梶原一騎② 泥海の中から【マンガのスコア最終回 LEGEND51】

2022/06/26(日)08:25
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(前回:梶原一騎①

 

■少年週刊誌の時代

 

 マンガ原作者として立つ前の梶原一騎は、もっぱら少年雑誌を舞台にした実話読み物や少年小説、絵物語の原作などを書く作家でした。

 当時の少年誌は、現在とは違い、マンガの占める割合は誌面のごく一部に過ぎず、その多くを読み物記事が占めていました(宮崎駿の回でも述べたように、絵物語も、その主戦力のひとつでした)。梶原はそこを主戦場にしていたのです。

 しかし、やがてマンガの勢力が、じわじわと他の記事を圧するようになっていきます。少年読み物のジャンルは徐々に肩身の狭い思いをさせられることになりました。梶原は、自らの依拠するジャンルが、少しずつ滅びの足音を響かせつつあることをひしひしと感じながら仕事を続けていたのです。

 梶原にとって初の本格的な絵物語の原作となったのが吉田竜夫(のちのタツノコプロの創設者)作画による「鉄腕リキヤ」(1955~57「冒険王」連載)でした。

 そこで梶原は屈辱的な扱いを受けることになります。作品に自らの名前が明記されなかったのです。絵物語の原作担当など、そういう扱いなのでした。

 

 梶原は徐々に自分の仕事にやる気を失うようになっていきます。

 もうぼつぼつ少年誌の仕事から足を洗った方がいいかもしれない…そんな思いを抱いていた梶原の元にアプローチをかけてきた雑誌がありました。

「少年マガジン」です。

 1959年、初の少年週刊誌として同時創刊された小学館の「少年サンデー」と講談社の「少年マガジン」は、創刊以来、激しいデッドヒートを繰り広げていました。

 一歩リードしていたのは「少年サンデー」の方です。

 ベテランや人気作家をガッチリ押えていた「サンデー」は、横山光輝『伊賀の影丸』をはじめとして、赤塚不二夫『おそ松くん』、藤子不二雄『おばけのQ太郎』といった強力な作品を次々と打ち出していき、「マガジン」との差をぐんぐん広げていきました。

 ながらく「サンデー」の後塵を拝していた「マガジン」が、対抗策として打ち出したのが、貸本劇画作家の起用と、原作・作画の分業システムの採用です<1>。貸本劇画系としては、白土三平水木しげる楳図かずおなどが登場し、原作ものでは「ちかいの魔球」(福本和也・ちばてつや)、「8マン」(平井和正・桑田次郎)などのヒット作が出ました。こうした布陣を着々と整えていった上で「マガジン」編集部が次に白羽の矢を立てたのが梶原一騎でした。劇画路線+分業システムという「マガジン」の柱をいよいよ全面展開するにあたって、ふさわしい人物と見なされたのです。

 

■『巨人の星』の大攻勢

 

 梶原一騎はすでに「マガジン」誌上で『チャンピオン太』(作画・吉田竜夫)の実績を持っていたものの、この頃には、すでに少年誌の仕事への意欲を喪失していました。

 三顧の礼を尽くして依頼する「マガジン」側に対して、気乗りのない生返事を繰り返していた梶原ですが、あるとき「マガジン」編集長・内田勝の発した「梶原さんには是非ともマガジンの佐藤紅緑になってほしい」という言葉に心を打たれ、俄然やる気になったと言います。この、なにげない一言がなければ運命が変わっていたかもしれない、とは内田氏自身の述懐です。

 今となっては、ほとんど忘れられた作家となっていますが、佐藤紅緑とは、戦前に一世を風靡した少年小説の王者でした。佐藤の代表作『あゝ玉杯に花うけて』は雑誌「少年倶楽部」の部数を飛躍的に伸ばしたと言います。「少年倶楽部」は田河水泡『のらくろ』でも人気を博しましたが、雑誌の看板はあくまで「少年小説」でした。梶原一騎は、戦前のそうした空気を知っている最後の世代だったのです。

 

 こうして1966(昭和41)年から連載開始されたのが『巨人の星』でした。

 作画は川崎のぼる。貸本劇画出身で、かつて、さいとう・たかをのアシスタントも務めていたこともある人物です。劇画の力強い描線と、少年らしい柔らかさを兼ね備えた川崎のタッチは、「マガジン」が満を持して放つ、この新しい作品に是非とも必要なものでした。当時「サンデー」での連載も抱え、多忙を極めていた川崎は依頼を辞退するのですが、これも粘り腰で口説き落としたのです。

