図解 – 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp Fri, 14 Mar 2025 11:49:06 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.1 https://edist.ne.jp/wp-content/uploads/2019/09/cropped-icon-512x512-32x32.png 図解 – 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp 32 32 185116051 萌えよ!ヴィジュアル・アナロジー 53[破]五十三次道連れアート展レポート https://edist.ne.jp/post/53ha_visual_analogy/ https://edist.ne.jp/post/53ha_visual_analogy/#respond Fri, 14 Mar 2025 03:00:08 +0000 https://edist.ne.jp/?p=82781  自分史をビジュアル化し、一枚のグラフィック・アートにする――クロニクル編集術の「全然アートなわたし」は、突破要件に入らぬ番外稽古ながら、[破]の講座で学んだ方法を味わい尽くせる格別なお題だ。感門之盟を一週間後に控えた3月1日、このお題に回答した53[破]の学衆と講評を担当する指導陣、そして旅めくワールドモデルに誘われた道づれチャット衆の総勢24名が、オンラインの画面上で一同に会した。

 

 [破]で挑む自分史は[守]の編集稽古010番「たくさんのわたし」の進化版だ。人は生まれ落ちるや、いくつもの場所を渡り歩く。仲間や仕事、趣味や書物と出会い、身も心も変化させていく。ときに苛烈な個となり、またときには同時代を生きる人々の類型にもなる。動き続ける複雑なその風姿を、いかにして二次元の画面にピン止めしたのか。別院企画「五十三次道連れアート展」にエントリーした参加者は、おのおの90秒の持ち時間で、グラフィック制作のプロセスを語っていった。

 

 声文字X教室学衆の後藤有一郎さんは、締め切りが一日延びたと知り休日を利用してお題に取り組んだ。年齢と同じ数だけの同心円を、少しずつずらしながらフリーハンドで描き、樹木の年輪に見立ててクロニクルの地とした。しかしその緻密すぎる出来映えに、自筆の図だと気づく者は少なかった。師範代には等高線かと問われ、がっかりしたという。しかし白川雅敏番匠は「等高線に見えたのは周辺に配置した写真からの連想だろう。でもそんな偶然こそ生かすといい」と面白がる。プロのグラフィック・デザイナーである野嶋真帆評匠も、「異なる種類のオーダーを共存させられるのがビジュアルの醍醐味。いっそ“等高線年輪”のように、今までにない言葉を作ってもいいのでは?」と評し、相似律のいたずらに揺れる後藤の歴史的現在を、スパッと伐った。

 

 自動車メーカーに勤める、なんでもデコトラ教室学衆の小名国仁さんは、メリハリのある画面構成が得意手だ。月なるものに向かって飛び上がるイメージを、宇宙の世界観で表現した。映画のようなタイトル、特徴あるフォントに講評陣から質問が寄せられると、ガンダムやエヴァンゲリオンへのミクロな数寄がこぼれた。野嶋評匠は、並んだ歴象を導く矢印に目をとめ、「記号を使わず、パーツの遠近感で方向を表現する方法もある」と、読み手の推感を知覚的にマネージするコツを伝授した。

 


 無限大、はらぺこあおむし、文鎮といった寓意性のあるモデルで未来へ向かう躍動感を型抜きした作品もあれば、生成AIとの対話的創造という方法に、ひたむきな半生をパッケージした作品もある。触発ボタニカル教室の中野恵介さん、アガサ・フィーカ教室の須永修枝さん、潮目ディナジー教室の家村吏慧子さん、世界にダブルページ教室の登田一穂さんだ。戸田由香番匠が無限大のマークからストレンジ・アトラクターを連想すれば、小林奈緒師範はエリック・カールの絵本のストーリーを紐解く。北原ひでお評匠はナミブ砂漠と文鎮の鉄つながりを発見し、白川番匠はAI画像の一隅にレッド・ツェッペリンの歌詞を読みとった。


 プロ顔負けのアート作品としてひときわ目を引いたのは、こちらの二作品。アガサ・フィーカ教室のグッビニ由香理さんは、『星の王子さま』の世界観をベースに、水彩で着色したパーツと写真をコラージュした。やわらかな質感をもった絵の具の滲みは、中尾行宏師範に、幼心にかける幻の電話を思い出させる。同じくアガサ・フィーカ教室の前嶋敦子さんは、マーブリングの手法を用いてクロニクルのベースを作成。あらわれた偶然の形をもとに自分史の記憶を呼び起こし、鳥やピザ、そして青島の地にそそり立つ反日のモニュメントを描き込んだ。「正直、年表としてはよくわからない。でも我が家の壁に飾っておきたいくらい素敵」と戸田番匠は声を潤ませる。


