【三冊筋プレス】壁の中の充足・壁の外の自由(中原洋子)

2023/01/11(水)08:00
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 2022年といえば、ロシアのウクライナ侵攻が一番に頭に浮かぶ。侵攻の裏には民族や宗教の対立があり、問題はとても複雑である。そんな中、ISIS FESTA SP「『情歴21』を読む」(9月)にヤマザキマリが登場した。

 

◆フィレンツェの壁

 留学先のフィレンツェで、経済的生産性ゼロの詩人の恋人と同棲し、電気、ガス、水道も常に止められ、極度の困窮状態に陥っていたヤマザキは、「今の君はこういう文学に触れておくべきだ」という言葉とともに、イタリア人の老作家から、安部公房の『砂の女』(イタリア語版)を手渡されたという。
 辞書と首っ引きになってページをめくっていくうちに、すり鉢状の穴の底であがく主人公の姿が自分と重なった。安部公房という作家の作品をもっとたくさん知りたくなり、日本に住む母に頼んで安部公房の本を小説だけでなく、エッセイや評論までも含めてどっさり送ってもらい、寝る間も惜しんで読みふけった。そのうち、日本を離れてイタリアに留学している自分も含め、人間の生きる環境全てが砂のすり鉢なのではないかと思うようになっていった。

 主人公で学校教師の仁木順平は、昆虫採集にきた村で、そそり立つ砂の「壁」によって完全に自由を拘束され、まったく思い通りにいかない状況に置かれてしまう。脱出を何度も試みるがことごとく失敗する。しかし、最後に逃げられる状況になったにも関わらず、彼は逃げず、そこに残ることを選ぶ。 (『砂の女』あらすじ)

 

◆国家の壁

 本書『壁とともに生きる』は、「自分にとって一番の師匠は安部公房」と語るヤマザキマリの「安部公房論」であるといってもいい。
 ヤマザキの安部公房作品に対する「読み」の深さと「思索」の濃さは半端ではない。『砂の女』を自分事として読み解くことはもちろん、国家組織や社会の縮図として捉え、保守と革新の対立にも見立てて作品の普遍性を語っている。

 

 コロナ禍で二年以上に渡り、私たちは感染を恐れ、行政の言うことにほぼほぼ素直に従う生活を続けてきた。それに従わない人間には非難の矢が集中し、営業自粛要請では、窮地に立たされた飲食店も多かった。「世間の目」という監視カメラに常にさらされる生活が続き、私たちは疲弊しきったのである。「世間体」という見えない「壁」の大きさをつくづく感じた出来事だった。

 安倍公房の作品において「壁」は一貫したテーマである。現代を生きる私たちはたくさんのルールによって思考や発想を統制されている。それは人為的に作られた、社会構造における「壁」であり、「倫理」という言葉で私たちの前に立ちはだかるのだ。

 

◆守りの壁
 しかし、「壁」は自由を拒むものとは限らない。大きな危険や脅威から自分を守ってくれる性質もある。

 宗教学者の島田裕巳は、『宗教の地政学』の中で、宗教が広がっていった理由や原因、信者を増やしていった手立てについて語っている。
 宗教はその核心が「目に見えない」信仰にあるが、信徒同士はネットワークで結ばれている。同じ地域に住む信徒は集会などを通じて顔見知りになり、親しくなっていく。モノを買うときも、信徒の店があればそこで買うようになり、相談事も頻繁にするようになる。こうしたネットワークは、時に煩わしさを感じ、飛び出したくなるかもしれないが、その連帯感は危険や脅威からその者を守ってくれる「壁」ともなるのだ。それは宗教が発展することにも寄与したし、維持にも貢献した。国を追われたユダヤ人たちにとって、そのネットワークはまさに生きる術としても機能したのである。しかし、連帯が強ければ強いほど、そのネットワークは閉じられたものとなり、排他的になっていくことが危惧される。「壁」の二面性は諸刃の剣なのだ。

 