 ゴツゴツとした筋肉の強調や、カケアミを使った陰影表現など、川崎のタッチは、当時の少年マンガとしては、かなり劇画的な香りのするものでした。また、永島慎二を深く敬愛する川崎は、彼からの影響の濃厚な、夕日や、ハト、落ち葉などの叙情的な表現にも卓抜な技量を発揮します。川崎のタッチは、どこか大衆的で泥臭い梶原の作風と、みごとにマッチしたのです。

『巨人の星』は連載開始早々、大人気を博し始めます。その年の暮れには「少年マガジン」は、ついに少年週刊誌としては初の100万部突破という偉業を成し遂げました。

梶原のもとには次々と原作原稿の依頼が舞い込み、あれよあれよという間に売れっ子作家となっていきます。

 

■語られざる作家

 

 梶原マンガの世界観は、手塚や、そのフォロワーであるトキワ荘グループが体現するような高度に洗練された作風とは真っ向から対立するものでした。

 平気でちゃぶ台をひっくり返す主人公の父・星一徹、そのあまりにも横暴な父権の強調は、あの時代ならではのものとも見えますが、あの当時でも『巨人の星』は十分アナクロニックなものでした。すでに戦後の高度成長は十分進展し、マイホーム主義なども言われていた時代です。

 梶原一騎の存在は、その登場時からすでに時代に逆行する反動的なものでした。

 当時、マンガの表現技法は急速に進展し、「ガロ」や「COM」などの登場によって、先端的な若者たちは、皆マンガを読み、マンガを語るようになっていました。彼らは口角泡を飛ばして白土三平の革新性やつげ義春の素晴らしさについて語りましたが、梶原一騎が批評の俎上に上ることはついぞありませんでした。みんな実は熱心に読んでいたのに…です。

 ジャーナリズムに取り上げられる梶原一騎も、あくまで社会現象としてであり、その作家性についてまともに論じる者などいなかったのです。

 

 しかし、そんなこととは無縁に、梶原一騎は破竹の快進撃を続けていました。1970年当時<2>の梶原一騎は、『巨人の星』『あしたのジョー』『柔道一直線』『タイガーマスク』『夕やけ番長』をはじめとして月に16本、月産1,200枚という、とても人間業とは思えない殺人的スケジュールをこなしていました。翌71年には『空手バカ一代』『侍ジャイアンツ』の連載も始まります。

 

 そして、ある時期までの「少年マガジン」は、まさに「梶原一騎マガジン」といってもいいほどの様相を呈していました。『あしたのジョー』『巨人の星』『空手バカ一代』という同じ原作者の作品が三本同時に連載されていたのです(『ジョー』『空手』『愛と誠』が同時連載されていた時期もありました)。しかもこれらが全て雑誌の看板となるような主力作品であり、「右手にジャーナル、左手にマガジン」といわれる「少年マガジン」黄金期を下支えしていたのです。

 60年代末から70年代初頭にかけて、戦後マンガがドラスティックに変革していく時期に、それを主導していたのは間違いなく梶原一騎その人でした。

 

■手塚治虫の懊悩

 

 まるで手塚治虫にない要素だけで全身を固めた男、梶原一騎。

 新しい才能が現れるたびに闘志を剥き出しにし、徹底的にこき下ろす一方、その裏でちゃっかりその技を吸収して自らをバージョンアップさせてきた手塚も、さすがに梶原から盗めるものは、ほとんどありませんでした。

 

 古くから伝わる有名なフォークロアの一つに、“手塚治虫が泣きながら『巨人の星』を示し、「こんなマンガのどこが面白いんだ!!」とスタッフたちに詰め寄った”という話があります( “ノイローゼのあまり階段から転げ落ちた”という話と組み合わせて伝えられることもあります)。

 真偽のほどはともかく、この当時、手塚が、かなりナーバスになっていたのは間違いないでしょう。

 新連載や短編作品が雑誌に掲載されるたびに、トビラに麗々しく「”巨匠”が放つ!」という決まり文句がたてまつられるものの、話題やヒットとは無縁なまま、日に日にオワコン化していく自分に、そうとう焦燥感を募らせていたようです。

 のちに手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』の二大ヒットで不死鳥のごとく甦り、さらに『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などの青年マンガで新境地を切り開いていくことになるのですが、この時期の手塚は、彼自身にとっても、思い出したくもないほど暗い時期だったそうです。