 最後は四賞の発表である。特に評価の高かった作品には、中国の伝統的な書画鑑賞の基準「神品・妙品・能品」に肖り、「神撥賞・妙畔賞・能弧賞」と名づけた作品賞が贈られた。合わせた漢字は、いずれも感門之盟のテーマである「橋」にちなんでいる。このほか、一般的な評価の基準からは外れるものの、動かしがたい魅力を秘めた別格の作品に「逸橋賞」が贈られた。

 

 

   ◆神撥賞:板垣美玲さん
        (なんでもデコトラ教室)

   ◆妙畔賞:グッビニ由香理さん
        (アガサ・フィーカ教室)

   ◆能弧賞:後藤有一郎さん
        (声文字X教室)

   ◆逸橋賞:前嶋敦子さん
        (アガサ・フィーカ教室)

 

                      


 神気みなぎる色彩感覚・撥ね橋のようにメカニックな構成力で見事「神撥賞」に輝いたのは、なんでもデコトラ教室の板垣美玲さんの作品。キーイヤーを平成16年としたのは、自分の中に沸々とたぎる数寄パワーを発見した年だからだ。その力強さは、まるで醸成されるマグマのようだったという。イシス編集学校に入門した2024年、それらは「プロレス・猫・芭蕉」の三位一体として大爆発。飛び散った火の粉が、知らず知らず出会ってきた、けれども確実に現在の自分を形作っているたくさんの数寄に気づかせてくれた。野嶋評匠は「板垣さんが肖った双六というモデルは、流れと区切りの両方をもっている。これがメッセージを運ぶ文脈・分節になり、とても読みやすい年表になった。火山の爆発にもいろいろな段階があるので、全体が物語のようですね」と絶賛した。

 

 図解は、松岡校長が特に大切にしていた方法の一つである。編集学校が開校した2000年当初は、通信技術の遅れからインターネット上の稽古に取り入れることは難しかったが、今や機は充分に熟したといえよう。新たな歴史的世界観の地平を拓くのは、テキスト解釈とイメージ解釈とが共根的に一緒に進む「グラフィック・エディティングな複合知」だ。一途で多様な花を咲かせつつ進化を続ける[破]学衆のグラフィック術に、原田淳子学匠も「人の印象に深く刻まれる、他にはない自己紹介の方法を手にしたみなさんは誇りを持ってほしい」と目を細めた。作り手と読み手の絶え間ない交歓はチャット欄にもあふれ、あっという間に二時間が経過。ほくほくとした熱気のうちにアート展はお開きとなった。

 

文:吉田麻子(53[破]師範)

 

すべての作品には、江戸時代の小料理一品と千夜千冊エディションをセットにした写真が、師範の吉田麻子から贈られた。料理のレシピは、江戸時代研究家である杉浦日向子さんのエッセイ『一日江戸人』を参考にしている。それぞれどの作品と対応するか、推理してみてほしい。

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41[花]過去のことばを食べたい 『ことば漬』要約図解お題 https://edist.ne.jp/post/41hana_kakonokotoba/ https://edist.ne.jp/post/41hana_kakonokotoba/#respond Thu, 15 Aug 2024 23:00:45 +0000 https://edist.ne.jp/?p=74381  飴はアメちゃん、茄子はなすび、お味噌汁はおつい。おさない頃はそんなふうに言っていた。方言の音色に出会うとドロップのように口にして、舌でころがしたくなる。とくに、秋田民話をもとにした松谷みよ子さんの『茂吉のねこ』は、どの文を暗唱してもすてきだった。

 

なんちのりぎょに けいとくじ
さいちくりんの いちがんけい
とうやのばずに ていていこぼし
ふるみのふるがさふるつづら
あっちゃぶんぐら
こっちゃぶんぐら
どんどんどん

 

 通じるような、通じないようなことばが、面白かったのだろう。
 
 だが高校に入ると、通じることばだけが欲しくなった。社会に出たら、インターネット検索で勝てる言葉に夢中になった。じきに日本語の誤使用にびくびくするようになって、ことば遊びをするような気分とはお別れしてしまった。
 そんな生きざまから、たくさんのことばがこぼれ落ちて失われていったのだと思う。