◆孤独の壁

 こういったネットワークに所属しない、或いはできない人ももちろんいる。今村夏子の芥川賞受賞作『むらさきのスカートの女』の主人公である「わたし」は「むらさきのスカートの女」と友達になりたい。しかし、友達になろうとする行動はみせず、ひたすら女を観察するだけだ。ストーカーのように仕事中も休日も女の近くに出没し続ける。自分の周囲に「壁」を作り、その内側から覗く世界は自分だけのものだ。行動して拒絶されたり傷つけられるよりも、このまま孤独に観察者でいることを選ぶ「わたし」の気持ちは、わからなくないだけに哀しいものがある。人間の業や煩悩によって、「壁」は自分たちの周囲にそそり立っていく。

 自由を望みながら、脅威や危険からは守られたいと願うのが人間だ。安部公房の作品の中で、自由を求め「壁」を出ていこうとする登場人物たちも、最後は皆「壁」の中に戻ることを選ぶ。
 人間が不条理で矛盾に満ちた生きものであることを、「壁」は教えてくれる。せめてその「壁」は、日本の障子や襖のように、時にプライヴェートを守り、時には人々を招き入れたり送り出すものでありたい。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

『壁とともに生きる: わたしと「安部公房」』ヤマザキマリ/NHK出版新書675
『宗教の地政学』島田裕巳/MDN新書
『むらさきのスカートの女』今村夏子/朝日文庫

 

⊕多読ジムSeason12・秋⊕

∈選本テーマ:今年の三冊
∈スタジオ*スダジイ(大塚宏冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):一種合成型

   『宗教の地政学』        ーーー┐     
                ├ーーーー『壁とともに生きる』
  『むらさきのスカートの女』―┘
      
⊕著者プロフィール⊕

∈ヤマザキマリ

 漫画家・文筆家。1967年(昭和42年)、東京都に生まれる。母親がヴィオラ奏者として札幌交響楽団に在籍していたことから、幼少期を北海道千歳市で過ごした。17歳のときに渡伊、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で油絵と美術史を専攻。エジプト、シリア、ポルトガル、米国を経て各地で活動したのち、現在はイタリアと日本を拠点に置く。1996年(平成8年)、イタリア暮らしを綴ったエッセー漫画でデビュー。2010年『テルマエ・ロマエ』で第三回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2016年『スティーブ・ジョブズ』などの作品により、芸術選奨文部科学大臣新人賞(メディア芸術部門)受賞。2017年、長年イタリアに在住し、芸術家としてイタリアの文化やイメージの普及に貢献した人物としてイタリアの星勲章コメンダトーレ章を受章した。日本人の漫画家としては初の受章となる。

 

∈島田裕巳

 1953年東京生まれ。宗教学者、作家。学生時代に宗教学者の柳川啓一に師事し、とくに通過儀礼(イニシエーション)の観点から宗教現象を分析することに関心をもつ。大学在学中にヤマギシ会の運動に参加し、大学院に進学した後も、緑のふるさと運動にかかわる。雑誌『80年代』の立ち上げにも参加する。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『日本の10大新宗教』、『葬式は、要らない』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書)などがある。


∈今村夏子
 1980年生まれ。広島県広島市生まれ。日本の小説家。広島県内の高校を経て大阪市内の大学を卒業。その後は清掃のアルバイトなどを転転とした。29歳の時、職場で「あした休んでください」といわれ、帰宅途中に突然、小説を書こうと思いついたという。そうして書き上げた「あたらしい娘」が2010年、第26回太宰治賞を受賞した。同作を改題した「こちらあみ子」と新作中篇「ピクニック」を収めた『こちらあみ子』(筑摩書房)で、2011年に第24回三島由紀夫賞受賞。2019年、『むらさきのスカートの女』で第161回芥川賞を受賞。笙野頼子、鹿島田真希、本谷有希子、村田沙耶香に続いて5人目の純文学新人賞三冠作家となる。2019年度咲くやこの花賞受賞。

  • 中原洋子

    編集的先達:ルイ・アームストロング。リアルでの編集ワークショップや企業研修もその美声で軽やかにこなす軽井沢在住のジャズシンガー。渋谷のビストロで週一で占星術師をやっていたという経歴をもつ。次なる野望は『声に出して歌いたい日本文学』のジャズ歌い。