 

 しかし、その作風には全く梶原成分の観察されない手塚治虫ですが、そのキャラは、まさに梶原イズムそのものでした。

 持って生まれた天分に加えて、ほとんど狂気ともいえるほどの努力とド根性によって地を這うような辛酸を舐めてきた手塚の生き様は、宮崎克・吉本浩二『ブラック・ジャック創作秘話』(秋田書店)にも活写されているとおりです。これを読めばリアル梶原マンガを実人生で生ききったのが手塚治虫だったと知れるでしょう。

 

(宮崎克・吉本浩二『ブラック・ジャック創作秘話』秋田書店)

 

■梶原劇場の集大成

 

 一方、破竹の快進撃を続けていた梶原一騎も、さすがにオーバーワークがたたり、70年代半ばを過ぎる頃から、その仕事は精彩を欠くようになっていきます。

 梶原の疲弊は、すでに70年代初頭から観察され始めていました。『あしたのジョー』でタッグを組んだちばてつやは

「(1971年後半頃になると)以前と同じ、鉛筆書きの太い字で、原稿用紙のマス目をはみ出しながら書いてくる原作なのに、感情があまりこもっていないというか、ストーリーのシノプシス(あらすじ)を立てているような感じが気になりました。梶原さんはあんまりたくさんの仕事を抱え込みすぎて、ちょうど子供が多すぎると一人一人に目が行き届かないのと一緒だったのかもしれません。」 (豊福きこう『ちばてつやとジョーの闘いと青春の1954日』講談社)

 と回顧しています。

 

そんな梶原一騎の最後の光芒となったのが73年より連載の始まった『愛と誠』でした。

 

(梶原一騎・ながやす巧『愛と誠』⑬⑦⑨⑪講談社)

 

 この作品を梶原に依頼したのも、『巨人の星』『あしたのジョー』を企画し立ち上げた名編集者・宮原照夫です。

 宮原には絶大な信頼を寄せていた梶原も、さすがにこの依頼には難色を示します。よりにもよって梶原に「恋愛マンガ」の依頼をしてきたからです。

「いくらなんでも俺は恋愛なんてガラじゃないよ」という梶原に、宮原は「なにもスポ根だけが男の戦いの場にあらず、たとえば異性との一途な愛も峻厳にして苛烈なる戦いのはず」と、粘り強く説得したそうです。

 宮原のモーレツなアタックにほだされ連載開始した”純愛山河”『愛と誠』は、いざ蓋を開けてみると、梶原の物語作家としての美質が遺憾なく発揮された一大エンターテイメントとなりました。作画家・ながやす巧の繊細で華麗なタッチとも相まって、この作品も、またしても大ヒットしてしまいます。

 まるで浪花節かと思われるようなコテコテの大悲恋物語。主人公のライバル岩清水くんの放つセリフ「きみのためなら死ねる!」は、のちに散々ギャグやパロディにされてしまいましたが、こういう突き抜けたセリフをバシッと決められるところが梶原一騎の底力です。

 しかしこの作品、徐々に梶原一騎お得意のバイオレンス路線にシフトしていき、学園バトルものの様相を呈し始めます。しまいには「どこらへんが純愛山河?」という状況になってしまうのですが、まあ面白ければ何でもいいのです。

 

 ちなみに同じ頃、少女マンガの分野でも一つの特異な作品が誕生していました。

 少し横道にそれますが、この場を使って是非とも紹介しておきたいと思います。1975年末より「花とゆめ」誌上で連載が開始された美内すずえ『ガラスの仮面』です。

 この作品、あまりにもド直球なベタすぎるメロドラマをためらいなく連打し、有無を言わさぬ面白さで読者を圧倒していました。当初、批評の俎上にのぼることの少なかったこの作品も、今ではマンガ史上に銘記されるべき最重要作の一つとなっています。

 ときあたかも24年組による少女マンガの先鋭化が進んでいるさなかでしたが、こういう、物語本来の面白さでぐいぐい押してくる作品の凄みを侮るわけにはいきません。梶原一騎と並んで、美内すずえの偉大さも、この機を捉えて、称揚しておきたいと思います。

 

(美内すずえ『ガラスの仮面』49白泉社)

 

■凋落への道

 