 私は2年前に、ISIS編集学校に入門した。「守」「破」「遊」のお題に回答し、その回答に指南がくるという日々をとおして、消えたおさな心やことばの音色の一つひとつを拾い直している。
 最近は、回答を指南する師範代の養成所、ISIS花伝所の41期を修了したばかりだ。その間際のこと、松岡正剛校長の『ことば漬』を読んで要約図解を手描きするお題が出された。

 

 師範代の学びの面白さは、編集術をつかったことばの交わし合いにある。人と人とのあいだで起こることばの相互作用を編集工学的にみつめ、テキスト上で互いに発見的に語り合う方法を集中的にならう。

 

 だから、『ことば漬』要約図解のお題も、「語り合うための字と絵」であることが肝心となる。方法はいろいろあり、通じることばも通じないことばもつかってよい。花のつぼみのような秘めた語りも、しろがねの剣のような丁々発止の語りも歓迎される。ここでは、知識の多少や絵図の巧拙はとわれない。その絶対自由があるからこそ、類推や仮説に富んだことば遊び・絵あそびが広がっていく。

 

 実際、ISIS花伝所の修了式で披露された要約図解は25人25色だった。多彩なじいじいもんもん(字字紋紋)を共読して編集的に語り合うという、楽しい時間を味わうことができた。
 ここからは、私の回答をチラリとお見せしたい。

 

■松岡正剛 千夜千冊エディション『ことば漬』角川ソフィア文庫
『ことば漬』には、ことばの背景や日本語の感覚をめぐる40本の千夜千冊が再編集されている。松岡正剛の魅力的なことばの源郷、思考や編集のプロセス、編集工学の原点となった著者や本の案内が語呂合わせのように組み合わさっていて、ことばを扱う人の必読書だ。

 

 本書のなかでも、小池清治『日本語はいかにつくられたか?』の千夜は、私のなかでかたりことりと揺れ続けている。たとえばこの文章。

 

言葉は文字をともなって生まれたのではなく、あとからできあがった文字表現システムが過去の言葉を”食べていった”のだ。
その文字表現システムは集団やコミュニティではなく、文明のエンジンや文化の陶冶がつくりだした。
『ことば漬』p192より

 

 これはつまり……。過去の言葉を”食べる”ことをサボっていると、いまの文字表現システムが色褪せて、それをつくりだした文明や文化もなかったことになっていく、と読むことができるのではないか。

 読後の私は、いつのまにか清少納言の食べた削り氷と向かい合っていた。その氷山のような言語資源が、目の前でぽたぽたと溶けてなくなってしまうようなイメージを抱き、背筋が寒くなったのだ。

 

■タイトル:「古食語(コクゴ)ぶそくに『ことば漬』」
図解で擬いた作品:清少納言『枕草子』(995〜1004年頃)、作者未詳『宇津保物語』(970〜999年頃)、作者未詳『栄花物語』(1028〜1037年頃)、M.C.エッシャー『Day and Night』(1938年)。

 

 この図解に託したのは、同時代に生きるよりも古いことばを探訪し、古典文芸や古語をもっと食んでいこう、という気持ちだ。

 世界の言語史からみても、日本人が奈良と平安の時代に、漢字(表意文字)から仮名(表音文字)をつくったことは画期的だった。
 漢文で書かれた『日本書紀』(720年)から漢字仮名まじり表記の『古今和歌集』(905年)への歴史的変遷があったために、日本語は「をかし」「すさび」「もののあはれ」「はかなし」「いろごのみ」といった感性表現をウマミとするようになった。

 また、いまのような日本語の発音の仕組みができた歴史的次元の奥には、空海がいる。読経する中世の真言宗の僧たちによって、「五十音図」や「いろは歌」がつくられたというのもなかなかだった。

 

日本文化の解読にはボーカリゼーションの変遷を見ることが欠かせない。日本文化にはたえず「声」が響いていたのである。
『ことば漬』p232より

 

 だからあんなにも、ことばの音色や音読に魅せられたこどもだったのかもしれない。
 私は『ことば漬』によって、日本文化の「声」と数十年ぶりの再会を果たしたのだ。もう誤使用をおそれずに、ことばに遊び、そっと口にしたり書いたり描いたりしていこうと思う。
 
