ギャグマンガ | 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp Thu, 11 Sep 2025 09:55:28 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 https://edist.ne.jp/wp-content/uploads/2019/09/cropped-icon-512x512-32x32.png ギャグマンガ | 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp 32 32 江口寿史 前進、前進また前進【マンガのスコア LEGEND44】 https://edist.ne.jp/dust/manga44_eguchi/ https://edist.ne.jp/dust/manga44_eguchi/#respond Fri, 04 Feb 2022 23:40:45 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=36624  江口寿史は「マンガ家」です。 まずはこの一点は押さえておきたい。 しかし、それと同時に、やはり当代一流の絵師でもあります。 以前、井上雄彦を「絵師」と表現しましたが、マンガ界で最も「絵師」らしい「絵師」といえば、やはり […]

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 江口寿史は「マンガ家」です。

まずはこの一点は押さえておきたい。

しかし、それと同時に、やはり当代一流の絵師でもあります。

以前、井上雄彦を「絵師」と表現しましたが、マンガ界で最も「絵師」らしい「絵師」といえば、やはり江口寿史ということになるでしょう。

 

 しかし、井上雄彦と江口寿史とでは、性質的にかなり違うところもあります。

 巨大なキャンパスに、いきなり大胆に筆を走らせたり、アタリも取らずに黒板にチョークでガンガン描きつけていく井上先生とは対照的に、江口先生は、描いては消し、描いては消し、を無限に繰り返しながら、疲労困憊しながら描いていくようなタイプなのですね。

 江口寿史の絵は、「もうこの線以外ありえない」というぐらい正確な線が、寸分の狂いもなく引かれていて、隅から隅まで全く隙がないのですが、一本の線が一発では決まらず、まるで溝口健二や相米慎二のように何十回もリテイクして、ようやく仕上げている、といった風情です。

 もっとも、江口先生も実際にはライブペインティングのようなこともやっていますし、一発描きも、やろうと思えばできる人なのでしょう。しかし、それは江口寿史の本来のスタイルではないように思います。

 

 とにかく徹底的に作品を彫琢していくタイプの作家、それゆえ、スピードと量産を旨とする我が国のマンガの生産体制とは、真っ向からぶつかってしまう作家、それが江口寿史です。

 今回は、そんな江口寿史の「マンガ」作品の中から、とりわけ傑作の誉れ高いこの作品を模写してみることにしました。

 

江口寿史「くさいはなし」模写

(出典:「COMIC CUE Vol.1」イースト・プレス)

 

 前回の安彦良和に味を占めて、またしても筆ペンを使ってみました。最近の江口先生は筆ペンをよく使われているようですが、この頃は、まだ【ミリペン】ぽいです。

 予想はしていましたが、大変でしたね。何度描き直してもうまくいかず絶望的な気分になりました。

 二コマ目や三コマ目の【人物アップ】など、全然違う顔になってしまいましたが、もうどうしようもありません。江口寿史のタッチは全くごまかしが効かないですね。うまく描けないところをテキトーな線でごまかす、という、いつも使っている手が全く使えませんでした(笑)。

 そして当然のことながら、【もの凄く時間がかかりました】。これまでの模写の最長記録かも。全コマ、こんな調子で描いていたら、そりゃ原稿落ちるわ。

 

 ちなみに今回、模写の元ネタに使った「くさいはなし」は8ページの掌編で、初出は1994年「COMIC CUE」(コミック・キュー)の創刊号。江口寿史が責任編集をした伝説の雑誌です。第二号には「絶食」(原作・楳図かずお)、第五号には「岡本 綾」が掲載されていますが、さすがに「CUE」に発表する作品は気合いが入るのか、どれも粒ぞろいの傑作です。

 

■努力の人

 

 さて、毎度おなじみビギナー向けのバイヤーズガイドとしてオススメしたいのは『青少年のための江口寿史入門』(角川書店)です。

 上記「CUE」掲載の三作も収録されたお買い得品。とにかく江口寿史といえばイラストレーターだと思っている人には、まずはこの作品集で「マンガ家・江口寿史」の底力を知ってほしいところです。

 江口は、四ページとか八ページとかの掌編ギャグで威力を発揮するタイプで、このジャンルでは他の追随を許しません。『寿五郎ショウ』『なんとかなるでショ!』『爆発ディナーショー』の「ショー三部作」は傑作の宝庫。上記『青少年のための江口寿史入門』は、これら収録作を中心に編まれた傑作選です。

 

(江口寿史『寿五郎ショウ』双葉社、『なんとかなるでショ!』角川書店、

『爆発ディナーショー』双葉社、『青少年のための江口寿史入門』角川書店)

 

 

 

 ところでマンガ家としての江口寿史は、決して作品の多い方ではありません。

 その上、締切りも守れず、よく落とすなどという話から、なんとなく、ナマケモノなんじゃないかと思っている人もいるかもしれません。

 しかし、全然そんなことはないんですよね。デビュー以来の飛躍的画力向上は、ひとえに努力と研鑽のたまものと言う他ありません。

 確かに、ふつうに毎日描き続けていれば、誰でも自然に絵は上手くなっていきます。しかし江口のそれは、決してそういうレベルのものではないのです。

 しかも画風が確立し、評価も高まって以降も、どんどん進化しているのは尋常なことではありません。

 江口寿史の絵って、一見すると、もうとっくの昔に完成されてしまっているように見えますが、実はよくよく見ると、時を経るごとにマイナーチェンジを繰り返し、少しずつ新しい技法を取り入れているのですね。わずかずつでも前進し続けることをやめていません。

 いわゆる「絵師」と言われるような人でも、キャリアを重ねていくうちに、だんだん自分の型にはまってきて、みずみずしさが失われ、劣化していくケースは珍しくないのですが、江口寿史は、今なお一ミリでも先に進むべく、常に模索とブラッシュアップを続けているのです。

 画業四十有余年、齢六十半ばにして、作家的ピークが「今」というのは、まことに驚嘆すべきことです。

 

■マンガを読むマンガ家

 

 彼は自らの描く美少女について、「自分の好きなタイプの女の子」を描いているというよりは「自分がなりたい女の子」を描いている、と答えています。

 恋愛の対象ではなく、一人称としての「女の子」なのですね。あえて言えば女装男子のメンタリティに近いのでしょうか。(もっとも江口は「女装に興味ありますか」との質問に対して「ボクはギャグマンガ家だから自分を客観的に見れちゃうので、それはないですね」と答えています。)

 いわゆるアキバ系の作家の描く美少女と江口寿史の描く美少女の雰囲気が、微妙に異なって見える理由もそのへんにあるのでしょう<1>。男性目線ではなく女性目線なのですね。江口寿史に女性ファンが圧倒的に多いのも納得です。

 そうした特徴をよく示しているのが、江口美少女のファッションセンスの高さです。美少女の「顔」にものすごく力が入っているのは当然のことながら、それに勝るとも劣らない勢いで、彼女たちの着ている服や、その着こなし方、身につけている小物に、こだわりぬいているのがわかります。

 それも、いかにもファッション誌からネタを取ってきたような有り合わせのものではなく、ふつうに街を歩いているイケてるオシャレな女の子の格好をしているのですね。ちゃんと「今の子」のスタイルがわかっているのです。

 

長年のあいだ手がけてきた「リアルワインガイド」の表紙

 

 そうした、「今」に対するセンサーの確かさはマンガに対しても感じられます。

 江口寿史って、実はマンガを結構、読む人なんですね。

「マンガを読むマンガ家」ということでは、いしかわじゅんと双璧をなすぐらい、よく読んでいます。なかなかの目利きでもあって、彼の勧めるマンガには高いセンスが感じられます。

 マンガ家になる人って当然、もともとマンガが好きだからマンガ家になるわけですが、プロになると、だんだん読むことから遠ざかる人も珍しくありません。自分のスタイルができてしまうと、もう新しいものを取り込もうという意欲も薄れていくのですね。

 江口寿史が1992年、『爆発ディナーショー』で文藝春秋漫画賞を受賞したとき、審査委員の加藤芳郎氏が「久々の大型新人」と述べたことが笑い話となっていますが、ベテラン作家なんてそんなものです。

 江口寿史のすごいところは、「マンガの今」をちゃんと見据えているところです。それが、ひとたび確立してしまった自分のスタイルに安住することなく、常にチューンナップし続ける彼の姿勢にも通じているように思います。

 

■「絵」に無関心だった頃

 

 もともと江口寿史は、純然たるギャグマンガ家でした。

 デビューは1977年、「少年ジャンプ」です。

 当時は山上たつひこショックがマンガ界全体に波及し、次々と新しいタイプのギャグマンガ家が誕生しつつあった時代でした。江口自身もはっきり認めているように、彼は山上チルドレンの一人、そして結果的にその最良の後継者となった人です。

 この頃の「ジャンプ」は、一部で「本宮ひろ志マガジン」と揶揄されるぐらい本宮カラーの強い、泥臭く汗臭い誌面で充満していたのですが、同時に『ど根性ガエル』(吉沢やすみ)や、『トイレット博士』(とりいかずよし)といったギャグものも、雑誌の柱となるような人気を誇っていました。

 そんな中、山上ショックは、この雑誌にも及んできます。

 新しい風に促されるように、小林よしのり、コンタロウ、秋本治(デビュー時は「山止たつひこ」)といった才能あるギャグマンガ家が次々と誕生していったのです。

 江口寿史は高校卒業後、初めてペンを使って描いたマンガが、いきなり入選。これは、現在の江口の作風とは異なる純然たるストーリーマンガでした。そして同じ年に赤塚賞に応募したギャグマンガで再度入選しています。そして、この二作品とも本誌に掲載され、つづいて発表した短編ギャグが好評だったため連載化。最初のヒット作となった『すすめ!!パイレーツ』です。

 

 全く苦労時代のない、うらやましいほどの順風満帆ぶりです。

 ほとんど修業時代のなかった江口は、デビュー時、ホワイト修正もトーン削りも知らず、初めてついたアシスタントに教えられながら描いていたそうです。

 とにかく初期の江口寿史は絶好調。読者の反響もよく、過酷な週刊連載も、楽しみながら乗り切っていたようです。後の、生みの苦しみと格闘しながら呻吟する江口寿史のイメージはまだありません。また、「絵師」としても全く目覚めていませんでした。

 

『パイレーツ』の頃の江口の絵は、コンタロウや田村信など当時の普通のギャグマンガのタッチとさほど変わらず、絵の巧拙以前に、そもそも絵に対するこだわりがあるようには見えませんでした。とにかく、この頃の江口は、「絵」は二の次で、あくまで「マンガを描く」ことに勢力の全てを傾注しています。こんな人が、後年ああいうタイプの人になってしまうとは誰が想像したでしょう。

 

(江口寿史『すすめ!!パイレーツ』②④⑦)

絵に素朴さが残る頃

 

 彼自身の語るところによると、江口が絵の方向に意識を向け始めたきっかけは、大友克洋高野文子などのニューウェーブの登場だったと言います。

 とりわけ大友の作品集が立て続けに刊行された79年が一つの転機となりました。当時の江口は、まだ『パイレーツ』の連載中でしたが、この作品の後半期に至る頃から、カットの端々に、イラスト的にソフィスティケイトされたセンスが垣間見られるようになってきます。

 しかし、まだちょっと手が追いついていない感じで、見ていて危なっかしいところがないでもありません。江口寿史は、しばしば、自分はもともと絵が上手い方ではなく、努力して上手くなったのだ、といった発言をしています。半分は謙遜もあるでしょうが、半分は本当のことでしょう。

 

 

■江口寿史=「落とす人」伝説の始まり

 

 そして江口の妥協を許さない完璧主義がもたらした一つの帰結として、「原稿を落とす」ということがしばしば起こるようになります。

 とにかく江口寿史といえば、「落とす人」の代名詞として、この世界ではすっかり定着してしまいましたが、この傾向は、80年代初期の『ストップ!!ひばりくん!』あたりから顕著になってきたものです。

 今でこそ、隔号、月イチなどの変則連載、不定期連載など、珍しくもなんともなくなりましたが、80年代半ば頃まで、週刊連載で穴を開けることなど絶対あってはならないことでした。

 マンガ家は親の死に目にも会えない、などということが、まことしやかに囁かれていた時代です。そんな時代に江口先生はヘーキで(かどうかわかりませんが)原稿を落としまくっていたのです。

 

 落としてしまう原因のほとんどは「絵」だったようです。「ネーム自体は早かった」とも言われています。

 当時の江口番だった小学館の江上英樹氏によると

「オレがガク然としたのは、”パパリンコ物語”の表紙の絵。顔のアップのやつで、下描きの輪郭を描いてたの。それで、次の日また仕事場に行ってみたら、まったく同じところの輪郭をなぞってたの。ちょっと線が濃くなっただけ。」(『なんとかなるでショ!』角川書店)

 

 またアシスタントの話では

「その間、先生はどんな様子かというと、一睡もせずにずーっと机の前に座っているのです。コーヒーを入れたときなどに先生の手元をのぞいてみると、何かわけのわからないものを真っ黒になるまで描き重ねていたりしていました。」(『総特集江口寿史』河出書房新社)

とあります。

ちょっとコワイ話ですね。

 

 とにかく、絵に対する理想のイデアがとんでもなく高くなってしまった江口寿史は、まるで身動きの取れない体になってしまいました。

 これではとうてい「マンガ」など描けるものではありません。

 言うまでもなく、マンガとは、コマの連続で物語を進めていく表現形式です。そのため作家には「素早く、大量に」絵を描く技能が要求されます。

 とりわけ日本のマンガは、その方向に徹底的に進化していきました。ほんのちょっとした短いお話を作るだけでも、100や200のカットは平気で描かなくてはならないのです。一枚の絵を仕上げるのに何年もかけたりできるファインアートの世界と、そこが大きく違うところです。

 

 何度も原稿を落とした挙句、蒸発事件まで起こしてしまった江口寿史は、ついに編集部から見限られ、トップクラスの人気を誇っていた『ストップ!!ひばりくん!』を、打ち切り同然の形で終わらせてしまいます。

 

(江口寿史『ストップ!!ひばりくん!①』集英社

『同・コンプリート・エディション③』小学館クリエイティブ)

江口寿史・最大のヒット作「ストップ!!ひばりくん!」

初刊本と後のリニューアル版とで絵柄の進化がわかる

 

 その後、月刊誌「フレッシュジャンプ」に活動の場を移した江口は、84年、ボクシングマンガ『「エイジ」』の連載を開始。それまでの江口の作風を一新するような、本格的なストーリーマンガでした。

 この作品は、江口寿史の中で、どれぐらいの規模のものが想定されていたのか分かりませんが、ボクシングものなら、それなりの尺がないと様になりません。

 今の私たちの眼から見ると、江口寿史が何十巻もあるスポ根マンガを描けるとはとうてい思えませんが、当時の江口にしてみれば、「やってやれないことはない」という気持ちはあったのでしょう。

 しかし、この頃の江口は、すでに大量生産方式の長編マンガのスタイルには適合できない体になっていました。

 結局『「エイジ」』の連載も半年ほどで途絶えてしまい、単行本は1巻しか出ませんでした。

 

『「エイジ」』や『パパリンコ物語』(「ビッグコミックスピリッツ」)といった連載ものを次々と放棄していった80年代半ば以降の江口は、その仕事の中心をイラストの方へ徐々にシフトしていくことになります。

 彼が80年代初頭に確立したタッチは、なんといっても唯一無二のものであり、イラスト業界から引く手あまたになるのも無理はありません。そうした依頼仕事をこなしながら研鑽を続けるうちに、その画力には、さらに磨きがかかることになります。

 

(街カードフェスタ池袋イベントポスター)

近年はイベントや広告の仕事も数多くこなす

 

(亀和田武『60年代ポップ少年』小学館、山上たつひこ『枕の千両』フリースタイル、

『はじめて投票するあなたへ』ブルーシープ)

書籍カバーも多数

 

「絵」に関してはこのような好循環をつづけていく一方で、ますます「マンガ」が描けなくなっていく江口寿史は、それでもマンガ家であることを辞めようとはしませんでした。

 新しい連載を次々と立ち上げては、落としまくった挙句に途絶してしまう、ということを繰り返すようになります。

 しかしその一方で、「月刊ASUKA」や「漫画アクション」などで連載されていた短編連作ものは、休載に次ぐ休載を繰り返しつつも、地道に描き継がれていきました。

こうして江口寿史は短編作家としてのスタイルを確立していくことになります。

 