 しかし梶原一騎の人気は、76年の『愛と誠』完結の頃から陰りを見せ始めます。

 梶原作品が持っていたエッセンスのある部分は、しっかり少年マンガの中に吸収されたものの、梶原自身の書くものは、やや古臭くなり、徐々に時代と合わなくなってきていたのです。多作がたたって本人もいささか投げやりになり、作劇もワンパターン化していきます。ヒット作も出なくなっていきました。そして各出版社にとっても梶原一騎は、いささかお荷物になってきていたのです。

 それと呼応するように手塚治虫の鮮やかな復活劇も進行していました。70年代後半にはニューウェーブムーブメントも起こります。

「ニューウェーブってみんな言うけれども、アレって手塚なんですよ。梶原(一騎)が全盛のときに手塚さんがスーッと最前線から下がっていった。その状況に対しての若い者の旗揚げがニューウェーブだったような気がする。その流れに乗って、また手塚さんが表に出てきた。」(南信長『現代マンガの冒険者たち』NTT出版)

 浦沢直樹による、この指摘は、まさに慧眼というべきでしょう。

 

 こうして枯渇の度を深めていく梶原に、とどめの一撃を加えるあの事件が起こります。

 1983年5月に起こった梶原による編集者殴打事件です。

 この事件は当初、被害者である編集者も明るみにするつもりはなかったのですが、事件をかぎつけた警察の強力な後押しにより事件化されました。

 この事件は、当時そうとう大きなスキャンダルとなり、ワイドショーなどでも連日報道されることとなります。梶原一騎はこれを機に、ほぼ完全に業界から抹殺された形になりました。すでにお荷物として梶原を持て余していた各出版社も、ここぞとばかりに梶原を切り捨ててしまいます。

 事件による勾留から保釈された梶原は、今度は膵臓炎に倒れました。闘病生活を続ける中、1985年3月に事件は懲役2年、執行猶予3年で結審します。

 そんな梶原に残された時間は、あとわずかしかありませんでした。

 

■倒れるときも前のめりだ!!

 

 LEGEND50の中で最も早くこの世を去った人物が梶原一騎(享年50才)です。1987年のことでした。

 執行猶予期間も終わらない中での早すぎる死は、あまりにも残念なことです。

 今ほどコンプライアンスのやかましくなかった時代、勝新やショーケン、たけしなど、麻薬や暴力で逮捕歴がある者でも、一定のミソギ期間を過ぎると芸能界に復帰できるケースがありました。

 梶原一騎も、もう少し長命を保っていれば失地回復するチャンスは残っていたでしょう。というのも梶原には、晩年に、彼の実力が全く枯れていないことを証明する隠れた名作があるからです。

 それが梶原一騎異色の自伝作品『男の星座』です。

 発表の舞台は日本文芸社「漫画ゴラク」。言っては何ですがB級誌です。作画は『プロレススーパースター列伝』で気心の知れた原田久仁信でした。

 この連載、梶原一騎引退記念作と銘打ち、ややイカモノ的なセンセーショナリズムを前面に出した形でスタートしたのですが、いざ蓋を開けてみると大変な傑作でした。

 実話読み物としての面白さが遺憾なく発揮され、物語作家・梶原一騎の本領が十全に開花した作品として、当時、いしかわじゅんや呉智英をはじめとする目利きのマンガ読みたちも一斉に注目していました。

 そんな中、梶原の突然の死去により、この連載は中絶されることになります。

 物語は、落日の少年小説界で辛苦をなめる主人公のもとに、いよいよ「少年マガジン」の編集長が原稿依頼のために訪れる場面で終わっています。

 ここから話が本格的に面白くなるところでした。なんというタイミングでの絶筆でしょう。

 

「たとえドブの中であっても倒れるときは前のめりに死にたい」

 とは坂本龍馬の言葉として『巨人の星』に引かれる言葉です。しかし坂本龍馬がこんなことを言ったという話は確認されていません。これはおそらく梶原の創作だったのではないかと言われています。

 最後の最後まで全力を振り絞る。そして最後は左腕を酷使の末に破壊し(『巨人の星』)、真っ白に燃え尽き(『あしたのジョー』)、子供を助けるため交通事故で死に(『タイガーマスク』)、マウンド上で絶命し(『侍ジャイアンツ』)、愛する者の腕の中で死ぬ(『愛と誠』)それが梶原の考える最高の男の生きざまでした。