 『ことば漬』は、あまづら(甘葛)のような本だ。
 読めば、食べ慣れない古典や古語をおやつ感覚でつまめるようになるし、和歌や俳句の日本的文芸術にも分け入ってみたくなる。
 ぜひ多くの人に”食べて”いただきたい。

 

文 細井あや(41花放伝生)

アイキャッチ 中村裕美(錬成師範)

 

 

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花伝師範が見通す52[守]の共振力、汁講見聞録 https://edist.ne.jp/post/52syu_shiruko_kaden/ Sat, 17 Feb 2024 23:07:14 +0000 https://edist.ne.jp/?p=67531

▼怒涛の卒門から約一か月前、一月十四日の見聞録である。52[守]の合同汁講が開催された土曜日、全9教室から学衆や師範代、[守]指導陣にマレビト花伝師範らも連なって総勢46名が本楼に参集した。師範ロールの醍醐味は、フェーズの異なる講座に顔を出したり、編集学校のいまを横断的に俯瞰できること。何をおいても花伝所から送り出した師範代の勇姿に立ち会う愉しみがある。

 

▼豪徳寺にある「本楼」は本の楼閣を象徴したものでワークに没入するには格好の場所となる。同日汁講が9つも折り重なって本というメディアを貪る一日。三部に分かれた寄合のハコビ・つながり・ダンドリは、独特の空間構成と汁講コンテンツを活かすべく周到にコーディネーションされていた。師範代らはホストとして次第のプランニングから、当日のリハーサルまで念入りだ。編集学校の師範代になると教室のほかにも、勧学会や汁講といった別の場を仕切り、企画発案したり調整するスキルも身に着くよう出来ている。この日は[破]のプログラムで培う、ハイパーミュージアムの構想力が充分に活かされた。

 

▼冒頭「用法4の大海原へ~」と激励する鈴木康代[守]学匠から、次に進むべき[破]を見通したメッセージが込められた。大航海の先に何があるのか。モードチェンジは用法4後半の、お題の変調ぶりにもみてとれる。アウトプットが圧倒的に増えることも勘のいい学衆ならピンと来ただろう。[守]を終えて、まだまだ物足りないと感じたら、それは進破のサインだと受けとってほしい。

 

花伝所は師範代を養成するプログラムを提供しているため、自然と観察ブラウザーがはたらき、師範代になっていきそうな学衆のふるまいにもアテンションが向く。ユニークネスや課題意識は、絶好の編集機会だ。早々に進破を決めていた学衆や古典数奇を語るもの、現代演劇のインプロビゼーションに編集思考素をかさねる輩まで、学衆の突出ぶりは好機に映る。夫婦受講で編集力を磨き喫緊のプロジェクト実装に活かしたいという、快活な学衆はすでに師範代オーラが漂っていた。前のめりな姿には感染力が宿り、まわりも熱くする。

 

 

▼子どもの教育や新しいプラットフォームに焦点をあてる学衆が少なくないことも特筆だ。スパンの長い子育ても、不確実な世の中を生きることにも、編集力が効く。「すぐに答えを出さないこと」、「わからないことをわからないまま包摂する」ケイパビリティが必要だからだ。共感できそうにないことに耳を傾けたり、違和感も異質も、編集契機として多様性を受容するきっかけになるだろう。共振する場こそ、学びの種が詰まっている。学校といえば、参加者の間で軽井沢にある風越学園がにわかに話題にのぼっていた。

 


 

▼かわるがわる本棚の説明をする師範代たちのふるまいは従容で、緊張しつつも誇らしげで、それぞれの顔に喜色が滲んでいた。はじき・おはじき教室/野崎和彦師範代は、テンポよい軽快な場回しで終始和やかに対話を促す。傍で見守る小椋加奈子師範は師範代から錬成師範、そして今期52[守]の師範へと次々ロールチェンジし、チーム師範のふるまいでその先を照らす。学衆だけでなく、自らも敢えて変化に向かっていくのが編集学校の特色だ。この日の客人はかつての45[守]師範を担当し、今期40[花]むらさき道場から嶋本昌子花伝師範も見守った。一期一会のあとさきには、かならず再会が待ち受ける。

 

 