■模索と逡巡

 

 しかし、そんな江口寿史の前に、恐るべき新人が立ちはだかります。

 80年代末の吉田戦車の登場でした。

 彼の出現が当時のマンガ界にどれほど大きな激震を引き起こしたかについては、すでに一章を割いて述べたところです。その際に引用した江口のセリフ「あの時、吉田戦車の名が世間に与えた斬新ぶりのインパクトは例えば――「新宝島」で登場した手塚治虫の名にも匹敵するのじゃないかしら」とは、まさに彼自身の生々しい実感だったのでしょう。

 実作者であると同時に優れたマンガ読みでもある江口は、吉田の登場によって、自分がこれまで描いてきたようなタイプのギャグが決定的に古くなってしまったことを冷静に感知してしまいます。

 かといって、不条理ムーヴメントの流れに掉さすことも、自分の作家的資質として無理がある。

 それでは自分にできることは何なのか。80年代末期「漫画アクション」誌上に連載された『爆発ディナーショー』は、それに対するアンサーを求める悪戦苦闘の軌跡でした。

 この連載、例によって休載に次ぐ休載だったようですが、ここで江口は様々なタイプのギャグを模索していきます。

 のちの業田良家を思わせるような自動人形の悲哀を描いた「KV-201XR」や、ホームドラマのテイストを持ち込んだ「しりとり家族」など、ギャグの中にもふと情感を揺さぶるような、奇妙な味わいを感じさせる作品も現れるようになります。

 

 そして、こうしたテイストの路線が最高度に結晶化されたのが、先にも述べた「COMIC CUE」所載の「くさいはなし」であり「岡本 綾」です。

 個人的には、今回、模写で使わせていただいた「くさいはなし」が江口の最高傑作ではないかと思いますが、最近刊行された『日本短編漫画傑作集』(小学館)には「岡本 綾」が選ばれていましたね。この選集、編者の中に江口先生ご本人もいますので、ご自身も納得のチョイスなのでしょう。

 

■いまだ現役

 

 こうして「マンガ家」としての矜持を決して手放さなかった江口寿史ですが、さすがにここ数年は、マンガの実作から少し遠ざかっているようです。

 しかし「絵師」としての江口寿史の勢いは、相変わらず衰えるところを知りません。

 とくにゼロ年代に入ってからの、さらなる上昇には目を見張るものがあります。近年、立て続けに画集が編まれ、売れ行きも非常に良いと聞きます。

 大規模な画業集成となった『KING OF POP』(2015)から、三年とおかず『step』(2018)を刊行。このとき御年62歳の江口先生は、

「ステップというのはまあ、おわかりかと思いますが、ホップ、ステップ、ジャンプのステップです。文字通りの意味で。これから迎える70代に向けての更なるジャンプの前に1歩下がって間合いを計るという意味あいもあります。」

と高らかに宣言しています。

 

 そして2018年より始まった大規模巡回展「彼女」は現在も継続中。それに合わせた画集も刊行されました。この巡回展、この三月には長野に回るようです。江口寿史の「今」を知る格好のチャンスをお見逃しなく。

 

(江口寿史『step』河出書房新社、『彼女』集英社インターナショナル)

 

◆◇◆江口寿史のhoriスコア◆◇◆

 

【ミリペン】73hori

基本的に均一な線ですが、ペンを走らせる速度で多少のタッチが出ます。

 

【人物アップ】60hori

元の絵は女子大生ぐらいに見えるのですが、模写してみると中学生みたいな顔になってしまいました。仕方がないのでパソコンに取り込んでから、ちょっとズルして修正を…。山本直樹先生の言う「福笑い」で目の高さを少し上にあげてみたところ、多少近くはなりました。

 

【もの凄く時間がかかりました】90hori

二コマ目の顔を小さく描きすぎたことに気がついた時には、もう遅く、これ以上描き直す気力もないので、元絵にない部分まで描く羽目になりました。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●
  •  

<1>

萌え系とは少しベクトルの違う江口寿史ですが、一つだけ萌えに大きな影響を及ぼしているところがあります。

実は、ギター少女萌えのルーツが江口寿史なんですね。

音楽好きの江口先生は、『パイレーツ』『ひばりくん』など最初期の頃から、頻繁にギター少女を描いていました。これがものすごい勢いで萌え系に拡散していったのはご存じのとおりです。

(YAMAHA「Music Revolution U23」ポスター)

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:小林信彦『極東セレナーデ』フリースタイル

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園山俊二 分類不能な人【マンガのスコア LEGEND35】 https://edist.ne.jp/dust/manga35_sonoyama/ https://edist.ne.jp/dust/manga35_sonoyama/#respond Tue, 31 Aug 2021 05:40:43 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=29035  戦後の日本マンガは、手塚治虫がルーツになっている、というのが一つの定説になっています。最近では、この定説に対しても、いろいろ留保がつけられるようになってきていますが、大筋ではそう間違っているわけではないでしょう。  し […]

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 戦後の日本マンガは、手塚治虫がルーツになっている、というのが一つの定説になっています。最近では、この定説に対しても、いろいろ留保がつけられるようになってきていますが、大筋ではそう間違っているわけではないでしょう。

 しかし、ここで言われる手塚起源の日本マンガとは、要するに「少年マンガ」、そしてそこから派生した「青年マンガ」あるいは「少女マンガ」のことを指しています。

 そこで、どうしても忘れられがちなのが「大人マンガ」というジャンルです。

 みなさんは、「大人マンガ」と聞いて、どういうものを思い浮かべられるでしょう。

 例えば、東海林さだお、加藤芳郎、小島功、砂川しげひさ、秋竜山、横山隆一、横山泰三といった名前を挙げてみましょう。「あっ、そういえば、そういう人たちいたよな」と思い出しませんか。

 そうです。私たちはすっかり忘れていますが、かつてこれら大人マンガの描き手たちは、マンガ界に確固としたポジションを占めていました。

 ところで、近大DONDENで選定されたLEGEND50の中に、大人マンガの系譜の人は、ほとんど入っていません。しかしその中に、ちょっと変わった人が入っています。それが今回ご紹介する園山俊二です。

 

 園山俊二という人は、いろいろな意味で輪郭の捉えがたいところがあります。まず第一に、ジャンルがよくわからない。福地泡介、東海林さだおらと同じ早大漫研出身で、どちらかというと大人マンガの系譜に連なる人でありながら、子どもマンガも制作し、トキワ荘グループを中心とする新漫画党のメンバーでもある、という不思議な立ち位置の人でした。

 しかし多くの人にとって、「園山俊二」と聞いて思い出すのは、やはりなんといってもあの作品ではないでしょうか。

 というわけで、今回、模写の対象に選んだのは、これです。

 

園山俊二「ギャートルズ」模写

(出典:園山俊二『愛蔵版 ギャートルズ』②中央公論社)

 

 ご存じ「ギャートルズ」を模写してみました。

 トビラの次の一コマ目に、さっそく地平線が登場しています。これぞまさに「ギャートルズ」の世界ですね。小さなコマの中にも広大さを感じさせます。そして、おむすびのようなドテっとした独特のフォルムのマンモス。そのマンモスが、一コマおいた次のコマでは、はやくも輪切りの姿になっています。「ギャートルズ」といえば、多くの人の記憶にこびりついているのが、この旨そうな【肉】じゃないでしょうか。どういう内臓の構造なのか、断面が年輪みたいになっているのが面白いですね。フチにマンモスの毛がついてるのも、また妙に生々しいです。

 

 それにしても「大人マンガ」に特有の、あの【乾いたタッチ】を出すのは思いのほか難しいものでした。

 下描きをしていた段階では「今回は楽勝だな」ぐらいに思っていたのですが、いざペンを入れた瞬間「あっ、違う」と気がつきます。今までの模写でやってきた絵とは、タッチの作法が根本的に違うんですね。トビラのガイコツを見ていただくと一目瞭然ですが、どうしても【つけペン特有のニュアンス】が出てしまうんです。カブラペンでこうなので、Gペンだとよけいマズそうだと思い、困った挙句、次のコマからは、ボールペンに持ち替えてみましたが、これもちょっと違いました。つけペン特有のカリカリしたタッチが欲しいんですよね。最後のコマでは丸ペンにしてみましたが、これが一番マシな方でしょうか。いずれにせよ、あの線は、一朝一夕には引けないことがわかりました。

 

■不思議な立ち位置の人

 

 ところで『ギャートルズ』を「大人マンガ」と言うと、皆さんの中には「えっ、そうだっけ?」と思われる方もおられるかもしれません。アニメ版「はじめ人間ギャートルズ」は子ども向けに作られていましたが、原作の『ギャートルズ』は「週刊漫画サンデー」に連載された、れっきとした大人マンガでした。艶笑譚もあれば中年(原始人ですが)の悲哀を描いた話もあり、基本的には大人の読者を想定して描かれていたものてす。

 

 1935年生まれの園山俊二は、赤塚不二夫辰巳ヨシヒロと同い年。つまり、トキワ荘や劇画工房の人たちと同世代ということになります。

 ただ、彼等と決定的に違っていたのは、園山が「大卒」であった点です。当時の少年マンガ家たちは、阪大医学部卒<1>の手塚治虫を除いて、学歴社会の埒外にある者たちでした。一方、早稲田大学の学生であった園山は、早大漫画研究会の設立メンバーの一人でもあります。

 大学に漫画研究会など、ほとんどなかった時代でした。ただしこの漫画研究会、今日の漫研とはだいぶ趣が違い、その対象にしているのは「大人マンガ」です。この草創期の早大漫研から輩出されたのが、のちに三羽烏と称される園山俊二、東海林さだお、福地泡介の三人でした。

 このへんからも園山が少年マンガのラインとは違うことが窺われるのですが、ただデビュー作が「毎日小学生新聞」であったというところが、また面白いところです。「毎小」といえば手塚治虫藤子不二雄がデビューし、デビュー直後の松本零士が寄稿していた媒体でもありました。ここでデビューした園山は、少年マンガの由緒正しいサラブレッドとも言えるのです。

 この園山のデビュー作である「がんばれゴンベ」は、デビューから死の直前まで描かれる最長連載作となりました。

 さらに、この作品に目をとめた寺田ヒロオの招きで、第二次新漫画党にも入党。トキワ荘グループとの交友が生まれます<2>。

 ただし学生時代から、のちに自費出版される『国境の二人』の習作などを描いていた園山は、当初からカトゥーン系の大人マンガへの志向が強くあったようです。

 

■大人マンガって何?

 

 このへんで「大人マンガ」というものについて、あらためて説明しておいた方がいいでしょう。

 日本マンガの通史を紐解くと、たいてい「鳥獣戯画」とか「信貴山縁起絵巻」とか「北斎漫画」などから説かれるのが普通です。まあ、それでもいいんですが、現代的な意味でのマンガの起源は、明治期に欧米から移入された風刺マンガに求めるべきでしょう。そして、こういうものを読むのは大人でした。マンガは、もともと「大人が読むもの」だったのです。

 明治から大正期にかけて活躍した北沢楽天や岡本一平<3>にはじまり、昭和初期には近藤日出造、杉浦幸雄といった漫画集団系(当時は、新漫画派集団)の作家たちがトップランナーとして業界を牽引していました。

 冒頭に述べたように、昭和22年発表の手塚治虫『新寳島』により、戦後マンガがスタートしたのですが、手塚系のストーリーマンガがすぐさまマンガの本流になったわけではありません。手塚の影響を受けた新しいスタイルの少年マンガが市場を席巻し始める以前、少なくとも昭和20年代いっぱいまでは、戦前から続く漫画集団系の作家たちが人気の中心だったのです。

 ところが、昭和30年代に入る頃から、マンガ市場がドラスティックに変化していきます。ベビーブーマー達が修学期に達すると同時に子どもマンガ市場が形成され、手塚らを中心とする新興勢力が急速に伸張し始めるのです。

 このあたりから勢力交代が始まり、大人マンガは徐々に業界のトップの座から滑り落ちていくのですが、それでもまだまだ強い力を持っていました。

 この頃、大人マンガの牙城となっていたのが、1954(昭和29)年に創刊され、58(昭和33)年から月刊化された「文春漫画読本」でした。その他「週刊漫画サンデー」「週刊漫画タイムス」といった専門誌も創刊され、広範な読者層を獲得し、活況を呈していたのです。

 

 私たちは、どうしても現在のマンガを中心に過去を見てしまうので、こうした大人マンガというのは、手塚系統の新しい波に駆逐されてしまった古色蒼然たるマンガなんだろうと思いがちです。しかし、それは全くの誤解で、大人マンガは、質・量ともに優れた作家、作品を数多く輩出していました。

 このへんの消息を知るのに良い本があります。夏目房之介・呉智英編著による『復活!大人まんが』(実業之日本社)です。大人マンガ全盛期の傑作群をコンパクトにまとめた優れもの。園山の『ギャートルズ』からも一本採録されていますが、全作の中でも、とびきりの傑作が選ばれており、選者の眼力の確かさを窺わせます。ご興味のある方はぜひ手に取ってみてください。

 

(夏目房之介・呉智英編著『復活!大人まんが』実業之日本社)

 

 戦後から60年代後半期にかけて、進化発展し、爛熟の様相さえ見せていた大人マンガですが、70年代に差しかかる頃から、急速に凋落の兆しを見せ始めます。ときあたかも若者文化の時代、カウンターカルチャーが隆盛を見せ、大人文化の否定が一つのトレンドとなっていった頃です。

 マンガの世界では「劇画」ブームが起こっていました。1970年には「文春漫画読本」が終刊。ひとつの時代の終わりを象徴する出来事でした。

 残る「漫画サンデー」<4>、「漫画タイムス」などは、時代の変化を受け容れ、編集方針を転換。劇画を中心とした成人誌として命脈を保っていくことになります。「漫画サンデー」に『ギャートルズ』が連載されていた65年~75年という時代は、まさに大人マンガが徐々に退潮していく時期だったのです。

 

■幻覚の地平線

 

 今にして思えば、園山俊二と東海林さだおこそが、「大人マンガ」最後の光芒でした。

 とりわけデビュー直後の東海林さだおの才能は神がかっており、『アサッテ君』などのヌルい四コママンガでしか東海林さだおを知らない人には、とにかく何も言わずに『新漫画文学全集』(全8巻・ちくま文庫)を読んでほしいと思います。「大人マンガってヤベー」と思うこと請け合いです。

 

(東海林さだお『新漫画文学全集』①筑摩書房)

 

 そしてもう一つは、もちろん園山俊二による『ギャートルズ』です。

 1965年「週刊漫画サンデー」で連載の始まったこの作品は、園山にとっても初めての本格的大人マンガで、『ゴンベ』の連載などで細々と活動していた彼にとっても、大きな飛躍となった作品でした。

 当初は加藤芳郎や横山泰三を思わせるような針金のようなギクシャクしたタッチで、いかにも大人マンガっぽいナンセンスギャグを描いていたのですが、やがて原始時代の設定を生かしたおおらかなタッチが生れていき、園山俊二でしかありえない独自のスタイルが確立されていきます。

 特に圧巻だったのが地平線の表現です。見開きいっぱいに地平線を描くなんて、当時としてはかなり前衛的でチャレンジングな試みでした。

『ギャートルズ』には、模写にも描いたようにマンモスがよく登場するのですが、この作品に登場する原始人たちは、わりと簡単にマンモスたちをバスバス殺していき、輪切りにして食べちゃいます。また逆に、マンモスの反撃にあい、アッサリあの世に送られてしまうことも珍しくありませんでした。ここでは人の命は羽毛のように軽いのです。

 そして、ときに“死神”や“神さまのなりかけ”などが登場し、人間の実存の問題に深く斬り込むような展開を見せることもありました。生きていることの意味が分からなくなり、突然、家族を捨てて放浪の旅に出たりするような展開もしばしば…。地平線は、人を哲学者にしてしまうのでしょうか。

 キャラクターへの強い感情移入を促すことで「心を燃や」す(by鬼滅の刃)少年マンガとの根本的な相違がここにあります。やはり『ギャートルズ』はまぎれもない大人マンガなのです。

 

(園山俊二『愛蔵版 ギャートルズ』①中央公論社/『ギャートルズ』①パルコ)

モーラ的に読むなら中公愛蔵版(左)が適。

最新のパルコ出版版(右)は、祖父江慎氏の

カラーが前面に出ていて好みは分かれるかも。

 

