未知奥トポスめぐり ケヤキ並木は世界劇場―仙台 定禅寺通

2020/07/28(火)10:06
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 東北は土と水の国―千夜千冊1418夜『日本の深層』(梅原猛)はいう。その山が川が海が、人々を生かし、時には命を奪いもしてきた。恵みと災害は表裏一体。そんなワールドモデルの物語を、イシス編集学校未知奥連メンバーの記憶に尋ねた。

 

 「この切符を持って、どこまでも行きなさい」宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の中で、ブロニカ先生は語りかける。
 イシス編集学校未知奥連の弦主・森由佳は、10歳の時、担任の野村先生に『銀河鉄道の夜』を手渡された。それから、弦主はどこまでも行った。『サウンド・オブ・ミュージック』のザルツブルク、萩尾望都のドイツのギムナジウム、レイ・ブラッドベリの世界・・・でも、旅行には行かない。本を読んでいたら実際に行かなくてもいい。むしろ旅先は緊張するから嫌いだ。

 弦主はずっと仙台にいる。小学生の時も今も、土曜日になるとバスに乗って図書館に行く。定禅寺通の並木のケヤキの葉が落ちる時も、緑に透ける時も、その下をひとりでぽたぽた歩いていく。

 季節が動いたなぁ、と思うと立ち止まり、iPhoneを取り出してその発見を採集する。じいっと見つめているから、ケヤキの方が動き出す。雨上がりには光を集めた雫を葉や幹いっぱいに纏って、踊っているみたいだなぁって、見上げていた。

 定禅寺通は、伊達政宗が築いた青葉城とその鬼門に設けられていた定禅寺を結ぶために開かれた。終戦前の空襲で焦土となり、戦後に歩道のある中央緑地帯とケヤキ並木が整備された。今は700mの通りに166本のケヤキが並んでいる。

 

 小学校4年生の時、野村先生が『銀河鉄道の夜』を朗読して、絵にするようにと課題を出した。銀河鉄道の情景はすぐに頭に浮かび、自分でも図書館に行って、全編を読んだ。

 「劣等感の強い子」、ジョバンニは自分だった。サッカーが好きで、休み時間には男女混ざって遊んでいたけれど、友達がなかなかできないことがコンプレックスだった。同級生たちは子どもっぽく見え、話題が合わなかった。当時流行っていた『ケンちゃんチャコちゃん』という子ども向けのホームドラマと、自分をとりまく世界は違うと感じていた。

 近所の男の子と遊ぶことが多く、「男の子のほうがいいよなぁ」と思っていた。男の子だったら「自分じゃない感じ」がしたから。

 

 そのころ、広瀬川の近くにあった野村先生の家に遊びに行ったことがあった。クラスメート10人ぐらいで、今はもう仙台の街にない路面電車に乗って行った。そして、みんなで広瀬川の川辺で遊んでいた時、濡れた石に足を滑らせて転んでしまい、服をびしょ濡れにしてしまった。クラスメートが見ていて、先生を困らせたようで、恥ずかしかった。

 その時から全然、自分のイメージは変わっていない。よわよわしくて、すぐに「ああ、もうダメだ・・・ダメ」と思ってしまう、なさけない自分。

 

 やはり小学生の時から変わらない弦主の土曜日の過ごし方、昨年の夏にはEditTourの舞台にもなった、せんだいメディアテークの図書館に入れなくなったことが2度あった。1度目は東日本大震災のあと、そして2度目は今回の新型コロナウィルスの自粛期間中だ。震災の時はガラスが割れて入れなかったが、ウィルス対策の今は人と離れるために入れなかった。館内のソファが裏返されていて、建物として機能できるのに、新しい機能が見つけられないまま、本来の機能を封じる措置が取られていた。

 

 「心臓のあたりがぎゅっとするようだった。」仙台の街でもクラスターが発生し、感染者の増加が日々報じられていたころのことだ。東日本大震災の時よりも、今回の方が堪えたと弦主は言った。震災で被害にあった他の土地の人からも何度か聞いたことだが、震災の時は、直後が最悪の状態で、あとはなんとかがんばって立て直していくだけだと思えた。けれど、今回のパンデミックには先が見えないことがしんどいと。

 

 震災の時によく聞かれた想定外。そして、今回は未知。想定できたことの延長ですらなく、いまだ誰も知らないこと。その未知の奥にはどんなトポスが見えるのか。北上川の川辺をイギリス海岸と名づけた賢治のように、定禅寺通りの並木のケヤキを定点観測する弦主のように、誰もが自分のトポスの中で生きている。そして、そこに埋め込んだ物語を持っている。

 

 災害と恵みが表裏一体である未知奥のトポスを巡るつもりが、2回目で場所にとらわれない災害に向き合う時節になってしまった。松岡校長がYouTubeで発信する番組『ツッカム正剛』の0033夜は、「ウィルスははたして悪なのか?」と題されていた。
 ウィルスは、“情報”であって、それ自体悪ではない。

 長崎大学熱帯医学研究所の山本太郎教授によると、ヒトと感染症の歴史は農耕・定住によって転機を迎えたという。狩猟採集をしながら小集団で移動する生活では、感染症の大流行は起きにくい。また、常に移動するため、環境を汚染することは少なく、感染症の原因となる糞便に近づくこともない。(人の少ない時点では移動することが感染症の流行を抑えていたなんて、今の状況から考えると皮肉である)
 ヒトと、家畜となった動物たちがともに暮らすようになって接触機会が増えると、動物由来の感染症に罹るリスクが上がる。家畜でなくても、余剰農産物によって、ネズミなどの小動物が増え、それとともに感染症の運び屋となるノミやダニなども増える。もちろん、集住によって感染症の流行も起きやすくなる。
 そう考えると、パンデミックという災害は、ヒトが農耕・定住によって得た、今やそれとヒトという種を切り離して考えることが困難なほどの、恵みと表裏一体ということなのだろうか。
 このことをどう編集してヒトとして生きていくか。
 阿武隈川や未知奥中で、もちろん今読んでくださっている方の身の回りで、災害と恵みが表裏一体であるトポスを生きてきた人々の記憶が絶えず語りかけてくれている。

 

 そうすると、毎日数字に感情を揺らされ、自分も数えられるようになることを心配しながらGOやSTAYの号令を聞く今、テレビでは懸命に探されているように見える“安心の物語”が、決して語り終えられないのは仕方がないと思える。自ら由を紡いで物語を編み、そして他者が持っている物語に耳を澄ますことが、今を健やかに生きる抗体となるような気がする。

 

 杜の都の自分だけのトポスをぽたぽた歩いてきた弦主。『情報の歴史』(松岡正剛、編集工学研究所、NTT出版)を手にし、そこにブロニカ先生の「あのやさしいセロのような声」を感じてから、編集学校の20年のすべてを知る。今は自らが弦の振動の主となって、45[守]師範としてラウンジに声を響かせている。


  • 林 愛

    編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。