魚豊『チ。』 ふしぎなC教【マンガのスコア番外編】

2022/08/20(土)16:30
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わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイによる福音書第10章34節)

 

 またまた番外編がやって参りました。

 もしかして「マンガのスコア」って、終わっていないのでは?という疑惑が…(汗)。

 

 さて、心あるマンガ読みたちのあいだで今、最も注目されている、あの作品がついに完結!

 というわけで今回取り上げるのは魚豊『チ。―地球の運動について―』(小学館)です。この四月に連載が完結すると同時に、本年の手塚治虫文化賞を受賞。つい先日、マッドハウスによるアニメ化も決定したところです。

 

 物語は、地動説が究極の危険思想となっている架空の15世紀が舞台。ありとあらゆる弾圧に屈せず、真理の探究にひたむきに立ち向かう人々の物語です。

 どんなテイストかは、まずは公式ページの、こちらの試し読みをご覧になって下さい。

 

『チ。―地球の運動について―』魚豊

 

 ごめんなさい。いきなりエグかったですね。

 まあ、冒頭のこの段階で、何割かの読者は振り落とされるのは確実でしょう。

 ところが、この作品、今や大変な話題を呼び、ベストセラーになっているのですから、相当多くの人が、この関門を突破したことになります。まことに頼もしいというか、恐ろしいというか……。

 

 こんな感じで物語が進行していくのですが、とにかく人が、ジャンジャン死にます。

 この人、主人公なのかな?と思ってたら、あっさり死にます。そして次々と新しい人物が登場しては、次の世代にバトンを受け渡していく…という構造自体が、そのまま作品のテーマにもなっているのです。

 さて、作品のメインストリームを担うのは地動説を唱える人たちなのですが、一方でそれを弾圧する側にも面白い人物が出てきます。冒頭に出てくる異端審問官はノヴァクという男なのですが、このイケ好かない男は、ずっと生き残って最後の方まで出てきます。最後の方のページを模写してみましょう。

 

魚豊「チ。―地球の運動について―」模写

(出典:魚豊『チ。』⑦小学館)

 

 だいぶ爺さんになっています。この作品、「それから十年後」とか「二十五年後」とか、バンバン時代をすっ飛ばしていくので。巻数のわりに、物語のスパンは、かなり長いです。

 ノヴァクって、憎たらしい男ではあるのですが、ちょっと飄々としたところもあって、魅力的な人物としても描かれているのですね。

 しかし、終盤になると、だんだんテンパってきて、この絵のように、かなりマジになっています。最後はわりと悲惨な感じになりますのでお楽しみに。

 

 魚豊先生のペンタッチは、どこか岩明均や諌山創を思わせる、血の通っていない異生物のような不気味さがあります。その独特の雰囲気が、異様にファナティックで、どこまで極端な行動でもためらいなくとってしまいそうな各キャラクターのヤバさを醸し出しています。

 筆遣いもかなり大胆ですね。

 ところどころサインペンを使っているのでしょうか。今回模写したページは比較的丁寧に描かれていますが、大ゴマの見せ場で、あえてざっくりした描き方をしてみたり、ちょっと普通のセオリーと外れたところがあります。それが効果的に怖さを演出しています。

 画力的には発展途上というか、まだ自分のタッチが定まっていない感じもします。今後、どういう方向に画風が進化していくのか楽しみでもありますね。

 

■異形の宗教――キリスト教

 

 ところで、この作品、全くのファンタジーではないところが絶妙です。マルチバース的にいうと、私たちの住んでいる「この世界」に、けっこう近い位置にある世界が『チ。』の舞台。「C教」というのも、あきらかにキリスト教ですし、ギリシア哲学などは、そのまま現実の用語を使っています。

 

 作品を規定する基本トーンとして”暗黒の中世”のステレオタイプなイメージが使われています。こういうイメージを集中的に扱った作品に、たとえば大西巷一『ダンス・マカブル』(KADOKAWA)なんてのがありますが、こういったジャンルには一定の需要があるようですね。

 

(大西巷一『ダンス・マカブル』①②KADOKAWA)