■ギャンブラーの矜持

 

 この突き放したようなドライなセンスは、園山のもう一つの長期連載作である『さすらいのギャンブラー』にも感じられました。

 ギャンブルとは「貨幣=労働価値」というフィクションをあばく最たるものと言えますが、そのヒリヒリした感触が、ある種の人たちを強く惹きつけるようです。

 ギャンブラーなる人種は、ある意味でサラリーマンの対極にあるものですが、『気になるあの人』(68~80年「女性セブン」)や『花の係長』(69~82年「週刊ポスト」)といったサラリーマン物と同時期に、こういった作品も手掛けているところが、園山の面白いところです。

 この作品に登場する、名前のない主人公は、一夜にして巨万の富を手にしたり、また全てを失いスッテンテンになる、というようなことを際限なく繰り返しながら、何ものにもとらわれず、恬淡と生きています。人生しょせん気晴らしといったような捨て鉢なところがありながら自暴自棄にも陥らず、ある種の矜持を持って生き続けるダンディズムに、読者は憧れるのでしょう。69年より「ビッグコミック」で始まったこの作品は、足かけ22年にわたる長期連載となりました。

 

(藤子不二雄A・石ノ森章太郎編集『園山俊二傑作集』小学館)

没後まもなくトキワ荘の二人によって編まれた本書で

「さすらいのギャンブラー」その他の代表作がまとめて読める。

 

 さて、これだけで話が終われば簡単なのですが、問題はここからです。

 当初から「園山俊二といえばギャートルズ」と、決めつけたような書き方をしてしまいましたが、皆さんの中には、もう一つの作品を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

 そうです。朝日新聞夕刊に、死の直前まで連載されていた『ペエスケ』のことです。

 

(園山俊二『ペエスケ』①朝日新聞社)

 

■ベタベタのペーソス

 

 子どもの頃、我が家では「朝日新聞」を購読していました。

 夕刊に、園山俊二の『ペエスケ』が始まった頃のことはよく覚えています。当時、新聞四コマといえばベテランの大家が描くものと思い込んでいたので、園山俊二という馴染みのある作家の登場には、ずいぶんと期待したものです。果たしてどんな四コマを描いてくれるのだろうと思っていたら、あんまり大した出来ではなく、ひどくがっかりした覚えがあります。

 園山自身、ふつうに起承転結で落とすタイプの四コマは、あまり得意ではなかったのかもしれません。ページもののナンセンスギャグには恐るべき力を発揮する園山も、四コマというフォーマットはどうにも窮屈だったのか、今一つギャグも冴えませんでした。やがて『ペエスケ』は、ギャグの案出を完全に放棄してしまい、その名の示すとおり”ペーソス”を主調としたムードマンガへと変質していきます。

 一回で完結せず、何回かにかけて、ゆるいストーリーのようなものがあるのも、当時としては、ちょっと斬新でした。とはいえ当時、心の狭い小学生だった私は、朝刊のサトウサンペイ先生が、毎回きっちりオチのある四コマを描いているのに、園山俊二は早くもネタ切れかと、ふがいなく思ったものです。

  このようなタイプの四コママンガは、当時としては、かなり変格の部類に属すると思いますが、かと言って、いしいひさいちや、いがらしみきおのラインとも違います。それまでの系譜でいうと勝又進<5>という人が、一風変わった四コママンガを描いていましたが、あえて言えば、それに近い感じでしょうか。

 ただ、この作品、私の個人的な感慨は別にして、世の中的には、けっこうウケたのですね。特に主人公の愛犬ガタピシが登場してきたあたりから、人気が急上昇していったといいます。新聞購読者層にとっては、あの微温的な感じがちょうどよかったのでしょうか。四コママンガだからといって、別にギャグなんか無理にかまさなくていいんだというのも、ある意味で目からうろこでした。

 今となっては『ペエスケ』は、園山俊二の代表作として、『ギャートルズ』をしのぐ人気を誇っています。オフィシャルホームページのトップもガタピシですからね。

 

 実は今回の記事のために『ペエスケ』を何十年ぶりかに読み返してみました。大人になった今の目で見れば、もう少し違った気持ちで読めるのではないかと思ったのです。しかし、やっぱりダメでしたね。この、あまりにベタベタな”ペーソス”の強調は、私の口には合いませんでした。

 しかし、この側面も間違いなく園山俊二なのです。

 思えばデビュー作の『がんばれゴンベ』から、初期の『国境の二人』にいたるまで、園山のヒューマニズムとペーソスへの志向は徹底していました。その延長線上に、あの『ギャートルズ』もあったのです。

 サラリーマンのペーソスから、ギャンブラーや原始人まで。これらの作品を見渡してみるにつけ、園山俊二とはいったい何者だったのか、謎は深まるばかりです。

 

 

◆◇◆園山俊二のhoriスコア◆◇◆

 

【乾いたタッチ】84 hori

とくに連載初期の頃は、大人マンガ特有の硬いタッチで描かれています。それが徐々に整備されて、お馴染みの園山俊二タッチになっていきました。

 

【つけペン特有のニュアンス】76 hori

一コマ目のガイコツを描いた時点で、もう決定的に何かが違うことが分かったのですが、最後まで上手く掴めないまま描いてしまいました。

 

【肉】90hori

ギャートルズの肉といえば、「ワンピース」みたいな骨付き肉を思い出す人も多いようですが、輪切り肉に比べると、描かれる頻度は意外と低いです。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>正確には大阪帝国大学附属医学専門部卒業です。なかには「学歴詐称だ」などと言っている人もいるようですが、戦後の学制の改編に関わり、多少ゴタゴタしているだけで「阪大医学部卒」と言っても別にさしつかえないでしょう。

 

<2>トキワ荘の仲間とは、のちに至るまで親しい間柄だったようです。特に、お酒やゴルフ、麻雀など、オトナの遊びが大好きな藤子不二雄A先生とは、大変ウマが合ったらしく、終生変わらぬ交友を続けていたようです。

 

<3>岡本かの子の夫で、岡本太郎の父でもある岡本一平については、『岡本一平漫画漫文集』(岩波文庫)で、その作品の一端を見ることができます。

 

<4>『ギャートルズ』の連載されていた「漫サン」は、のちに大人マンガの雑誌であることをやめ、ちょっとB級っぽい成人誌として命脈を保っていくことになります。しかしこの雑誌、なかなか侮りがたいところもありまして、つげ義春をたびたび起用したり、畑中純『まんだら屋の良太』、近藤ようこ『見晴らしガ丘にて』などの連載もありました。2013年、惜しまれつつ休刊。

 

<5>この作家も、今となっては、『赤い雪』などで再評価されて以降のイメージの方が強くなっているかもしれませんが、生前は、どちらかというと異色の四コママンガ家というイメージでした。

 

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:園山俊二『『愛蔵版 ギャートルズ』③中央公論社

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杉浦茂 超現実の童子【マンガのスコア LEGEND31】 https://edist.ne.jp/dust/manga31_sugiura/ https://edist.ne.jp/dust/manga31_sugiura/#respond Thu, 01 Jul 2021 23:54:09 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=26195  LEGEND50のリストの中で、杉浦茂が、とりわけ特異な位置を占める一人であることは一目瞭然でしょう。  まず50人の中では、飛び抜けて年長です。手塚治虫より6歳年上の水木しげる(1922年生)よりも、さらに14歳も年 […]

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 LEGEND50のリストの中で、杉浦茂が、とりわけ特異な位置を占める一人であることは一目瞭然でしょう。

 まず50人の中では、飛び抜けて年長です。手塚治虫より6歳年上の水木しげる(1922年生)よりも、さらに14歳も年上の1908年生まれ。明治生まれの人です。マンガ家としても一世代も二世代も前の人で、戦前からの活動歴があります。この世代の作家が、戦後マンガに大きな足跡を残すのは極めて異例なことです。

 

 杉浦茂は、赤塚不二夫の登場にはるかに先がけてナンセンスな笑いを描いていたことでも特異なのですが、その笑いは赤塚的な「ギャグ」とも違い、なんともいえぬ奇想とユーモアに満ちていました。

 杉浦マンガは、とにかく逸脱・脱線のオンパレード。チャンバラ時代劇の最中にいきなり異空間に飛んでしまったり、突然、アパッチ族が攻めて来たり、何の脈絡もなく超現実的な怪物が現れたり、絵のリアリティラインもバラバラで支離滅裂です。こんなシュールでアバンギャルドなマンガは空前絶後でした。当時も全く隔絶していましたし、今見てもやはり斬新です。いつの時代も、杉浦マンガは「最先端」であり続けました。古びないのは、実は、どの時代でも新しくなかったからでしょう。全くもって杉浦茂はワンアンドオンリーの作家だったのです。

 といって、後進に全く影響を与えなかったわけではありません。むしろ多大な影響を及ぼしたと言えます。赤塚不二夫のレレレのおじさんや目玉のつながった警官などは、杉浦マンガをモチーフにしていることが明らかですし、以前、当欄でも取り上げた林静一や佐々木マキなど60年代末から台頭してきた前衛マンガ、タイガー立石などのカトゥーン系のアーティストにも影響を及ぼしています。また、70年代以降、カウンターカルチャーの文脈で評価されるようになると、スージー甘金、上野よしみなど、その影響を受けた数多くのイラストレーターを輩出することになりました。

 

 さて、今回は、そんな彼の代表作の一つである『猿飛佐助』からの一ページを模写してみようと思います。

 

杉浦茂「猿飛佐助」模写

(出典:杉浦茂『杉浦茂マンガ館』④筑摩書房)

 

 このページを見ているだけでは何が起こっているのかさっぱりわからないかと思いますが、要するに忍術合戦をしているわけです。しかし【脈絡】と言えるものはほとんどありません。

 一見して分かるように【リアリティライン】がメチャクチャですね。シンプルなタッチの子供マンガのはずなのに、真ん中の怪物の絵など異様に描き込みが密です。こうしたシュールな絵の挿入は69年の改稿版で増えたものではあるのですが、初出の頃から、こういった出鱈目なノリは一貫していました。こんなシュールで前衛的なマンガが昭和30年前後の子どもたちに広く支持されていたというのは驚くべきことです。

 最後のコマの怪物のように、異物同士がくっついて【溶解】したような絵もよく出てきます。こうした境界の曖昧性は絵のタッチ全体にもわたっていて、人物と背景のあいだも、どこかシームレスです。

 また、今回の模写ではご紹介できませんでしたが、杉浦茂といえば、その独特のセリフ回しとネーミングセンスの秀逸さにも特徴があります。このあたりについては「千夜千冊」882夜で松岡校長も縦横無尽に論じているところですので、ぜひご一読を。

 

■主客未分の世界

 

 杉浦茂の描く世界とは、精神年齢で言えば学童期よりもさらに前、幼児の段階に近いように思います。子どもが外の世界に出て荒波にもまれ、なにほどか処世の感覚を身につけるようになる以前の全能感に満ちた世界です。

 杉浦マンガには「友情・努力・勝利」のうち、友情と努力の成分がほとんど見受けられません。とりわけ「努力」は全くないといっていいでしょう。主人公の猿飛佐助やドロンちび丸たちは初めから天賦の特殊能力を身につけていて、とにかく滅多やたらと強い。そして友情と努力がない代わり、勝利だけはふんだんにあります。

 とにかく無根拠・無前提な勝利につぐ勝利。どんなことが起こっても柳のように受け流し、一瞬たりとも悩むことがない。動物が本能的に最適解を出すように、躊躇なくどんどん突き進んでいきます。そして百戦百勝。そこには物語を盛り上げるためのピンチの引き伸ばしすらなく、敵の攻撃を受けるや否や、間髪入れず勝利します。

 次々と襲い来る敵たちを主人公がチョンチョンとサバいていく様は、まるで武道の達人が無我の境地で舞を舞っているようにも見えます。合気道の内田樹氏の言われる「複素的身体」とでもいうのでしょうか、敵対的に対峙するというよりも、相手と一緒に共同作業をしているような感じです。

 そういえば合気道では、相手と目を合わせないとも聞きますが、技をかけている時の猿飛佐助や孫悟空たちの視線は、いつもあさっての方向を向いています。我と汝が無媒介的につながってしまっているのですね。

 そして、あの手この手で応酬を繰り返していくうちに、いつしか物語は収拾がつかないほどシュールな様相を呈していくのですが、そんなことは主人公も作者も全く無頓着。無茶苦茶になったらなったで、さっと緞帳を引いてしまい、たちまち、もとの日常に戻ってしまいます。全く変幻自在という他ありません。

 

 杉浦マンガはどこから読んでもよく、どこで読み終わってもかまいません。ナイトキャップ代わりに枕元に置いている、という人がいるのもうなずけます。

 これはちょうど夢と同じ構造をしています。全体の構成なんてものはなくて、ただあるのは直前と直後の脈絡のつながりだけ。時間は円環的に閉じられていて、空間も三次元的な法則から全く自由です。

 無限に広がる幸福な世界。そこには「自我の拡張」なんてものすらなく、私と世界が未分離なまま果てしなく広がっているのです。

 

■のらくろの弟子

 

 このへんで杉浦茂の経歴にも触れておきましょう。

 もともと杉浦茂は洋画家志望でした。帝展で入選した経歴もあり、本格的な画業の訓練を積んだ人です。

 しかし、絵だけでは、どうにも食っていけそうにないと判断した杉浦は、悩んだ末に知人の伝手を頼って田河水泡の門下に入ります。だいたいマンガが好きでマンガ家になる人なんて手塚治虫以降の戦後世代に特徴的なことで、戦前には画家からマンガ家に転向するケースはよくあることでした。

 そもそも師匠の田河水泡にしてからが洋画家出身で、村山知義のMAVOにも参加していたバリバリの前衛画家です。モダンでグラフィカルな図案を取り入れた「のらくろ」の装丁の斬新さは、今見てもほれぼれするほどです。

 

『のらくろ上等兵』『のらくろ小隊長』表紙と箱

(田河水泡「復刻版のらくろ」講談社)

 

 手塚以降の戦後マンガの世界では、謝礼を払って手伝ってもらう「アシスタント」というシステムが確立されるようになりますが、それ以前は徒弟制度のようなものがマンガ業界にも存在していました。杉浦茂は、徒弟制が生き残っていた最後の世代に当たります<1>。

 田河の門下に入った杉浦は、ベタ塗りの手伝い程度はしていたようですが、のらくろを描いたりすることはなかったようです。技術的な指導もいっさいなく、丁稚奉公のように師匠の背中を見て、目で盗むというスタイルです。

 技術指導だとか、謝礼などはないかわり、師匠の口利きで、仕事の周旋を受けることはありました。若き杉浦茂は順調に仕事をこなし、戦前だけでも「延べ百三十冊以上の雑誌に描き、百二十回以上の新聞連載をこなし、十冊の単行本を出版した」<2>と言われています。

 

■「奇跡の五年間」

 

 杉浦の同世代にも多くの作家が戦前から活躍していました。しかし戦後のドラスティックな変化の波を潜り抜けて生き残った人はごくわずかです。とりわけ少年マンガにおける手塚の影響が顕著になってきた昭和30年代以降、戦前からの作家の多くは淘汰されてしまいました。

 一方、戦前には、端正なタッチで教育的、啓蒙的な児童マンガを描いていた杉浦茂は、戦後の自由な気風の中、徐々にその特異な才能を開花させていきます<3>。

 最初は「弾丸トミー」などの西部劇でした。その後、「冒険ベンちゃん」「怪魔島探検」などの秘境探検ものを経て、徐々にそのナンセンスな作風に磨きをかけていくことになります。そして1953年に「おもしろ漫画文庫」の一冊として刊行された『猿飛佐助』から、いよいよ杉浦茂の時代が始まるのです。このあたりから、ぐにゃぐにゃしたアモルファスな杉浦タッチも確立されていきました。

 杉浦茂が少年誌を中心に活躍していたのは、実は非常に短く、いわゆる「奇跡の五年間」と呼ばれている1954年から58年にかけての一時期です。この時期に、今でも彼の代表作とされる「猿飛佐助」「少年西遊記」「ドロンちび丸」「少年児雷也」のような作品が描かれました。このころの杉浦茂は年齢にして46歳から50歳。四十代後半に至って、ようやく全盛期がやって来るとは、かなりの遅咲きです。