 梶原は身をもって自らの美学を完遂させて見せたのです。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1> 「マガジン」は、編集部主導で誌面の方向性を定めていき、企画会議を重ねる中で、どんなマンガを始めるか、誰を原作者に据え、誰に絵を描かせるかを決めていきました。ストーリー、テーマ、キャラ設定に至るまで、編集サイドが積極的にかかわり、作家と二人三脚で制作していくスタイルは「ジャンプ」的、というイメージを持っている人も多いと思いますが、最初にこのシステムを作り上げたのは「マガジン」でした。一方の「サンデー」は、基本的に放任主義で、あまり編集者が口出しをせず、作家の自由な創作意思に任せていたようです。

 

<2>1970年

「1970年」という年が、いかにとんでもない年だったか、ちょっと見てみましょう。

「少年マガジン」では『あしたのジョー』(LEGEND26)が連載中で、力石が壮絶な死を遂げた年に当ります。同じ頃、ちばてつやは『餓鬼』の連載も同時に始めていました。また「マガジン」誌上には山上たつひこ(LEGEND27)の問題作『光る風』も連載中です。

水木しげる(LEGEND29)は「少年サンデー」で『悪魔くん』二度目のリメイクを執筆する一方、「ガロ」誌上で『星をつかみそこねる男』の連載を開始。その「ガロ」では白土三平(LEGEND21)の『カムイ伝』や、林静一(LEGEND25)の『赤色エレジー』が連載され、辰巳ヨシヒロ(LEGEND11)もこの年「ガロ」に四本ほど短編を発表しています。つげ義春(LEGEND02)の「やなぎ屋主人」が載ったのもこの年でした。

「少年ジャンプ」では永井豪(LEGEND20)『ハレンチ学園』と、本宮ひろ志(LEGEND22)『男一匹ガキ大将』が破竹の快進撃を続けるかたわら、松本零士(LEGEND24)の『光速エスパー』も連載中。松本はこの年、最初の四畳半ものである『元祖大四畳半大物語』の連載も始め、翌年の『男おいどん』大ヒットを準備します。

藤子・F・不二雄(LEGEND09)は学年誌で『ドラえもん』の連載をひっそりスタート。A先生(LEGEND08)はというと『ぶきみな五週間』や『黒ィせぇるすまん』(のち「笑ゥせぇるすまん」に改題)などのブラックな作品から『狂人軍』のような激ヤバな作品まで、好き放題に飛ばしまくっていた頃です。石森章太郎(LEGEND36)は「COM」に『サイボーグ009・神々との闘い編』を連載。作家的ピークを迎えます。

楳図かずお(LEGEND16)は『イアラ』『おろち』で新境地を切り開いていました。『おろち』連載中の「少年サンデー」では、「マガジン」から移籍した赤塚不二夫(LEGEND19)の『天才バカボン』も連載されています。横山光輝(LEGEND18)は最初の歴史ものである『水滸伝』を連載中でした。これで手ごたえをつかんだ横山は翌年から『三国志』をスタートすることになります。

新人吾妻ひでお(LEGEND30)は初の連載作『二日酔いダンディー』をスタート。クールなギャグで飛ばしまくります。そして諸星大二郎(LEGEND34)が「COM」でひっそりデビューしていたことも忘れるわけにはいきません。

そして、御大手塚治虫(LEGEND01)といえば新作の不振と虫プロの業績悪化などで絶不調のどん底でしたが、そんな中でも忙しく仕事を続けていました。主催する「COM」誌上で『火の鳥』を連載するかたわら、『きりひと讃歌』では劇画的表現を大胆に取り入れ、作風の転換を図ります。『ブラック・ジャック』で息を吹き返すのは、もう少し先の話です。

園山俊二(LEGEND35)は代表作『ギャートルズ』を長期連載中。アニメ化による大ヒットまではあと少し。

一方、萩尾望都(LEGEND07)竹宮恵子(LEGEND14)は大泉サロンで共同生活を始め、竹宮は同性愛をテーマにした最初の作品「サンルームにて」を発表。「週刊セブンティーン」では水野英子(LEGEND05)による畢生の大作『ファイヤー!』が連載中でした。少女マンガで妊娠を扱った問題作「誕生!」を大島弓子(LEGEND23)が発表したのもこの年です。前年にデビューした新人山岸凉子(LEGEND33)は、恐るべき勢いで短篇を連打していました。

というわけで、これまで取り上げた作家にからめて、ざっとまとめてみましたが、1970年って、なんだか凄い年ですね。

 

LEGEND51梶原一騎①

LEGEND51梶原一騎②

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:梶原一騎・ながやす巧『愛と誠』⑯講談社


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。