▼昼すぎに始まった4教室合同のワークショップの目玉といえば、”跳躍52[守](Go To Adventure)3冊トラベル“と題された3冊の本の選択と、そこからキーワードを抽出しネーミングする編集ワークだ。「自分と関係がない本」を選ぶことで、世の中にないものをつくるというお題が投げられた。校長ヴァージョン教室の名を冠した町田有理師範代がこしらえた。図解も指南も「世界制作」の信念からブレないリプリゼンテーションが持ち味だ。この問いは、学衆の頭の中を大いに揺さぶった。

 

 

▼印象深いのは、新しい世界にふれたときの子どものような表情だ。学んだばかりの型を使いお題と偶然を掛け合わせて、想定外のアウトプットをなんとか絞り出す。千離衆から師範代へ着替え、39[花]の花伝所恒例キャンプでは一気呵成の活躍をみせたノート結索教室/大和丈紘師範代は、柔和なナビゲーションで粒揃いの学衆を盛りたてた。

 

▼新しいモノや見方をもたらすには、良好な関係性を築いたり、教室や場での“傾聴力”が武器になる。わずか半年前に39[花]わかくさ道場を放伝し、群を抜くスピード回答で圧倒的な筆力をみせていたカミ・カゲ・イノリ教室/内村放師範代の亭主ぶりも眩しい。難解なことを「教える」のではなく萌芽的に、発見的に手渡す方法に磨きがかかる。

 

 

 

▼濃縮された時間に、本と対話によるインタースコアにいそしむ一日。共振力が随所にあふれる汁講は、あっという間に過ぎていった。変化よりも“変容”をうながす学び。編集学校のプログラムが深遠なのは、視野や視座そのものが変化するからだろう。卒門の[守]から未踏の[破]、そして花伝所へと汁講文化は受け継がれ連環する。ここで宿した種は、それぞれの蕾となっていつか花になるだろう。卒門・突破の先へ、編集に焦がれる学衆を次の門が待ち受ける。

写真/阿久津健(52[守]師範)

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【輪読座】「群盲、”柳田”を撫でる」に陥らぬために(「柳田国男を読む」第四輪) https://edist.ne.jp/just/rindokuza-yanagida07/ https://edist.ne.jp/just/rindokuza-yanagida07/#respond Mon, 26 Jul 2021 02:35:32 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=27502 「何がわかっていないかに触知する」ための図解

 

 今季は図象課題がいつになく難航している。

 

 輪読座では、輪読したテキストや図象解説を一枚に図象化するお題がある。約1ヶ月かけて5時間の講座を1枚にシェーマ化するわけだから、決して容易ではないのだが、これまで毎回10名前後が提出を果たしてきた。ところが、7月25日の第4輪は通常の半数程度の4名に留まった。

 

 そもそも、なぜ図解をするのか。千夜千冊1540夜『想像力を触発する教育』に「何が図示・図解できるかを知ることは、自分に何がわかっていないかに触知できることなのだ」とある。わからないことを知り、知ってるつもりの情報を再編集するには、図解がとびきり有効なのだ。

 

 松岡校長はとりわけ「手描き」をすすめており、同千夜で「PCやスマホではとうてい得られないものがある」と強調している。事実、イシス編集学校の[離]のお題では、「手描き図解」が当たり前のように登場する。

 

「喝破・打破・走破」をキーワードに、即興で図解レクチャーをはじめる松岡校長(44[破]伝習座より)

 

 図解といえば、小倉加奈子[離]析匠も、手描き図解の実践者のひとり。「文章の組み立て方も図解のトライ&エラーもすべて離の稽古の中で叩きこまれてきた」と断言し、著作エディスト上でも図解を日々実践している。

 

 

「群盲、象を撫でる」――柳田を図象する難しさ

 

 バジラ高橋は、柳田を図象する難しさを仏典にある寓話「群盲、象を撫でる」に見立てる。

 

 学者は専門ジャンルしか見ていない。民俗学者なら民俗学、歴史学者なら歴史学、政治学者なら政治学、日本文学者なら日本文学しか研究していない。

 

 これでは「群盲、象を撫でる」ようなもの。象の尻尾を撫でた盲人は「象は細いもの」といい、耳を撫でた者は「うちわのよう」、腹を撫でた者は「壁みたい」というように、細部ばかりにとらわれて、柳田の全体像が見えていない。

 

 戦後社会が日本を忘れた今、柳田の日本の見方を取り戻すこと。これがこの輪読座の果たすべき役割だと思っています。

 