 とにかく、この「五年間」の仕事は質量ともに常人のレベルをはるかに越えています。

 戦前気質の杉浦は、本格的なアシスタント制を導入することもなく、ほとんど一人で描いていたようですが(弟子の斉藤あきらや洋画家時代からの画友に多少のお手伝いをしてもらうことはあったようです)、あの物量をどのようにこなしていたのかは謎です。とにかく杉浦茂は、その作風から窺えるイメージとは違って、いたって真面目で勤勉な性格だったとか。朝早く起きると、さっと部屋にこもり、静かに正座して黙々と作画作業を続けていたそうです。

 しかし時代の変化の波は、さらに急速度で進展していきます。60年代に入ると、少年マンガは月刊誌から週刊誌の時代に変わっていきました。週刊誌のスタイルがなんとしても肌に合わなかった杉浦は、徐々にやせ細っていく月刊誌に時おり執筆する以外、ほとんど作品を発表しなくなってしまいます。

 しかし杉浦茂は、決して「消えたマンガ家」になることはありませんでした。

 

■再評価の嵐

 

 杉浦茂は、これまで何度もリバイバルブームを起こしています。

 最初の波が70年代に入る頃。一部でマンガの前衛化が始まり(「林静一」の回参照)それと相前後して杉浦茂の再評価が起こりました。そのきっかけの一つとなったのが、1969年、虫コミックスから刊行された『猿飛佐助』です。この作品の刊行に際して、杉浦茂は、かつての旧作の全ページ描き直しを行なっています。ここで杉浦は、より前衛的な表現にチャレンジし、ダリやエルンストを思わせるような超現実的な映像をふんだんに挿入してみせました。

 少年誌で杉浦マンガをリアルタイムで読んでいる世代といえば、今ではもう七十歳以上になっているわけですが、彼等に言わせると、虫コミックス版『猿飛佐助』は、「ちょっと違う」んだそうです。シュール度が五割増しぐらいになっていて、これはこれで面白いんですが、当初の素朴な味わいが削がれてしまい、印象がだいぶ変わってしまっています。

 その後、『猿飛佐助』は何種類かのバージョンが刊行されました。その中には「おもしろ漫画文庫」の単行本を底本としたものもあります。これは旧来からのファンたちに歓迎されたのですが、実はこれも雑誌掲載版とは微妙に違うのですね。生粋の杉浦ファンである、みなもと太郎氏などは、子ども時代に強い印象を残したいくつかのシーンが現行の単行本では確認することができず、いつの日かこれらが復刻されることはないのだろうか、と嘆いています(『杉浦茂の摩訶不思議世界』p60)。

 しかし2012年、ついに青林工藝舎から『おもしろブック版猿飛佐助』が刊行され、オールドファンたちの溜飲を下げることになります。雑誌からの翻刻というのは、ほんとうに手間暇のかかるもので、これは偉業だと思います。

 しかし私などは、かつて筑摩書房版『杉浦茂マンガ館』(第四巻)で読んだ「猿飛佐助」(虫コミックス版を底本にしたもの)の印象が鮮烈すぎて、シュール度五割増しの方が好みなんですよね。このへんは世代によって受け取り方はまちまちだと思います。是非とも、両方入手して読み比べていただきたいものです。

 

「猿飛佐助」「少年西遊記」「聊斎志異」が収録されたお値打ちもの

(杉浦茂『杉浦茂マンガ館』④筑摩書房)

 

■晩年の杉浦茂

 

 杉浦茂は、とにかく描き続ける人でした。

 これまで周期的に「再発見」されては小さなブームを起こしてきた杉浦ですが、そのたびに旺盛な執筆意欲をもって斬新極まる新作を発表し続けてもいたのです。

 1980年から81年にかけて「月刊太陽」に連載された「杉浦茂名作劇場」は熟年期を迎えた杉浦の傑作の一つに数えられていますが、「雪国」「雨月物語」「たけくらべ」などの名作にお題を借りたパロディマンガでありながら、そうした枠組みさえ突き破ったブッ飛んだ展開には唸らされます。

 

『杉浦茂マンガ館』の別巻として刊行された

(杉浦茂『ちょっとタリない名作劇場』筑摩書房)

 

 また、89年から92年にかけて、描き下ろしで「聊斎志異」も執筆しています。これは発行元の都合で上巻・中巻が刊行されたまま中絶されてしまいましたが、杉浦氏自身は、かまうことなく執筆を続け、筑摩書房から全五巻の作品集『杉浦茂マンガ館』が刊行された際に、未刊行部分が収録されています。

 またこの作品集の最終巻には、描き下ろし作品「2901年宇宙の旅」も掲載されました。この作品の執筆時期は1996年で、なんと御年八十八歳の作品です。2000年に92歳で亡くなった杉浦茂にとって、これが最後の作品となりました。

 この作品、さすがに線がヨレヨレになっていて、まるで幼児返りしたような絵になっていますが、奔放不羈な筆致はそのままに、もはや羽化登仙の境地に達したかのようです。マンガ家のいしかわじゅん氏は、とある作品展でこの作品の原画を目にしたとき、鳥肌が立ったといいます。

 

線は震え、円は閉じず、フォルムは歪んでいる。消しゴムをかける力がなかったのか、鉛筆の線がそのまま残っている。

それはもう、絵ではない。描いた杉浦自身が、一番よくわかっているだろう。自分はもう、絵を描く力がなくなってしまった。

しかし、それでも杉浦茂は描いたのだ。ペンを握り、インクをつけ、がりがりと紙に生を残そうとしたのだ。その、本能と呼んでもいい執念に、ぼくは感動したのだ。杉浦茂の、表現に対する欲求に、肌に粟を立てたのだ。」(いしかわじゅん「もうひとりの天才」(『秘密の本棚』所収))

 

 いしかわ先生を戦慄させたという、その絵を、みなさんにも是非一度目にしていただきたいと思います。この作品の収録された『杉浦茂マンガ館』第五巻は、古書価も高騰しているようですが、2009年にエンターブレインから発行された『イエローマン』でも読むことができます。

杉浦茂は、ほんとうにマンガを愛し、マンガから愛されていた人だったのだと思います。

 

後半期のシュール度多めの作品を集めた傑作選

(杉浦茂『イエローマン』エンターブレイン)

 

 

◆◇◆杉浦茂のhoriスコア◆◇◆

 

【脈絡】70hori

こうした脈絡のなさは、やはり夢を見ている時の感じに近いものがあります。

 

【リアリティライン】67hori

ダダやシュールの描法や、絵物語のタッチなども取り入れていますね。

 

【溶解】75hori

諸星大二郎の「生物都市」みたいですね。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>戦後マンガ家の中にも徒弟経験者はいないでもありません。『恐怖新聞』『空手バカ一代』で知られるつのだじろうは、トキワ荘グループに属する戦後世代のマンガ家ですが、戦前の大御所マンガ家・島田啓三に師事していました。

 

<2>井上晴樹「杉浦茂は生きている!」(『杉浦茂 自伝と回想』所収)より

 

<3>満州の引き上げ家族の出身であった、ちばてつやは、小学校の二、三年生頃まで、世の中に「漫画」なるものがあることを知らなかったそうです。

あるとき、道端に落ちていたマンガを拾ったちば少年は、その内容に衝撃を受けたとか。

「こんな凄いものを見つけた」と言って家に持って帰ると、真っ青になった母親が、いきなりそれをひったくるなり七輪で焼いてしまう話が『ひねもすのたり日記』②(小学館)に出てきます。

ちば少年は、そのマンガの内容を鮮明に覚えており、のちにその内容から、それが杉浦茂の『アラビアンナイト』という今では一冊も現存していない豆本であることが判明しました。

マンガ嫌いの母親による鉄壁のガードによって、マンガから遠ざけられていたちばてつや少年に、マンガの扉を開かせたのが、実は杉浦茂だったのです。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:杉浦茂『おもしろブック版猿飛佐助』青林工藝舎

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 今を去ること28年前のことです。

 本屋でふと見かけた吾妻ひでおのマンガをパラパラ見ていたら、

「最近私はガテンな仕事をしている。(なぜかは聞かないでほしい…)」

 という記述とともに、シャベルとつるはしで地面を掘っている吾妻先生の自画像が出てきました。

 そのときの脳天を直撃されたような衝撃は、今でも忘れられません。時代はまだ「少年ジャンプ」が650万部への上り坂を驀進していたマンガ黄金期。その頃の私は、マンガ家というのは、とにかくむやみやたらと儲かるものだと思い込んでいました。それなのに、吾妻ひでおクラスの大御所がガテン系に転職ってどういうこと?と、いくつもクエスチョンマークが頭に浮かんだものです。

 

 その日からくだること12年、今度は『失踪日記』(イースト・プレス)の登場によって、それをさらに上回る大衝撃を受けることになります。あの「ガテンな仕事」に至るまでの背後には、こちらの想像をはるかに越える凄まじい物語が隠されていました。

 謎に包まれていたホームレス時代の日々を克明に描いたこの作品は、御存じのとおり大変な反響を呼んでベストセラーとなったわけですが、おかげで若い世代は、この本から吾妻ひでおに入ったという人が多いようです。それはそれでアリかもしれませんが…。

 

 今回は、そんな吾妻ひでおの、最もイキのよかった頃の作品から模写してみようと思います。

 1980年、当時人気が急上昇していた吾妻ひでおが、奇想天外社から初の作品集(全4巻)を出した際の、各巻末についていた、あとがきマンガの一つです。

 

吾妻ひでお「こうして私はキャラクターした」模写

(出典:吾妻ひでお『吾妻ひでお作品集』②奇想天外社)

 

 吾妻ひでおのマンガに最もたくさん登場するキャラが、なにを隠そうこの【吾妻ひでお】です。片方の目を小さくするだけで、あとはどんな格好をしても吾妻ひでおになっちゃいますね。

 コマ割りは、わりと【スクエア】で、キャラもほとんどが【フルショット】です。絵のタッチ自体は、かなり【オールドファッション】なのですが、このタッチだからこそ、吾妻ひでおの、あの独特のキャラたちや異生物たちが引き立つのですね。メカもすごく魅力的です。

 ところで、今回はネームも書いちゃいましたが、これめちゃくちゃ面白くないですか?(どこが面白いのかわからない人には説明する方法がない)私は、こういうノリならゴハン何杯でも食べられるんですが、ギャグって好みだから難しいですね。

 とはいえ一つ言っておきたいことは、これは1980年のネームであることです。このセンスはやはり突出していると言わざるを得ません。批評家の大塚英志氏は不条理マンガの元祖は吉田戦車ではなく吾妻ひでおとすべきだとしていました。

 

■ベテランの暴走

 

 吾妻ひでおは、70年代末から勃興していた、いわゆる「ニューウェーブ」(高野文子の回参照)の中に数えられることが多いのですが、他のニューウェーブ作家と、ちょっと違うのは、70年代末の時点で、すでにベテランであったことです。当時の一般的イメージでは、吾妻ひでおといえば「少年チャンピオン」連載の『ふたりと5人』(秋田書店)で知られる、けっこうメジャーな作家でした。

 キャリア的には、あんまり「ニュー」な人ではなかったにもかかわらず、「ニューウェーブ」の一人にされていたのには訳があります。要するに「バケた」わけです。少なくとも外面的には、ずいぶん変わったと見えました。「メジャーな雑誌にメジャーなヒット作を描いていた、あの人が、いつの間にかタイヘンなことになっている!」と、いち早く見抜いた人たちがいて、その人たちが吾妻ひでおを持ち上げたのです。

 最初の衝撃が、1978年に発表された「不条理日記」でした。そのタイトルが示すとおり、何を言っているのかさっぱりわからない不条理なマンガなのですが、全編にわたって散りばめられた、意味不明なやりとりのほとんどが、実はSFを主な元ネタとするパロディでした。

 この作品に真っ先に驚喜したのは、当然のことながらSFファンダムの人たちです。

 その年のSF大会は「不条理日記」の話題で持ちきりだったといいます。 当時、まだ顔バレしていなかった吾妻先生は、会場に潜り込んで、小松左京が「不条理日記スゲエよな」と喋っていたのを横で聞いていたというエピソードが残っています。

「スター・ウォーズ」ブームを機に、この頃、SF自体が、ものすごく盛り上がっていた時期でした。その後のSF大会で伝説のダイコンフィルムなどが出てくる時代が来るのですが、そういった気運と吾妻ひでおの資質が、ぴったりマッチしてしまったのです。

 

(吾妻ひでお『不条理日記』奇想天外社・太田出版・復刊ドットコム) 

繰り返し刊行された古典的名盤

 

 少年誌のルーティンに疲弊しきっていた吾妻ひでおは、この作品をきっかけに何かが吹っ切れたようです。ここから吾妻ひでおの暴走が始まりました。「劇画アリス」などの自販機本にも積極的に登板するようになります。吾妻のようなメジャーな作家が自販機本に執筆することは「都落ち」と取られかねないものでしたが、そんなことはお構いなし。そもそも自販機本自体が、この頃より、新たな才能を生み出す台風の目になりつつあったのです。

 

 吾妻ひでおの暴走は、それにとどまりません。当時の常識では考えられないことに、同人誌を作ってコミケに参入することまでやってしまったのです。

 これは現在のプロ作家が同人活動をするのとは全く意味が異なります。コミケ自体が、まだまだ、こぢんまりしたもので、参加サークル数も300程度(現在の百分の一以下)。その大部分が耽美系、今で言うBLでした。そこへ吾妻ひでおは、ロリコン同人誌、今で言う「美少女コミック」の元祖のようなものを出してきたのです。

 これはコロンブスの卵のような大発明でした。第二回DONDEN祭に来られた方は覚えておられるかもしれませんが、永山薫氏が解説されたように、それまでのエロマンガは基本的に「官能劇画」だったのです。そこへ手塚・石森直系の画風で描く吾妻ひでおのロリコンマンガが出てきたのですから、その衝撃はいかばかりだったことか。吾妻ひでおの伝説の同人誌「シベール」こそが、「コミケで行列ができた」栄えある第一号となります。若き日の山本直樹が、その行列の中にいた一人でした。

 そしてこれ以後、ほんの数年のうちにエロマンガの風景は一変することになります。官能劇画系の旧勢力は、一夜のうちに、ほぼ一掃されることになってしまったのです。

 

■いつまでも読み継がれる人

 

 この連載でも時々、「このマンガは今の人には分かりにくいかもしれませんが…」などと、ボヤいていますが、“少し前のマンガの凄さが分かりにくくなっている”ということは、別言すれば、マンガというメディア自体が、いまだに現役であることを意味します。それ自体は、別に悪いことではないのでしょう。

 吾妻ひでおは、「SFと美少女」という、現在の秋葉原カルチャーの基礎システムを作った一人です。そのため、その尖鋭性はジャンルそのものの浸透と拡散の中で見えにくくなっているかもしれません。しかしまあ、そんなことは実はどうでもよくて、作品自体が、今読んでも十分面白い、だからこそ読み継がれているのでしょう。

 

 吾妻ひでおの作品集は、比較的コンスタントに出ている印象があります。過去作の新装版やアンソロジーなどが、よく編まれていますね。

少し前のものでいえば、河出書房新社から出ていた「○○のための吾妻ひでお」というシリーズがありました。表紙はちょっと、いかがなものかと思われますが、各選者が凝りに凝ったセレクトをしていて、中身は悪くないと思います。

 

(吾妻ひでおベスト選集全5冊、河出書房新社)

大胆な表紙で固めたアンソロジー

ちなみに左下の表紙は東浩紀氏のご令嬢だとか

 

 また、『失踪日記』がベストセラーになってしばらくの頃は、オレンジやピンクなど暖色系の表紙の作品集が次々に刊行されていました。各社がこぞって便乗本を出していたのですね。これが困りもので、中にはマンガでないものもあるのです。書店のマンガコーナーにビニール包装で置いてあるので、マンガだと思って買ったら違ってた、ということが何度かありました。吾妻さんご本人も、半ばあきれ気味で、『逃亡日記』(日本文芸社)のまえがきで「これ『失踪日記』の便乗本じゃないのっ」「皆さん、この本買わなくていいです!」などと書いています。

 

『失踪日記』に判型も装丁もそっくりな本がたくさん出た

 

 こちらとしては、『失踪日記』のラストに「まだまだいろんな出来事や変な人に会ったけど、また今度お話します」というセリフが出てくるので、ずっと待っていたのですね。似たような装丁の本が出ると、「あっ、やっと続編が出た!」と、騙されて買ってしまうのです。

