身、他人から投げかけられた軽口が妙に心に刺さって笑えないこともある。


 私の笑いの偏差値がどれくらいなのかは、計り知れないが(たぶん、笑い上戸だから偏差値70くらい叩き出しちゃうんじゃないかしら?)、学力の偏差値が、模試の出題傾向によって揺れ動くのと同じように、心模様や相手やその場の雰囲気によって上下するように思う。


笑いの与件

 

 ここまで笑うことに注意のカーソルを向けてきたけれど、笑いには、笑われる対象が必要だ。笑いは必ず、”笑う者”と”笑われる者”を分けるのだ。


 笑いには、それ以外にいくつかの与件があることを木村覚さんが『笑いの哲学』の中で教えてくれている。


 笑いの大きな前提のひとつとして、社会の掟がある。笑いとは、社会の掟という枠組みの中で生じる現象なのである。

 

 穂村さんのエピソードに登場する数々の他者とのズレは、社会の枠組みに対して感じるものである。その枠組みに従う窮屈さからも、思わず枠組みから逸れてしまった不安定さからも笑いは生まれる。そういった笑いには、類似したパターンが見受けられ、ベルクソンは、それには「出来合いの枠」が関与しているとした。

 

 人間は、ある出来事に対する誰かの行動や反応を既存のステレオタイプと重ねて理解しようとする。「あるある」という表現なんかもそのひとつである。それは卑屈さを感じさせる一方、その滑稽さによって、人々の間に共感を生み出すというメリットもある。私たちは、穂村さんのエピソードに「出来合いの枠」を感じることで、「穂村さんもおんなじなんだ!」と、安心し、その間抜けさを笑うことができる。私たちは、笑いたいだけでなく、時に笑われる者にもなりたいが、同時に笑われる怖さやみじめさを知っている。だからこそ、自分と似たような境遇に陥る他者を笑いながら、自分のことも同時に笑って慰められるのである。

 

 

死を避けられないからこそ笑いを

 

 笑いの与件のひとつである「掟」の究極は、である。死という究極の掟に向かうために、人はユーモアを発揮する。避けられない死に直面する人間にとって、ユーモアは生きるために必要なものである。

 

 『笑う子規』は、天野祐吉さんがユーモア溢れる正岡子規の人柄が滲む俳句を集めた本である。南伸坊さんの洒脱な画が添えられ、天野さんのツッコミが一句ごとに入っている。子規のユーモアがさらに膨らむ仕立てが楽しい。表紙には、目をつむる剽軽な表情の子規の横顔に「枝豆ヤ 三寸飛ンデ 口ニ入ル」の一句が可愛らしい。


 子規は、苛烈な闘病のさなかにバカバカしかったり、ふざけたような句をたくさん作っている。子規は、冗談好きで快活で、野球好きの青年だった。加えてかなりの食いしん坊であった。食べ物の句もとても多い。肺結核を患い、結核菌が脊椎や消化管を侵して、寝起きもままならなくなっても、表現欲と食欲を満たすべく、たらふくご飯を食べては句を詠み続けた。

 

 糸瓜(へちま)咲きて痰のつまりし仏かな

 

 子規は、最後までユーモアという盾で、死に直面する自分の身体から、心を自由に遊ばせたのである。
 

 第二次大戦中にナチの収容所での生活を経験したヴィクトール・E・フランクルは、『夜と霧』の中で、ユーモアは、自分を見失わないための魂の武器だと述べている。


ユーモア・パンデミック
 
 フランクルは、ユーモアの効能とともに、不安によって不安をやり過ごす方法である逆接志向についても言及している。逆接志向は、弱さを見せることで弱さを乗り越えていく強さを持つ。幻聴に悩む患者さんが、幻聴を失くそうと努力するのをやめ、「幻聴さん」と呼んで、幻聴と気長につきあっていく例などを見ると、そこにはフラジャイルなユーモアを感じる。


 木村さんは『笑いの哲学』で、日本社会の中でユーモアが育まれる条件に、「絶望しても良いという安心」を挙げている。失敗や挫折を避け、リスクを回避しようとする心がまえがかえって不安を招いているのだから、むしろリスクの過剰な回避を逃れ、弱さを肯定し、弱さの価値を開く、まさに開き直りの土壌を耕すことが、ユーモアを花開かせ、日々を笑いで満たす近道なのだろう。


 フロイトは、”ユーモアは感染する”といった。ユーモリストは「掟」に抗い、自分だけではなく自分の言動を見聞きした他人の内にも、状況に打ちひしがれない勇気を与えるのである。コロナウイルスの代わりにユーモア・パンデミックを起こせないかな。たくさんの日本人が、ユーモリストになるといい。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕
『笑いの哲学』木村覚/講談社選書メチエ
『蚊がいる』穂村弘/角川文庫
『笑う子規』正岡子規・天野祐吉・南伸坊/ちくま文庫

 

⊕多読ジム Season07・夏⊕
∈選本テーマ:笑う三冊
∈スタジオ彡ふらここ(福澤美穂子冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐

        ◉蚊がいる

 笑いの哲学 ◉┤

        ◉笑う子規


  • 小倉加奈子

    編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。