 柳田ならではの難しさに加えて、わたしたちが抱えている「情報認知のクセ」も図解を難しくする理由のひとつだろう。

 

 認知のクセについて、松岡校長は『わたしが情報について語るなら』で、

 

 1.自分が「何を考えたのか」ということと、「何を思い出したか」ということが、しばしばまざってしまうことがとても多い(こと)

 2.わたしたちが一人で知ることや考えることには限界がある(こと)

 3.認識していることと表現していることが、なかなか一致しない(こと)

 

の3点を挙げており、それぞれに対して以下の認知科学的な情報編集を紹介している。

 

1.「おぼえたこと」と「考えること」を分けて考えるといい。

2.一人で知ることや考えることには限界があるので、自分の中に「コーチ」を想像する。

3.「おぼえていくこと」と「表現していくこと」はべつ。この二つを行ったり来たりして考えるといい。

松岡正剛『わたしが情報について語るなら』(ポプラ社)より

 

 この情報編集の実践にあたり「図象化」は最適な方法だろう。

 

 「1.」について、バジラ高橋の輪読座では、「おぼえたこと」の要約だけ評価されない。新たなインプットから自分が「どう考えたか」までを図解に表現ことが求められる。

 

 「2.」で、コーチについて「”理想的な自分”を想像すること」を校長はすすめる。輪読座では「柳田」という強力なコーチとともにシェーマ化していく。

 

 「3.」について、校長は「もともとわたしたちは、情報を記憶していく順番と、思い出していく順番とがちがっている」「(このことは)わたしたちの記憶と思考の特色なので、いろいろ練習すればこの二つが近づいてくれます」とも記している。図解は記憶と思考とのギャップを埋める訓練にもなるだろう。

 

 今回は、「柳田を撫でる群盲」に陥らずに、柳田の見方を編集した2名の図象を紹介する。

 

 

キーワードは「常民の自立」(伊東雄三座衆)

 

 図象作成にあたり「輪読した内容がどのようにつながっているかを考えた」という伊東座衆。「(常民の)自立」をキーワードとして配置すると、「報徳社」「中農」「方言」「餅」といったコンセプトが次々につながっていった。

 

 次にそれぞれのコンセプトをぎゅっと要約編集することで、伊東座衆がとらえた柳田の見方が、さらにクリアになっている。要約編集においても、報徳社の推譲の不足をとらえる柳田の「ないものフィルター」、細農や大農との中農の「照合」、鏡餅の円錐形は心臓を象っているのではという柳田の「仮説」などの方法を軸に表現している。

 

 研究をつづける柳田が着目したのは「平和」。一揆も飢饉もない村はなぜそうなり得たのか。幸せであることを研究してなぜいけないのかと問うた。

 珍しい祭りや甚大な災害や戦争ばかりを研究したがる学者に対して柳田は異を唱えたわけです。(バジラ高橋)

 

 

「周縁」と「中心」とを逆転する(松井路代座衆)

 

 「編集かあさん」としてこども編集学校にも携わる松井座衆の図象は、『蝸牛考』のような中央の渦巻が決め手。「周縁(地方)」が渦の出発地点である中心におかれ、「中心(京都・東京)」が周縁に置かれてるという、一見すると逆なのではと思えるこの図象によって、柳田の日本語や文化に対する見方をシェーマ化している。その背景に『郷土研究』に代表される「農政研究」と「方言研究」を柳田の両輪に置いた。

 

 松井座衆が印象に残ったことは、小学校で音楽の授業で習う童謡「かたつむり」だったという。「『でんでんむしむし(デデムシ)』『カタツムリ』が歌詞が載ったことで各地にあったカタツムリの多様な表現が切り捨てられ、こどもたちの自由な創語力が制限されてしまった。こうした話し言葉の多様性の消滅が日本文明の終焉につながるという柳田の問題意識が、私の関心とも重なりました」。

 

 図象の農政研究の部分がとりわけよくできている。柳田は、(明治期の農村の混乱を)どうにかしようと農政官僚になったが、国家はそれとは別の統制を考えていることに気づいた。

 そこで柳田が考え抜いて至ったのが新渡戸稲造の新戸地方学。「法制史」「田園風俗」「言語学」「地域史」「経済史」からなるこの構図を柳田は生涯忘れなかった。(バジラ高橋)

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