 そのうちだんだん疑心暗鬼になってきて、2013年に『アル中病棟』(イースト・プレス)が出た時も、「また便乗本かよ」と半ば憤りながら、でもやっぱり買ってみると、これがほんとの続編でした。実に8年も待たされたことになるのですが、本物の続編だけに、これはさすがに読みごたえがありましたね。

 ちなみに『地を這う魚』(角川書店)も、装丁こそ便乗本ですが、傑作です。

 

 晩年の作品の中で、ダントツのオススメは『カオスノート』(イースト・プレス)でしょうか。

タイトルからして、マンガではなく絵日記エッセイみたいなやつなのでは?と疑心暗鬼になりながら買ってみると、これが正真正銘のマンガであるばかりか、凄いクオリティなのには驚きました。

「不条理日記」のアップデート版ともいえますが、モチーフの料理の仕方など、一段と進化したようで、「ここにきて、また新たなステージにくるとは、吾妻ひでおは底知れないな」と感服したものです。

 

(吾妻ひでお『カオスノート』イースト・プレス)

 

■楽屋オチとパロディ

 

 80年代以降の吾妻ひでおの、何が斬新だったのかは、今となっては説明するのが難しいのですが、読者がついてこられないようなニッチ過ぎるギャグをどんどん投下していったこともその一つです。

 時代の成熟ということも一つの要因としてあったでしょう。そういうものが受け入れられる土壌が出来つつあったのです。

 パロディ<1>というのもその一つです。

 ニューウェーブ系の中では、よく吾妻ひでおと並び称される作家に、いしかわじゅんがいました。「ビッグマイナー吾妻ひでおに、リトルメジャーのいしかわじゅん」などと呼ばれていたそうです。

 

(いしかわじゅん『約束の地・憂国』新潮社)

いしかわじゅんの最高傑作二本をカップリングした作品集

 

 いしかわじゅんと吾妻ひでおは、それぞれのマンガの中でお互いを茶化しあい、「吾妻×いしかわ抗争」などと言われていましたが(ほんとに抗争していたわけではありません)、この両者の共通点を上げるとすれば「楽屋オチ」ということになるでしょうか。

「パロディは元ネタがわからなくても、面白い」ということを発見した二人は、読者を置いてきぼりにしていきかねない勢いでマニアックすぎるネタを作品中にガンガン投入していきます。その究極形が吾妻の「不条理日記」でした。

 不条理日記の元ネタって、今みたいなネット時代なら、調べると簡単に全部わかってしまいますが、これでは全くつまらないですね。

 ほんの一昔前までは、この作品のネタ元を突き止めるのって、ほんとうに大変で、二つ三つぐらいならわかるものの、だいたいが、ほぼわからなかったわけです。

 サブカル界隈のインテリおたくたちにとっては、これを、どれだけわかるかがマウンティング合戦の格好の材料になっていました。私の大学時代、SFをめちゃくちゃ読んでる大先輩がいて「不条理日記の元ネタ、ほとんどわかったけど、一個だけ最後までわからんヤツがあった。高橋留美子が同人誌時代に描いたマンガだよ。さすがにそれはわからんわ」と言っていたのを聞いて「スゴイ」と思った覚えがあります(先輩に対しても、吾妻ひでおに対しても)。

 

■私小説の継承者

 

 もう一つ、吾妻作品に特徴的なのは、本人キャラの頻出ですね。

 マンガ家の自画像には、実にいろいろなパターンがありますが、小林よしのりや内田春菊のように、ためらいなく自らをイケメンor美人に描いてしまうような人は少数派で、たいていは愛嬌ある三枚目に描くのが普通です。

 吾妻ひでおは、典型的な三枚目タイプ。そして目がいつも笑っています。永井豪やカラスヤサトシなども、このタイプですね。これらは含羞の裏返しとしての笑顔というか、本心を隠す仮面としての笑顔、という側面もあるように思います。

 現実にも、いつも笑顔ってタイプの人がいますが、そういう人たちの多くは傷つきやすくて、常にしっかりとガードを固めておかなければやっていけないタイプのように見えます。私自身、心当たりがありますが、だいたい顔が笑っている時は、面白いから、というよりも、緊張で顔面の筋肉が引きつっているだけ、ということがよくあります。

 吾妻マンガに出てくる「あじましでお」も、基本的に、いつも笑っているのですが、ふとしたはずみに真顔になったり無表情になったりする。かと思うと、すぐに笑顔に戻ってしまいます。こうした往還の危うさが、作家吾妻ひでおの、絶妙なフラジリティを醸し出しています。

 吾妻ひでおは、冗談っぽく、愛読書は太宰治と言ったりしていますが、ほんとうのところ、日本の私小説の直系の継承者と言っていいぐらいの資質を隠し持っている人ではないでしょうか。

 

■最後までギャグマンガ家

 

 吾妻ひでおには、ギャグ成分の入っていない作品も、わずかながらあります。そうした「純文学的」な作品ばかり集めた『夜の帳の中で』(チクマ秀版社)という作品集もあるのですが、そのあとがきマンガの中で吾妻ひでおは「ハッキリ言ってシリアスはラクです」「バカでも描けます」「ナンセンスにくらべれば使う労力は一割ぐらい」と言っています。彼自身その気になれば、こういうものは、もっとたくさん描けたのでしょう。

しかし、吾妻ひでおは、それをやりませんでした。その結果としての失踪・アル中と思えば、彼が、いかに壮絶な戦いを続けていたのかがわかります。

 

(吾妻ひでお『夜の帳の中で』チクマ秀版社)

 

 俗に「ギャグマンガ家5年寿命説」などと言われるように、ギャグの創作は非常に消耗するもので、燃え尽きてクラッシュしてしまう人も多いのですが(ルーティンで描いている人は除く)、吾妻ひでおは、最後まで創作の手を緩めることなく前進しつづけました。

 失踪した時は、ほんとに嫌になっていたのだろうと思いますが、それでもマンガを描くこと自体は好きだったのでしょう。ガテンな仕事をしていた時ですら、こっそりマンガを描いて社内報に発表していたぐらいですから、よほど深いマンガの業に憑りつかれていた人だなと思います。

 突然の失踪、ホームレス生活、ガテン系の仕事などを経て、ようやく復帰できたと思ったら、今度は重度のアルコール依存で家族の手により精神病院に強制入院(ほぼ太宰です)。そんな修羅場を潜り抜けても吾妻ひでおは吾妻ひでおでした。「アル中病棟」から復帰するや、いそいそと仕事は再開され、商業誌の他にHPでの執筆や、個人誌「産直あづまマガジン」の発行などが始まります。そして『失踪日記』による何度目かのブレイク。

 いつもふざけて「自分はもうおわった」などとエッセイマンガで描いていますが、「鬼滅」の善逸くんよろしく、ダメアピールの仮面の下に、実は、相当な実力とタフネスを隠し持っていた人でした。

 

 1999年以降、完全な断酒にも成功し、よくあるスリップにも陥らず、健康な生活を続けていた吾妻先生ですが、2019年10月、食道がんにより逝去。69歳のことでした。

 コロナ禍を見ることなく逝かれたわけですが、現在のこの状況、吾妻先生ならどう描いていたんでしょうか。絶対めちゃめちゃ面白いことを言っていたハズ!

 ああ読みたかった…。

 

 

◆◇◆吾妻ひでおのhoriスコア◆◇◆

 

【吾妻ひでお】82hori

本文にも書きましたが、正統派の私小説作家だと思います。

 

【スクエア】62hori

藤子、赤塚などと同じ、一昔前のコマ割りです。

 

【フルショット】63hori

全身をきっちり描くのも、一昔前のギャグマンガのスタイルです。

 

【オールドファッション】75hori

吾妻マンガのような不定型な面白さが現れるためにこそ、定型的な文法規則が必要だったと指摘したのは夏目房之介氏でした(NHK人間大学テキスト『マンガはなぜ面白いのか』)。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>パロディ

吾妻ひでおの、こういったマニアックなお遊びは、実は初期の頃からやっていて、1974年の「ゴタゴタマンション」という作品では、ラストで主人公の住んでいたアパートが火事で焼け落ち、

「やがて館は音も無くくずれ去り永久に私たちの目の前から姿を消してしまった」

というフレーズが出て来ます。これ何のパロディかわかりますか。エディスト読者の皆さんなら簡単かな(*)。

こうした楽屋オチやパロディを、読者が分かろうが分かるまいが遠慮なくぶち込んでいくのが吾妻ひでおでした。当時は、楽屋オチは読者を狭めてしまう禁じ手とされ、編集者からも「やっちゃダメ」と言われていたそうですが、たぶん原稿を見た編集者も気がつかないような形で、するっと入れていたのでしょう。

(*)答えはポーの「アッシャー家の崩壊」です。

 

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:吾妻ひでお『やけくそ天使』①秋田書店

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山上たつひこ 奇人流転【マンガのスコア LEGEND27】 https://edist.ne.jp/dust/manga27_yamagami/ Fri, 30 Apr 2021 01:28:36 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=23339 ■「少年チャンピオン」の時代    かつて、この世界には五大少年週刊誌というものがありました。「サンデー」「マガジン」「キング」「ジャンプ」「チャンピオン」の五誌です。いまは「少年キング」が抜けて四誌になってい […]

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■「少年チャンピオン」の時代

 

 かつて、この世界には五大少年週刊誌というものがありました。「サンデー」「マガジン」「キング」「ジャンプ」「チャンピオン」の五誌です。いまは「少年キング」が抜けて四誌になっていますが、「ジャンプ」以外は、ちょっとひっそりしていますね。

「ジャンプ」は1970年代半ば以降ずっとトップを走っていて、90年代後半に一時「マガジン」に抜かれた以外は、ずっとナンバーワンでした。一方、60年代末から70年代初頭にかけて「少年マガジン」黄金時代があったことをご存じの方もいるでしょう。

 しかし、「少年チャンピオンの時代」というものが、かつてあったことをご存じでしょうか。70年代後半、ほんの短い期間でしたが、この雑誌が天下を取っていた時代があったのです<1>。

 それまで最後発の少年誌として、他誌の後塵を拝していた「少年チャンピオン」の部数を、あっという間に倍増させ、いっきなりトップの地位に引き上げたのが、他ならぬ山上たつひこの『がきデカ』(秋田書店)でした。

『がきデカ』の登場により「少年チャンピオン」の部数は、半年から一年の間に、八十万部から、いっきに百八十万部へ跳ね上がったと言われています。これほどの爆発力を持った作品は空前絶後でしょう。

 その後、『ドカベン』『ブラック・ジャック』『マカロニほうれん荘』などのヒット作に支えられ「少年チャンピオン」は我が世の春を謳歌することになります。

 

■革新的なスタイル

 

 ギャグマンガ史において、赤塚不二夫の起こした革命に続く、次のフェイズで大きな仕事をした作家として、谷岡ヤスジと山上たつひこの名を挙げることができます。谷岡が1970年に「少年マガジン」に連載開始した『ヤスジのメッタメタガキ道講座』(実業之日本社)と、山上が1974年に「少年チャンピオン」に連載開始した『がきデカ』(秋田書店)は、ともに大きなブームを巻き起こしました。

 この両者は、全く別のスタイルを持ち、やがて、それぞれ異なる道を歩んでいくことになります。谷岡は、後続に続く系統樹を作ることがなく、孤高の作家としての道を突き進んでいきました。一方、山上たつひこは、マンガ界全体に激震のようなインパクトを与え、山上以前/以後といっていいような変化をもたらすことになります。

 今回は、そんな山上たつひこの最大のヒット作である『がきデカ』を模写してみようと思います。

 

山上たつひこ「がきデカ」模写

(出典:山上たつひこ『山上たつひこ選集』⑳双葉社)

 

 今で言う【リズムネタ】を紙上で、いち早く取り入れたのが、山上たつひこでした。今見ると、なんてことないですが、当時は腹がよじれるぐらい面白かったといいます。

 一コマ目中央の男性は、肩幅も狭く頭身自体はギャグマンガ調ですが、その上に乗っかっている顔は劇画タッチです。栃の嵐(犬)も二本足で立っていますが、毛並や骨格は、かなりリアルに描写されています。ギャグマンガにこのようなリアルなタッチを入れるのも、当時としては斬新でした。

 一方、コマの割り方は、かなり【保守的】です。ほとんどのページが四段割りで、大ゴマの使用頻度も控えめですね。その分、一コマ一コマの密度が高い。【背景】も、かなりしっかり描き込んでいます。

 話法の大人しさとは対照的に、内容はかなり大胆。とにかく主人公のこまわり君は意味もなくやたらと【下半身】をさらすんですね。しかも、ちょっと汚くてグロい描き方になっています。これが当時の子どもには、けっこうウケた。「トイレット博士」や「まことちゃん」から「Dr.スランプ」の”うんちくん”にいたるまで、いつの時代も子どもは下ネタ大好きではありますが、「がきデカ」のエゲツなさは飛びぬけています。山上の、初期の頃からの【グロテスク】に対するこだわりと偏愛が、形を変えてずっと続いているのですね。

 

■山上のわかりにくさ

 

 70年代半ば以降に登場するギャグマンガは大なり小なり、みな、山上たつひこの影響を受けています。『がきデカ』ブーム直後には、あからさまにそっくりなマンガもたくさん出てきました。多くの模倣者、フォロワーを生んだという点で、山上たつひこは、少し後に登場する大友克洋に近いものがあります。

 ただ、大友に比べると、山上が当時巻き起こした激震の大きさは、今となっては、ちょっと見えにくくなっているかもしれません。

 赤塚不二夫の時にも触れましたが、ギャグマンガの場合、浸透と拡散による鮮度の劣化が激しいのですね。革新的なギャグも、すぐに当たり前のものになってしまい、当初のインパクトが分かりにくくなってしまうのです。

 赤塚不二夫が、いわばギャグマンガのOS、あるいは普遍文法を作ったとすれば、山上たつひこは個別言語を作ったと言えます。

 生まれたばかりの乳児は、多くの母音子音を聞き分ける能力があるそうですが、成長するにつれ、母語の音韻体系に取り込まれてしまい、識別能力が制限されていくと言います(母語マグネット理論)。

 山上たつひこ以後のギャグマンガは、すべて「山上たつひこ」言語になってしまったのですね。あまりにも当たり前になりすぎて、あらためて取り出されても何がすごいのかわからなくなってしまっているのです。

 NHK「BSマンガ夜話」(2000年3月6日放送)の中で、夏目房之介氏は、山上たつひこを巨大隕石の落下に例え、周辺の森林が全て同じ方向になぎ倒されてしまったと表現していました。本来、別の方向に才能を開花させていたかもしれないのに、山上たつひこのおかげで、その方向を変えさせられてしまった人もいたはずだ、というのが夏目氏の指摘です。

 

■山上たつひこは、これを読め

 

 それほど凄い業績を残したにもかかわらず、いやそのことによってかえって、山上たつひこの魅力を若い人たちに説明することが困難になっています。

 若い世代で山上たつひこの熱心な愛読者、というのはあまりいないかもしれません。しかし、古くからのファンも多いためか、アンソロジーや作品集がたびたび刊行されています。92年に双葉社より刊行された大規模な『山上たつひこ選集』(全20巻)をはじめとして、『単行本未収録傑作選』(全3巻)、『山上たつひこ初期傑作選』(全3巻)、『山上たつひこ選集』(全5巻)(以上、小学館クリエイティブ)などのコンセプチュアルな作品集も何度か出ています。『単行本未収録傑作選』は貸本時代<2>のものをはじめとした初期の激レア作品ばかり集めたもの。江口寿史監修による五巻本の『山上たつひこ選集』は、とってもおしゃれな装丁で、全然山上たつひこの本には見えませんが、ギャグ作家としてブレイクして以降の主要な作品を中心にセレクトした優れものです。『光る風』(小学館クリエイティブ)のような前期の代表作も復刊されました。また、山上の最も重要な作品である『喜劇新思想大系』は、これまで何度も刊行されていますが、表現上いろいろ問題があるため、全てを収録した完全なものは一度も出ていなかったのです。それがついに2004年、『完全版・喜劇新思想大系』(上・下)という形でフリースタイルより刊行されました。

 

(山上たつひこ『山上たつひこ選集』①~⑤小学館クリエイティブ)

おしゃれな装丁(でもよく見ると変な写真)の『山上たつひこ選集』

 

 というわけで、山上たつひこビギナーのために、手っとり早く山上たつひこの全容を掴む方法をお教えしますと、まずはじめに『単行本未収録傑作選』(全3巻)を読み、つづいて『光る風』に進み、さらに『完全版・喜劇新思想大系』(上・下)→『がきデカ』<3>→『山上たつひこ選集』(全5巻)と進んでいくというものです。すみません。全然手っとり早くありませんでした。しかし、これで山上たつひこのドラスティックな変遷の軌跡は味わえるでしょう。

左から右へ読み進んでいこう

 

 とにかく、山上たつひこといえば、変化の振幅が半端ではないのですね。俗に「バケる」という言い方がありますが、山上たつひこほど過激なバケ方をした人はいないんじゃないでしょうか。

 ギャグマンガ家としてブレイクする以前の山上たつひこは、暗い情念のみなぎるシリアスな作風の作家として知られていました。

この時期を代表する作品の一つに、1970年、「少年マガジン」に連載された『光る風』が挙げられます。

 軍国主義の復活した近未来の日本を舞台にしたポリティカルフィクションなのですが、一読、間違いなく強いインパクトがあります。現在のマンガにはちょっと見受けられないような野蛮な迫力があって、作品の出来がいいのかどうかよくわからないものの「とにかく凄い」と誰もが思うでしょう。

『光る風』で最も印象に残るのは、なんといっても物語後半に登場する驚異の脱獄シーンです。脱獄を扱った創作物は多いですが、『光る風』に出てくる脱獄シーンは、脱獄もの史上、最高にして最悪のものであることは間違いありません。

 

(山上たつひこ『光る風』小学館クリエイティブ)

 

 とにかく初期の山上たつひこは、シリアスには違いないのですが、過剰な情念が渦巻くあまり、それが「シリアス」の器からあふれ出て、黒い哄笑に転じていくところがあるのですね。とりわけ『喜劇新思想大系』で大バケする直前の作品には、真面目なのかふざけているのかわからないような不思議な作品が散見されます。「少年サンデー」に連載されていた『旅立て!ひらりん』など、今で言う異世界転生ものなのですが、どんなスタンスで読んだらいいのか読者を当惑させるような作品でした。

 

■「大バケ」からの山上たつひこ

 

 山上たつひこが、突如としてギャグ作家として開花するのは、72年の『喜劇新思想大系』からということになります。この作品は『赤色エレジー』『男おいどん』に連なる四畳半ものという側面もあるのですが、とにかくその破壊的でお下劣きわまりないギャグの連打は空前絶後のものでした。今では絶対発表できないような悪逆非道でブラック過ぎるギャグの数々は、笑っちゃマズイような気がしながらも、読者をぐいぐい引きずり込まずにはいられません。

 この作品は、掲載誌がマイナー誌であったこともあって、一部のマンガファンの間でしか話題にならなかったのですが、その二年後に発表された『がきデカ』によって、山上たつひこは全国的大ブームを引き起こすことになります。

 貸本時代より培われた本格的な劇画タッチで、バカバカしすぎるギャグを連発する、という山上たつひこのスタイルは衝撃的でした。赤塚や谷岡までの、デフォルメの効いた記号的キャラクターに、突如として生々しい肉体が宿ることになったのです。ギャグマンガの方式に則り三頭身でありながら、骨格や筋肉がしっかり描き込まれ、その上に醜悪でリアルな日本人顔が乗っかっています。こんなギャグマンガはありませんでした。

「あふりか象が好きっ!!」「八丈島のきょんっ」などといったフレーズとともに、突然動物に変身してしまうというギャグも新鮮でした(こういったギャグの斬新さは、今となってはちょっとわかりにくいかもしれません)。血の通った人間の演じるリアルな空間と、それと相反するような不条理な展開の数々は、この上ない異化効果をもたらします。

「こんな描き方があったのか!!」と、当時のギャグ作家たちは、みな脳天を撃ち抜かれるような衝撃を受けたのです。

 

■その後の山上たつひこ、あるいは山上龍彦

 

 足かけ七年にわたり、日本全国に毒素を振りまいた『がきデカ』も、80年末にいったん終了。青年誌に舞台を移してからの山上たつひこは、さらにタガが外れてしまい、往年の『喜劇新思想大系』を思わせるような暴走ぶりを見せますが、やがて落ち着いたタッチを獲得しはじめます。温泉街を舞台にした『原色日本行楽図鑑』(双葉社)、『湯の花親子』(小学館クリエイティブ)などでは、味のあるギャグマンガを描いてみせました。かと思えば『鬼刃流転』(マガジンハウス)では、またしても暴走気味のギャグを連発し、山上たつひこ健在ぶりを見せつけます。

 1989年に入り、突如として「がきデカ」が復活します。古巣の「少年チャンピオン」で、十年前のタッチを完全再現させた『がきデカファイナル』(秋田書店)で有終の美を飾りました。最後は虚無僧の姿に身を包んだこまわり君が、いずこともなく去って行く姿とともに「うしろすがたのしぐれてゆくか」という山頭火の句とともに終わります。

 

 この『がきデカファイナル』終了とともに、山上たつひこはマンガ家廃業を宣言。「山上龍彦」と表記をあらため、小説家として再出発することになりました。

 かと思うと2004年、突然『中春こまわり君』が始まります。この作品、ギャグマンガには違いないのですが、哀愁の漂うシリアスなタッチが通奏低音をなしていて、とても奇妙な味わいの作品になっています。『喜劇新思想大系』直前の、分類不可能な作品群を思わせますが、前者がシリアスなのにギャグ、なのに対して、今度はギャグなのにシリアス、とベクトルが逆になっているのが面白いところです。

 マンガ家山上たつひこ復活か?とざわめくファンの思惑をよそに、再び山上は、作家業の方に回帰していきました。いがらしみきおとのコラボレーションで『羊の木』を発表したことは、以前、当欄でご紹介したとおりです。あれは、まことに見事なアンサンブルでしたが、当初の予定だった山上先生ご自身の手による『羊の木』も読んでみたかった気もします。

 

 

◆◇◆山上たつひこのhoriスコア◆◇◆

 

【リズムネタ】75hori

「鶴居村に~~鶴がくる~~」「練馬名物あやつり納豆~」「ああ~っイオマンテェェ~っ」「禁じられたゼットォ~ッ」等々、いろいろなレパートリーがありました。

 

【保守的】58 hori

『光る風』の頃の大胆で実験的なコマ使いとは対照的です。

 

【背景】68 hori

特にトビラページに力を入れていて、写真資料を基にした細密な絵を載せていました。

 

【下半身】71 hori

『がきデカ』より少し早く連載が始まった『トイレット博士』(とりいかずよし・集英社)でも、主人公が、よくパンツを脱いでいましたが、こちらは赤塚プロの出身らしく、かわいらしく簡略化されています。

 

【グロテスク】89 hori

とりわけ「汚穢と禁忌」に向かうこだわりは初期の頃から一貫しています。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>Wikipedia「週刊少年チャンピオン」の項には「1977年1月には200万部を突破し、ついにトップに立った。」という記述があります(典拠は週刊少年チャンピオン1977年6・7号表紙)。ただ、このデータには若干疑問もあります。「少年ジャンプ」元編集長・西村繁男の手になる『さらばわが青春の『少年ジャンプ』』(飛鳥新社)によると「(少年チャンピオンは)表紙に誇大な発行部数を刷りこみ、あたかも『少年ジャンプ』を凌駕しているごとく読者を惑わせていた。ジャンプは公称部数も自称部数もなく、正確な実部数を社外に公表するのをモットーとしていたので、『少年チャンピオン』の誇大数字は不愉快だった。長野が激怒して編集長に電話で抗議する一幕もあった。」とあります。いずれにせよ、70年代後半、この両誌が激しいデッドヒートを繰り広げていたのは事実でしょう。

 

<2>実は山上たつひこは貸本劇画の出身です。大阪の日の丸文庫で編集者兼作家として活動していた一時期がありました。

またまた出ました「貸本劇画」!そして「日の丸文庫」!

この零細企業、いったい何回出てくれば気がすむんでしょう(辰巳ヨシヒロ・水島新司(「鬼滅の刃」ホリエの蛇足<2>)・本宮ひろ志参照)。

 

<3>オリジナル版全26巻(秋田書店)そろえるのは大変な人には、宝島社『ベスト・オブ・がきデカ』、小学館クリエイティブ『がきデカthe best』(全3巻)、少し古いところで双葉社版『山上たつひこ選集』18~20巻(著者自選ベスト『がきデカ』1~3)などがあります。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:山上たつひこ『がきデカ』③秋田書店

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四コママンガのファイナルインパクト【マンガのスコア番外編 吉田戦車】 https://edist.ne.jp/dust/manga_yoshida_sensha/ https://edist.ne.jp/dust/manga_yoshida_sensha/#respond Wed, 10 Mar 2021 01:23:31 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=20433  お正月の『鬼滅の刃』につづき、またまた番外編の登場です。  編集部から依頼を受けた時は「ええ?また記事が増えるの~」と思わないでもなかったのですが、金宗代副編集長の「吉田戦車がレジェンドに入っていないのはちょっと…」と […]

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 お正月の『鬼滅の刃』につづき、またまた番外編の登場です。

 編集部から依頼を受けた時は「ええ?また記事が増えるの~」と思わないでもなかったのですが、金宗代副編集長の「吉田戦車がレジェンドに入っていないのはちょっと…」という、こだわりの要望に押し切られてしまいました(笑)

 たしかに(ほぼ)完璧なリストとも言えるLEGEND50とはいえ、いろいろ言いはじめると「入っていない重要な作家」は出てくるのですが、やっぱり吉田戦車がいないのはおかしい!

 

 というわけで今回は、吉田戦車の超有名な代表作の中のでも、特に超有名な作品を模写してみようと思います。

吉田戦車「伝染るんです。」模写

(出典:吉田戦車『伝染るんです。』①小学館)

 

 吉田戦車といえば「不条理マンガ」の代名詞的存在ですが、まさにそのお手本のような作品です。この【包帯くん】は、作中でも、とりわけ不条理感の強いネタのときに登場するキーパーソンでした。

 哲学者の永井均氏は、この作品を【前期ウィトゲンシュタイン】に匹敵するものとして称賛しています。また、同じ第一巻に収録された「犬ひも」の話(単行本p45)も取り上げ、「こういうマンガを描ける人の哲学的感度は、ほとんど筆舌に尽くしがたいものがある。少なくとも日本の哲学者で、この水準の哲学的感度をもった人を、ひとりも知らない。」と手放しの持ち上げようです(『マンガは哲学する』講談社)。下のプロフィール欄にもあるとおり永井均先生に深く私淑する者としては「吉田戦車ってそんなにスゴイの?」と、あらためて見直すきっかけになりました。

『伝染るんです。』は、わざと四コマの定型をハズしたりすることが多いのですが、この作品に関していうと、話法自体はオーソドックスです。三コマ目で、黒板の文字が一瞬消えて空白の間ができ、質問者の男性の肌に脂汗が現れています。緊張感が高まったところで、最後のコマでカメラがぐっと近寄り、キメのセリフ(?)で落としていますね。

 この三コマ目のような、奇妙な間の取り方は、いがらし・相原以降の比較的新しいものですが、それでも一応「起承転結」にはなっています。吉田戦車は単なる破調の人ではなく、押さえるべきところは、きっちり押さえていることが分かります。

 

 ところで文字を読むとき、たとえ黙読であっても、なんとなく頭の中で音読したりしてないでしょうか。私はこれを読むとき、どうも無意識に「み」と発音しているようです。完全にどんな平仮名にも似ていない字を作れば、無意識の発音も避けられるかもしれませんが、それでは面白味も半減してしまいますね。その意味で【なんとなく平仮名っぽく】造形しているところも絶妙です。

 

■不条理マンガブーム

 

 吉田戦車が四コママンガ、ひいてはギャグマンガの世界に起こした革命の凄まじさについては、あらためて言うまでもないでしょう。

 江口寿史が「文藝別冊 総特集 吉田戦車」(河出書房新社)に寄せたトリビュートマンガの中で「あの時、吉田戦車の名が世間に与えた斬新ぶりのインパクトは例えば――「新宝島」で登場した手塚治虫の名にも匹敵するのじゃないかしら」と書いています。ギャグ界隈の人たちにとっては、本当にそれぐらいの激震があったのでしょう。

 吉田戦車の登場は、目に見える形で、ギャグマンガの世界を一変させてしまいました。

 いまだに吉田の功罪のように言われますが、『伝染るんです。』大ヒットのあと大量発生したエピゴーネンによる「不条理マンガ」ブームの到来がありました。一時は猫も杓子も「不条理」一色となり、とうてい作品としての体をなしていない水準のものまでが「不条理」のひと言でまかり通っていたのです。当時は「吉田戦車がギャグマンガを駄目にしてしまったのではないか」という怨嗟の声さえ聞かれました<1>。

 しかし結局、吉田フォロワーと言われていた人たちの大部分は淘汰され、その中でも残るべき人は残り、なおかつ結果的にギャグマンガのステージは確実にステップアップしたのです。

(同じ頃、テレビのお笑いの世界でも、松本人志の登場でドラスティックな革命が起こっていました。松本の創始したギャグも、不条理色の強いものでしたが、これらは同時並行的な現象だったと言えるでしょう<2>。)

 

■サードインパクトは誰なのか

 

 ところで、当連載の「いがらしみきお」の回の時に触れたことをもう一度繰り返しておきますと、戦後の四コママンガ史において最初に大きな革命を起こした人物は、いしいひさいちであり、それに続くセカンドインパクトは、いがらしみきおでした。

ではサードインパクトは誰なのか。

 これがちょっと難しいのですね。要するに相原コージをどうするかということです。相原コージの出現は、同時代の者にとって、確かに、いがらしにつぐ次のインパクトが来た、という実感がありました。しかし、今の時点で振り返ってみると、あれはサードインパクトではなかったようにも見えてしまいます(ニアサードインパクト?)。

 四コママンガにおいて相原の果たした役割も大きいには違いないのですが、彼にとって不運なことは、その直後に吉田戦車というバケモノが登場してしまったことです。吉田戦車の登場によって「不条理マンガ」というジャンルが確立され、その後多くのフォロワーを生み出すことになりました。結局、いがらしと吉田の間に挟まれた相原コージの位置づけが曖昧なまま今に至っています。彼の評価については、とりあえず後世史家(?)の判断に任せることにいたしましょう。

 

(相原コージ『コージ苑』①小学館)

 

 いずれにせよ、いしいひさいちに始まる四コママンガのイノベーションは、吉田戦車の登場によって一応の完結を見たと言っていいでしょう。すなわち「吉田戦車=ファイナルインパクト」という図式です。

 もちろん、これから先も四コママンガの革命が起こらないとは断言できませんが、それはまた別のフェイズの話となるでしょう。

 それにしても、マンガにおけるギャグの革命が「四コマ」という、最もミニマルなジャンルの中で発展したのは興味深い現象です。ある意味で、短詩系文学に独自の発展を見た日本ならではの現象とも言えるでしょう。

 

■伝説の単行本

 

 吉田戦車のデビュー作が何であったのかは、実はよくわかっていません。編集プロダクションで働いている友人に誘われて、エロ系雑誌にマンガやカットを描いたりするようになって、なんとなくデビュー。

 そのうち徐々にメジャー系の雑誌からも、ポツポツと埋め草マンガの依頼が来るようになり、その独特の作風から、一部で注目を集め始めます。

初期の頃の作風は、やはり同じ頃、エロ系雑誌に描いていた森山塔こと山本直樹と、ちょっと似た雰囲気がありますね。どこか投げやりでヤケクソな描きっぷりで、なおかつ有無を言わせぬ面白さがありました。情のこもっていない無茶な話の展開のさせ方など、かなり似た資質を感じさせます。しかし、いつしか全く別の方向に進んでいき、それぞれ独自の世界の「教祖」となりました。

 

「戦え!軍人くん」などの諸作で、徐々に注目を浴び始めていた吉田戦車は、やがて小学館の名編集者・江上英樹氏の眼鏡にかない、相原コージ「コージ苑」終了後の「スピリッツ」巻末枠という重圧あるポジションで「伝染るんです。」連載をスタートします(ちなみに当時、同じようにマイナー誌で注目され始めていた新進ギャグマンガ家・田中圭一も、連載の最終候補に挙がっていたそうです)。

 連載開始当初は、さすがに訳が分からなくて人気もイマイチだったそうですが、かわうそなどのキャラが出始めた頃から急激に人気が沸騰。そして、その勢いを決定づけたのが1990年の単行本第一巻の刊行でした。

 いまや伝説となっている装丁家・祖父江慎による意図的乱丁のてんこ盛り。わざと裁断の歪んだ帯に「’75年は吉田のものだ!!」という謎のコピー、ページの重複、空白ページの挿入、傾いて印刷されてるページの混入、中表紙の欠落、奥付の後にまたマンガ、前と後ろで不揃いなカバー折り返し、途中で切れてるあとがきの文章、短すぎて下まで届かないしおり、などなどの、あまりにハメを外し過ぎた無茶苦茶な装丁は、返本の問い合わせが殺到し、書店や流通を大混乱に巻き込んだといいます。

(吉田戦車『伝染るんです。』①小学館)

伝説の第一巻表紙。打合せの席上で、吉田先生が

「たとえばこんな感じで」とか言ってテキトーに

走り描きした紙を素早くひったくった祖父江氏は、

それをそのまま表紙に使ってしまった

 

 こうした一連の騒動が伝説に拍車をかけ『伝染するんです。』は、一躍大ブームを起こすことになります。原宿にはキャラショップ「かわうそ屋」ができるほどの人気を呼びました。

 しかし凄かったのは初速だけではありませんでした。連載は89年から94年まで五年の長きに及びましたが、作品のクオリティとテンションは最後まで、いっさい落ちることがなかったのです(それどころか同時期に『いじめてくん』(スコラ)や『火星田マチ子』(スコラ)のような傑作群も他誌で連載していたのですから驚きです)。

 さらに『伝染るんです。』の次の連載作『ぷりぷり県』(小学館)では、前作から一転して連作形式のショートギャグに挑戦。あれほどの大ヒット作の後にもかかわらず、肩の力の抜けた面白さは、さすがの貫禄でした。

 

■まっとうな人

 

 それにしても、あのような不思議な作品を生み出し続ける吉田戦車って、どういう人なのでしょう。

 かつては作中に本人キャラを出すことを封印していた(『マンガ家のひみつ』(とり・みき 徳間書店)での発言)吉田先生ですが、いつしかポツリポツリと本人らしいキャラも現れはじめ、子育てマンガ『まんが親』(小学館)で本格解禁。奥さん(伊藤理佐)の描く『おかあさんの扉』(オレンジページ)にもキャラで登場しますが、それらから窺える吉田戦車先生の姿は、とてもまっとうな人、という印象です。

(吉田戦車『マンガ親』②小学館/伊藤理佐『お母さんの扉』⑥オレンジページ)

同じ一人娘を、それぞれの視点から描いていて興味深い

 

 やっぱりこういう人じゃないと、ああいうヘンテコなマンガは描けないんだなと妙に納得します。決して奇をてらってヘンなことをしているんじゃないんですね。いわゆる「不条理マンガ」と言われるものに、えてして見受けられるような、これ見よがしの衒いみたいなのが、吉田戦車には感じられません。わざとらしく作り込んでいる感じがせず、自分のリアルな皮膚感覚を大事にしているという印象があります<3>。

 マンガ家は、喫茶店やファミレスでネームを練る人が多いのですが、吉田戦車は、徒歩や自転車などで移動しながらでないとダメなタイプだそうです。散歩しながら、ふと目についた公園の滑り台とか、看板の文字のような、ごく普通のところからネタをもらってくるのですね。頭で考えるより、日常の生活の中からインスピレーションをもらっているわけです。

 

『伝染るんです。』で登場してきた頃には「こういうタイプの作家は長続きしないだろう」などとも言われていた吉田戦車ですが、その後もコンスタントに活動を続け、様々な作風の作品を繰り出しては注目を集め続けてきました。最初の爆発的ヒットと、「不条理マンガ」の代名詞となったことで、一時的な流行で消費されてしまう危険もあったわけですが、みごとにそれを乗り切ったのです。これだけの持続性を支えているのは、まっとうな感性を軸にした皮膚感覚の豊かさによるものでしょう。

 まさに日常の行住坐臥、ひたすら吟じ続ける歌人の趣です。

 

 

◆◇◆吉田戦車のhoriスコア◆◇◆

 

【包帯くん】70hori

単純な顔ですが、目鼻口のバランスが難しいですね。眼の高さは中心線よりやや上ですが、両目の間は離れています。一般的に、両目は適度に離れていた方がカワイクなり、反対に目の位置が高くなるとカワイサは削がれる、という法則があります。包帯くんは、あんまりカワイクもなくブサイクでもない絶妙なラインですね。包帯の面積も絶妙ですし、鼻の横のホクロも絶妙です。

ところで、包帯くんと同系統の陰キャラとしては、こけし頭くんとか、毎回吹き矢で射られる、たけひろくんとかもいましたね。『伝染るんです。』連載当時は作者が顔出ししていなかったため「吉田戦車の実物って、きっと、こけし頭や、たけひろっぽいやつに違いない」などと憶測されていました。

 

【前期ウィトゲンシュタイン】88hori

そう思って深読みすれば、最後のコマは、言葉とそれが指し示すものの関係が奇妙なかたちで現れていて「示されうるものは語られえない」(『論理哲学論考』4・1212)状態を表しているとも言えます。(「カタルトシメス」(千夜千冊833夜)ですね)

ちなみに永井均は、同じ『伝染るんです。』の「とりかえしのつかないことをするぞ」(同巻51頁)と「ウカウカするぞ」(4巻137頁)のネタを「後期ウィトゲンシュタイン」に分類しています。

 

【なんとなく平仮名っぽい】64hori

仮にこの作品を外国語に翻訳するなら、それぞれの言語の文字らしさを使って、あらためて作り直さなくてはならないでしょうね。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>「一時期量産された四コマものも今では下火だ。主な原因は、いわゆる不条理ものの亜流の亜流のさらに末流が慢性病のようにマンガ界を侵蝕しているからである。不条理ものは、常識を覆す笑いという謳い文句とは裏腹に、安易な思いつきの内輪ネタを自己満足で描いただけのものがほとんどである。これでは力を失ってゆくのは無理もない。編集側も危機感は持っているようで、大人の笑えるマンガ、出でよ、としばしば言われる。」(呉智英「マンガ狂につける薬」(「ダ・ヴィンチ」2000年10月号)より)

 

<2>松本人志は、最もリスペクトするマンガ家として、いがらしみきおの名を挙げています。松本と吉田の影響関係は、どちらからどちらへ、というより、むしろ同じルーツを持つ兄弟関係と見た方がよさそうですね(ちなみに、どちらも同じ1963年生まれです)。

 

<3>ご本人もインタビューなどで“常識が大事”という発言を繰り返ししています。

「“不条理”って言われた時もちょっと頭に来たんです。こんなにもわかりやすく描いているのにどこが不条理なんだと。」「表現にしてもあんまり暴れ過ぎるものって続けらんないですよね。普通さとか常識とかノーマルな部分をひとつの武器にしないとダメなのかなって。」(『ふむふむのヒトトキ』一青窈・メディアファクトリー)

「キチガイのフリして大暴れすればいいのかっていうと、違いますしね。バランス感覚ないとマンガ家なんてやっていけませんって。だって、商売ですから。一般社会人と同じですもん。あんまりアナーキーな人は、マンガ家になれないんじゃないでしょうか(笑)。」(『マンガの道』ロッキング・オン)

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:吉田戦車『伝染るんです。』①(文庫)小学館

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赤塚不二夫②ニャロメ繁昌記【マンガのスコア LEGEND19】 https://edist.ne.jp/dust/manga19_akatsuka02/ https://edist.ne.jp/dust/manga19_akatsuka02/#respond Sat, 12 Dec 2020 01:40:30 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=16933  ★バックナンバー: LEGEND19赤塚不二夫①   ■長い雌伏の時代    戦後の日本マンガを今日の地位にまで高めた立役者は、間違いなく手塚とそのフォロワーであるトキワ荘グループ、および貸本劇画の […]

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 ★バックナンバー:

LEGEND19赤塚不二夫①

 

■長い雌伏の時代

 

 戦後の日本マンガを今日の地位にまで高めた立役者は、間違いなく手塚とそのフォロワーであるトキワ荘グループ、および貸本劇画の人たちです。彼らは世代でいうと昭和ヒトケタ生まれ。戦地にこそ赴かなかったものの、幼い頃に空襲や疎開を経験しており、戦後の混乱期の貧しい日本を知っています。彼らの周辺には戦災孤児達がうごめいていました。まさに「火垂るの墓」の世代ですね。

 赤塚不二夫も満州からの引き上げ家族の子どもで、貧困のどん底のような暮らしを経験しています。「おそ松くん」に登場するチビ太のモデルは、赤塚が子どもの頃、実際に身近に目にしていた浮浪児たちでした。片手に持ってるおでんは、なけなしの靴磨きでためたお金で買い求めたか、かっぱらったかしたものでしょう。

 

 ちょっと意外かもしれませんが、赤塚不二夫とつげ義春は、お互いに無名の新人だった頃からの親友でした。つげは、赤塚目当てで何度かトキワ荘を訪れています。二人とも極貧家庭に育ち、若い工員として暮らしを立てながら、深夜にせっせとマンガを描いていたという境遇が共通していて、お互いに親しみを持つにいたったようです。赤塚のデビューは貸本マンガで、つげの口添えによるものでした。赤塚不二夫はトキワ荘グループでありながら、実は貸本作家でもあったのです。

 

■少女マンガ家・赤塚不二夫

 

 デビュー当初の赤塚は、もっぱら少女マンガを描いていました。なにも好き好んでそうしていたわけではなく、かろうじてもらえる注文がいつも少女ものばかりだったからです。当時、少女マンガは一段低い存在と見られ、比較的無名な新人でも入り込む余地がありました。一方、ユーモアマンガ(今でいうギャグマンガ)は戦前からの重鎮ががっちり固めていて、新人の入り込む余地はなかったのです。

(水野英子・丸山昭監修『トキワ荘パワー!』祥伝社)

トキワ荘系作家の少女マンガばかり集めたもの

U・マイア(石森・赤塚・水野の合作)作品などが読める。

 

 赤塚不二夫は、なかなか芽が出ない不遇時代が、とりわけ長い作家でした。「トキワ荘時代は、みんな貧乏だった」とはよく言われますが、それでも石森章太郎や藤子不二雄は、けっこう売れっ子でした。藤子不二雄の「ゲンコウオクルニオヨバズ」事件<1>は有名ですが、そのとき、彼らが落とした原稿の数は、連載5本のうち3本、読み切り4本のうち3本だったと言われています。つまり、それだけの注文を常時抱えた売れっ子だったわけです。

 一方、赤塚は、正真正銘の貧乏作家でした。出版社には前借に継ぐ前借の繰り返しで、原稿を仕上げても、借金との棒引きで、原稿料は貰えず、また前借するという有様でした。売れっ子の石森のお手伝いをするついでにご相伴にあずかることで、かろうじて食いつないでいたと言います。

 そんな状態がいつまでも続き、先の見込みも全くなく、さすがの赤塚も、この仕事に見切りをつける決心をし、喫茶店のボーイに転職するため視察に行ったりしています。

 ある時、マンガ家を辞めることをトキワ荘の兄貴分である寺田ヒロオに報告しに行ったところ、当座のお金を工面してくれた上に、具体的なアドバイスをいろいろしてもらったというエピソードが残っています。

 このときのテラさんの温かい一言がなければ、赤塚不二夫のマンガ家人生はここで終わっていたでしょう。そうなれば戦後マンガ史は大きく書き換えられることになります<2>。

 逆に言えば、この時代に消えていった無数のマンガ家予備軍の中には、歴史に名を残すほどの金の卵がいたかもしれないことを意味します。ほんのちょっとしたことで幸運をつかめたかどうかの違いはまさに紙一重。これが人の世の残酷な真相です。

 

■ついに人気爆発

 

 そんなあるとき、赤塚の元に今までとはちょっと違った内容の注文が舞い込みます。依頼の主は秋田書店の壁村耐三。そう、『ブラック・ジャック創作秘話』(秋田書店)を読んだ方ならご存知でしょう。70年代初頭、ほとんど死に体だった手塚治虫を救いだし、起死回生のヒットを飛ばさせた伝説の名編集者です。

 壁村の依頼は「ユーモアマンガを」というものでした。

 実は最初に壁村が依頼した相手は石森でした。仕事が手一杯だった石森は隣室の赤塚を呼び出します。お笑いマンガならこいつの方が適任だという石森の太鼓判を信用した壁村は、あらためて赤塚に依頼することにします。突然、雑誌に穴が開いてしまった代原の依頼だったため、時間はありません。いつも筆が遅い赤塚でしたが、このときばかりは二つ返事で引き受け、電光石火の早業で原稿を仕上げてしまいます。その作品こそが「ナマちゃん」(1958年)でした。

(赤塚不二夫『ナマちゃん』②曙出版)

 

 この作品で赤塚不二夫は、初めてと言っていい大反響を得ます。こうして赤塚は遅まきながら、自分の中に眠っていた大鉱脈を発掘することになったのです。

 その後は一気呵成でした。「ナマちゃん」の反響はすこぶるよく、ただちに連載化が決定します。

 こうしてギャグマンガ家として再スタートした赤塚は、1962年、ついに少年週刊誌に進出。それがあの「おそ松くん」でした。

 掲載誌の「少年サンデー」は、前年に連載が始まった横山光輝「伊賀の影丸」に加え、「おそ松くん」の大ヒットにより飛躍的に部数を伸ばすことになります。1959年の創刊以来、熾烈なデッドヒートを繰り広げていたライバル誌「少年マガジン」に大きく水をあけることになるのです(劇画導入路線が功を奏し、「少年マガジン」黄金期が始まるのは、もう少し先の話です)。

 

■プロダクション方式の導入

 

 こうして、売れっ子になった赤塚は、仕事をじゃんじゃん入れていくようになります。個人で制作するキャパをはるかに越えてしまった赤塚は、集団制作方式を導入。

 マンガ好きの人なら、集団制作と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、さいとう・たかをの名前ではないでしょうか。しかし実は、さいとう先生に負けず劣らず、最も早い時期に、徹底した分業システムを構築したのが、誰あろう赤塚不二夫なのです。

 ギャグマンガという、最も個人的な資質とセンスが問われるジャンルにおいて分業制を導入し、それでいて極めて高い水準の作品を仕上げていった赤塚先生の腕前は驚嘆すべきものです。

 赤塚マンガの高いクオリティーを保証していたのは、長谷邦夫<3>と古谷三敏(のち「ダメおやじ」「寄席芸人伝」「減点パパ」で売れっ子に)という、凄腕のブレーンの存在でした。作品構想は、赤塚を含めた三人のアイディア会議で作りあげていったといいます。のちには、北見けんいち(のち「釣りバカ日誌」でブレイク)なども、有能なブレーンとして頭角を現してきました。キャラ造形は高井研一郎(のちに「総務部総務課山口六平太」)が得意としていました。

 とりわけ、大きかったのは長谷邦夫という、きわめて有能なブレーンが存在していたことです。赤塚と長谷は、お互いのデビュー前からの盟友でしたが、やがて赤塚が人気作家となると、フジオプロのスタッフとして、アイディア会議に関わることになります。

 長谷は、彼の著した単独名義の作品からもわかるように、非常にアヴァンギャルドなスタイルの作家で、また、筒井康隆の大ファンでもあることから、赤塚の数々の実験的ギャグのいくつかは、長谷の発案ではないかと推測されます。彼は夏目房之介や田中圭一を、はるかに遡る模写マンガの先駆者でもありました。

 ちなみに、すでに当欄でご紹介した山本直樹先生は、子どもの頃、赤塚不二夫を読んでいて、長谷邦夫が代筆した回はわかったといいます。さすがですね。

(長谷邦夫『漫画に愛を叫んだ男たち』清流出版)

裏トキワ荘史とも言われる長谷の名著

 

■やりきってしまった赤塚

 

「バカボン」後期の、振り切った実験ギャグの数々は前回紹介した通りですが<4>、赤塚不二夫のこうした実験精神は、後年になるにつれ、どんどんエスカレートしていくことになります。「レッツラゴン」(1971~74)の頃になると、さすがに読者もついていけなくなり、人気も下降していきました。

 1980年の作品「キャスター」では人肉食をギャグにしたため、掲載誌の回収騒ぎを起こしています。なにしろ、人肉サシ、お尻ランチ、ヘソの緒ヌードル、脳ミソどんぶり、胎児ピザ、赤ちゃんの丸焼きの実演に心臓の踊り食いまで出てくるのですから、さすがに笑えません(坂茂樹『封印漫画大全』鉄人社)。

 ギャグマンガの世界では、すでに山上たつひこ旋風が吹き荒れている頃でした(山上たつひこもLEGEND50の一人。いずれ取り上げます)。赤塚の実験的ギャグの作風は、時代の趨勢から微妙な齟齬を見せるようになっていたのです。

 しだいに赤塚は過酷な制作現場から逃げるようにアルコールにおぼれるようになっていきます。70年代の後半ごろから酒量がかなり増えていたようですが、80年代に入ると、ほぼアル中状態だったようです。仕事への情熱も失っていき、作品も次第に精彩を欠いていくようになりました。そんな中でも、「ゴドーを待ちながら」にインスパイアされた「松尾馬蕉」(1981年)など異色作を残しています。

 

 ひと頃は、マスコミにも頻繁に顔を出し、作品のみならず、ご本人自らがパフォーマーとなってファンを喜ばせていた赤塚先生も、次第にメディアから姿を消し、最後の十数年は、ほとんど病院暮らしだったようです。そして2008年8月、ひっそりと息を引き取りました。葬儀の際の、タモリによる勧進帳パフォーマンスが、ちょっとした話題になっていましたね。

 

 没後も赤塚マンガの人気は根強く、最近では大胆なリメイク作「おそ松さん」が話題になりました。赤塚キャラが、いかに略図的原型としての普遍的な力を持っているかを証明するものです。

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>「ゲンコウオクルニオヨバズ」事件

『まんが道』にも出てくる有名なエピソード。1955年の正月休みに帰省した二人は、デビュー以来の緊張の糸がぷっつり途切れてしまい、仕事が全く手につかなくなってしまいます。その結果、9本の依頼原稿のうち6本を落としてしまうという大失態を演じてしまったのです。以後、二人は一年以上、仕事を干されてしまい、さらに数年間は短編や企画ものの仕事しか来なくなります。普通なら作家生命を絶たれてもおかしくない状況でしたが、ここから藤子不二雄は不死鳥のようによみがえるのです。それには、二人であったことが大きな要因であったと言います。一人だったら、とっくに諦めて郷里に帰っていたとはA先生の述懐です。藤子不二雄と言えば締め切りを厳格に守ることで有名でしたが、若き日のこの苦い体験がよほどこたえたのでしょう。

 

<2>テラさんの温かい一言

この辺りのエピソードを描いた美しい物語「トキワ荘物語」(赤塚不二夫)は、『COM傑作選 下1970~1971』(ちくま文庫)で読むことができます。

 

<3>長谷邦夫は、多彩な趣味人で、いろいろな顔を持っています。もともと石森章太郎「墨汁一滴」の同人であった関係で、石森・赤塚とはデビュー前から交友がありました。また日本にほとんどSFがなかった頃からのSFマニアであったことから「宇宙塵」草創期からのメンバーでもあります。さらに現代詩にも通じていて、白石かずこなどの所属していた現代詩サークルにも出入りしていました。またジャズマニアでもあった長谷は、新進気鋭のジャズピアニストだった山下洋輔とも、はやくから親交があり、彼のつてで、赤塚は山下と親しくなり、タモリのデビューへとつながっていくのです。

 

<4>実験ギャグの数々

その一部は『赤塚不二夫実験マンガ集』(Pヴァイン)で読むことができます。また、「赤塚漫画のウルトラレアトラックス集!ミュージシャンで言うところのレアシングル、Bサイド、セッションテープ、はたまたデモ音源」(by石野卓球)という『赤塚不二夫のだめマンガ』(ちくま文庫)というのもあります。

 

LEGEND19赤塚不二夫①

LEGEND19赤塚不二夫②

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:赤塚不二夫監修『まんが入門』小学館

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赤塚不二夫①「ギャグ」の誕生【マンガのスコア LEGEND19】 https://edist.ne.jp/dust/manga19_akatsuka01/ https://edist.ne.jp/dust/manga19_akatsuka01/#respond Wed, 09 Dec 2020 01:33:42 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=16928  これはもういつのことだったのか全然覚えていないのですが、少なくとも四半世紀以上前の話です。あるときテレビを見ていたら漫才をやっていた。今どき、若い人が漫才をやるなんて珍しいなと思いながらぼんやり眺めてたら、これがもう信 […]

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 これはもういつのことだったのか全然覚えていないのですが、少なくとも四半世紀以上前の話です。あるときテレビを見ていたら漫才をやっていた。今どき、若い人が漫才をやるなんて珍しいなと思いながらぼんやり眺めてたら、これがもう信じられないぐらい面白いのです。今まで見たこともない種類のギャグの連打と、絶妙な応酬に、心底驚いてしまいました。こいつら、いったい何者?

 それがあの、ダウンタウンの初期ネタ「クイズ何でしょう?」を見たときの感想でした。

 

 ダウンタウンの初期の映像は、たぶんネットを探せば今でも簡単に見ることができるでしょう。今の若い人たちが、なんの予備知識もなく、それらの映像を見てみたら、たぶんヌルい漫才にしか見えないはずです。これがあの、芸人達が揃いも揃って神様のようにリスペクトする松本人志の笑い?そんなに大したことないんじゃないの?と思うんじゃないでしょうか。

 

 笑いは基本的にナマ物です。落語のように息の長い笑いもないことはないですが、リアルタイムで受容した者にしかわからない笑いというものがあります。革新的な笑いであればあるほど、鮮度が落ちるのも早いのですね。後続の者たちが、どんどん模倣してブラッシュアップしていくので、当初のインパクトは、だんだん体感できにくくなっていきます。

 

 ギャグマンガにも同じことが言えます。

 ストーリーマンガも、どんどん古くなってはいくのですが、読み手側が意識を補正すれば、読めないことはありません。しかし、古いギャグマンガは往々にして”単純に退屈”です。

 今の人が赤塚不二夫のマンガを読んで、「つまらなくはないけど、そんなに凄いかなあ」と思ってしまうのは、ある面で仕方のないことかもしれません。

 

 しかし、私はここであらためて強調したいのですが、ギャグマンガの歴史において、真に革新者として指を屈すべき人物は、やはり赤塚不二夫をおいてありません。「ギャグマンガの王様」という称号は、伊達についているわけではないのです。

 

 むろん、そう書いている私自身、リアルタイムで体験しているわけではないので、エラソーなことは言えないのですが、赤塚の、最初の大ヒット作となった「おそ松くん」(1962~69)が、いかに衝撃的なものであったかは、同時代の読者の多くが証言するところです。

 今回は、その「おそ松くん」から模写することにしてみましょう。

赤塚不二夫「おそ松くん」模写

(出典:赤塚不二夫『おそ松くんベスト・セレクション』筑摩書房)

 

 意外と描くの大変でした。一ページあたりの密度が思っていたより高いですね。

 コマ数や、コマあたりの人物の数が多く、とにかく全体的にぎっしり詰まっている感じです。赤塚不二夫って、なんとなくスカスカっていうイメージがあったんですが、少なくとも「おそ松くん」あたりはギチギチですね。特に六つ子が出てくると、やたら【人口密度】が高くなるのは避けられません。そして、ほとんどが【ロングショット】で、どの人物も頭の先からつま先まできっちり描き込まれています。

【背景】はかなり簡略化されていますが、ポイントポイントできっちり描き込まれているのには感心します。今回はできるだけラクそうなページはないかと探した結果がこのページでした。チビ太&イヤミのゴールデンコンビによる脱獄ものです。赤塚不二夫の映画好きの一端がうかがえる一篇ですね。

 

 赤塚マンガは、とにかくサブキャラクターが魅力的で、しばしば主役を食ってしまうのですが、「おそ松くん」でいえば、チビ太とイヤミが異彩を放っています。

 とりわけ、おフランス帰り(自称)のイヤミのやる「シェー」というポーズは、当時大流行しました。あの頃の写真を見ると、子どもたちがみんなシェーのポーズを取っているんですよね。子どもたちばかりか、来日したジョン・レノン、長嶋茂雄、「怪獣大戦争」のゴジラ、はては御幼少のみぎりの浩宮徳仁親王(現天皇陛下)までがシェーのポーズをお取りあそばされています。それぐらい、あのギャグはインパクトがあったのですね。今から見ると何がそんなに…と思われるかもしれませんが。

 

■「ギャグ」マンガのはじまり

 

 赤塚マンガが革新的だったのは、マンガに「ギャグ」を持ち込んだことです。

 いまでこそ、笑いを主題としたマンガを総称して「ギャグマンガ」と言いますが、赤塚以前は、「ユーモアマンガ」「おもしろマンガ」「こっけいマンガ」などと呼ばれていました<1>。

「ギャグ」とは本来、演劇などで、本筋の間に差し挟まれる場当り的なしぐさやセリフのことを意味します。赤塚マンガにはこれがあったのです。

 赤塚以前のユーモアマンガは、落語的なくすぐり、地口やダジャレ、日常の中での珍騒動や失敗譚などを描いたものでした。すべては理に落ちたものだったのです。そこへ赤塚は、全体の文脈から切り離された部分の拡大、不条理性、様式性からの逸脱、日常性の無視などを特徴とする、断片的で、爆発的な笑いを導入していきました。

 編集的に言えば「文脈依存」から「文脈自由」への大転換を行ったのが赤塚不二夫でした。いわば、赤塚不二夫が成し遂げたのは、笑いのルールや文法の根幹を書き換えるほどの大革命だったのです。

 まさに、イヤミのやる「シェー」は、文脈を離れて、それだけで独立して面白かったのですね。

 

■ふりきった実験ギャグ

赤塚不二夫『赤塚不二夫実験マンガ集』Pヴァイン)

 

 全共闘世代のヒーローといえば、なんといっても白土三平ですが、彼らが、白土と同じぐらいの熱量を持って愛読していたのが赤塚不二夫でした。赤塚マンガの繰り出す破壊的なギャグの数々は、真に革命的なものとして、学生達に断固支持されていたのです。当時の立て看板にはニャロメやイヤミなどの赤塚キャラが好んで使われ、東大全共闘の中には、ノンセクトラジカル・ニャロメ派なるものまで存在していたと言われています。

 60年代末という時代層のもと、赤塚マンガは、若者たちの支持するロック、ニューシネマ、アングラ演劇などと同質のカウンターカルチャーだったんですね。

 

 とくに1967年から「少年マガジン」誌上で連載が始まった「天才バカボン」はアニメ化の影響もあり大ヒット。途中、「サンデー」との移籍騒動などもありましたが、順調にファンを増やしていきました。

 とりわけ「バカボン」の後期は、実験ギャグの針が振り切っていて、今でも語り草になるメチャクチャな作品が数多くあります。

 冒頭2ページ見開きで「バカボン!」と叫ぶパパのアップに「なあに、パパ?」と言うバカボンの2ページ見開きアップが続く「等身大マンガ」をはじめとして、劇画風バカボン、左手で描いたマンガ、足で描いたマンガ、コマ割りシャッフルマンガ、「読みやすいマンガ」と称して何ページも空白のコマが続くマンガ、フキダシの中に絵を描き、フキダシの外に字を書いた逆転マンガ、作者がめんどくさがって、ところどころネームだけのマンガ、夏痩せのため、キャラの身体が線になってしまうマンガ等々、メタフィクショナルな実験マンガを次々と連打するようになります。

 もはや向かうところ敵なしといった勢いで、徹底的にやりきるところまでやりきったのです。

 

 さて、次回は赤塚不二夫が、いかにして、このような特異な作家になっていったのかを見ていきたいと思います。

 

◆◇◆赤塚不二夫のhoriスコア◆◇◆

 

【人口密度】64hori

六つ子の顔はコピーを使っていたとよく言われていますが、本当だったんでしょうか。当時はコピーは今ほど簡単ではなかったとは思いますが。

 

【ロングショット】69hori

常に人物の全身をきちんと描くタイプのマンガって、もうほとんど見なくなりました。吾妻ひでお先生が最後までそうでしたね。

 

【背景】48hori

バカボン後期になると、だいぶスカスカになってきます。背景の建物を一本のラインで済ますことも多かった。このラクな描き方は、子どもの頃、よくマネしたなあ。

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>「ギャグマンガ」という呼称が、いつ頃、どのように使われ出したかについては、近年のマンガ史研究の進展によって、細かいことまで、わかってきているようです。詳しいことは斎藤信彦『マンガの遺伝子』(講談社現代新書)第三章をご覧ください。

 

LEGEND19赤塚不二夫①

LEGEND19赤塚不二夫②

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:赤塚不二夫『おそ松くん全集』④曙出版

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最近のマンガ家さんは、プロアマ問わず、みんな絵がうまいですよね。昔は、けっこう画力に関してはプロの世界でもユルかったような気がするのですが…。

ことにギャグマンガなどは、一昔前まで壊滅的なデッサンのマンガが、平気でメジャー誌に掲載されていました。

「これぐらいならボクでも描ける!」と、全国の青少年に勇気を与えたものです。

やがて山上たつひこや鴨川つばめなど、絵の上手いギャグマンガ家が業界に脅威を与え始め、さらに江口寿史の画力急上昇と、鳥山明の登場が決定打となり、大手少年誌から下手な絵のギャグマンガが一掃されてしまいました。

 

とりわけ驚異的だったのが鳥山明の出現です。

当時、アメコミからの影響を盛んに取りざたされていましたが、ご本人によるとアメコミはほとんど読んだことがないとか。

それにしても、あの画力は、いったいどこから出てきたのか不思議でなりません。

今回、そんな天才絵師、鳥山明の絵を模写しなくてはならないという仕儀となってしまったわけですが、とにかく、いろいろごまかしながら、なんとか似た感じになればと思います。

 

鳥山明「Dr.スランプ」模写

(出典:鳥山明『Dr.スランプ』①集英社)

 

いやあ、冷や汗ものですね。アラレちゃんが、あんまりアラレちゃんになりませんでした(笑)

ひとつ言い訳をしておくと、出典は第一巻の第二話で、オリジナルの方も、まだちょっと大人っぽいアラレちゃんなのです。

それにしても、鳥山明の絵は、一見シンプルに見えて、よく見るとマニアックなほどに細かいディテールがびっしり描き込まれていることに驚かされます。一例としてよく言われるのは、奥歯の裂溝の描き込みですね。こういう、なかなか誰も気づかないところに、もの凄く神経を使っているのが鳥山明です。それでいて全体として、とてもすっきりしたシンプルな印象を与えるのは、ひとえに尋常でない画力のたまものでしょう。今回はその辺は適当にごまかして描きました。ちゃんと模写しようとすると、たぶんぐちゃぐちゃの悲惨な絵になっていたと思います。

 

鳥山明は、デビュー時から、すでに完璧な画力を身につけていて、これ以上何も付け足すものはないほどでした。むしろハイブロウすぎる絵のセンスを、少し落としてやる必要があったほどです。

実際、鳥山明のバタ臭すぎる絵は、当時の子どもには少し敷居が高かったのですが、有無を言わせぬ面白さで、その壁はなんなく突破されてしまいました。絵だけではなく、セリフ回しのセンスも抜群で、オノマトペの使い方も当時としては革新的でした。

とにかく、あらゆる面でセンスが良すぎたのですが、その反面ギャグのセンスは童心そのものであり、当時のギャグマンガに見られる青年らしい韜晦などかけらもなかったことも特徴的です。

 

ただ、これは革新的なギャグマンガには往々にして見られることなのですが、インパクトが強いぶん、飽きられるのも早かったのですね。

『Drスランプ』はアニメ化をきっかけに爆発的なブームを巻き起こすのですが、その寿命は数年ほどで終わってしまいます。単行本の第一巻は、まさに“神巻”という名にふさわしいものですが、その後じりじりと質と鮮度を落としていきました。一定の水準を維持しつつも、最初の数巻のような神がかった面白さがなくなってしまい、なんだかさみしく思った記憶があります。そして連載終了間際の鳥山明には、すでに、なんとなく「終わった作家」感が漂っていました。

しかし、そんな鳥山明は、その後、不死鳥の如くよみがえってきます。それはみなさんご存じのあの作品のことです。

 

アイキャッチ画像:鳥山明『Dr.スランプ』④(集英社)

 

マンガのスコア LEGEND03鳥山明①画力スカウター無限大

マンガのスコア LEGEND03鳥山明②たくさんの「わたし」

 

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