中世の拷問や刑罰の歴史を描いた作品集。

一読の価値はあるので心臓の強い人は是非どうぞ。

 

 たしかにキリスト教には、異端審問とか魔女狩りなどの、おぞましい歴史がありますが、これは、この宗教そのものに内在する要素なのかどうかは一考の余地があります。

 

 たとえば、キリスト教の教えでは、殉教を尊いものとして重視します。

 ことにイエスの直弟子である十二使徒にいたっては、十二人中十一人までが殉教したことになっている(彼らが殉教したことを示す同時代の一次資料はないので、本当に伝承どおりなのかは怪しいところですが)。

 そもそもイエスその人が磔刑による凄惨な死を遂げており、このことが教義の中核になっている点は注目すべきです。

 カトリックなどの教会では、磔にされたイエスの姿をかたどった生々しい像を祭壇の中央に安置し、それを信徒たちが伏し拝みます。

 これは、よく考えると、かなり異様な光景ではないでしょうか。

 もし、キリスト教を知らない異星人が、この星の宗教を観察すれば、なんという不気味な宗教かと思うでしょう。血にまみれた教祖のむごたらしい姿を、これでもかというぐらいに超リアルな立体にして、麗々しく飾り立てているのです。教祖を死にいたらしめることになった忌まわしい刑具である十字架を、聖なるシンボルとして崇めるという倒錯性。ヤバすぎます!!

 

(ダン・シモンズ『ハイペリオン』上下・早川書房)

「涼宮ハルヒ」シリーズの人気キャラ・長門有希嬢の

愛読書として知られる本書の第一章「司祭の物語」は、

まさにキリスト教の、おぞましい側面を鮮やかに描いている

 

■ロゴスの宗教

 

 一般的に、キリスト教を含む、ユダヤ教、イスラム教などセム系の宗教は、苛烈な風土から生まれた厳しい宗教というふうに言われます。

 膨大な数の経典があり、教義も千差万別で互いに矛盾した教えも平気で併存している仏教などと違い、キリスト教は聖典を一本化し、異端排除にひたすら邁進してきた宗教でした。

 

 キリスト教はロゴスの宗教です。スコラ哲学に典型的に見られるとおり、ごまかしのない徹底的な思考で押しまくる。曖昧なところがあってはならない。正統と異端も当然はっきりさせる。

 こうした徹底性の土壌から無神論は生み出されました。キリスト教にとっての最大の敵、無神論はキリスト教自身が生み出したのです。

 他のどんな文明にも、かつてこれほど徹底した無神論は現れてこなかった。これこそ、キリスト教のロゴスが正真正銘の本物であった証しです。

 

 そもそも、この『チ。』という作品世界では、弾圧する側もされる側も、まるで合わせ鏡のように同じ人種であることに気づかされます。弾圧する側の人間を、決して暗愚で無知蒙昧な人間には描いていない。この世のことわり、神の摂理というものの重大さに対して、どちらの側の人間も、真摯で真剣です。いい加減なところで妥協する、ということを何より嫌っている。だからこそ血を見ることも辞さず、徹底的に戦い合うのです。

 

■科学も資本主義も

 

 こうした思考の徹底性こそが科学的合理主義を生み出します。

 東洋やイスラム圏にも高度な科学は発達していたにもかかわらず、最終的に、それが爆発的に開花したのは西欧世界においてでした。

 それはなぜなのか、ということについては、いくつかの仮説が立てられるでしょう。村上陽一郎の「聖俗革命」説もその一つです。

 

 そもそも近代科学を基礎づけた天文学者の多くは聖職者でした。星の運行を観察し、合理的実証的な説明を与えることは、神の摂理に近づくための重要な仕事だったのです。

 そして「神即自然」という理神論から「神」の部分が脱落し、「自然」そのものへと向かうという形で、聖性が蒸発し世俗化した科学が発展した、とするのが村上氏の説です。

 

(村上陽一郎『近代科学と聖俗革命』新曜社)

1976年刊。科学史家・村上陽一郎の代表的な仕事の一つ

 

 さらに、マックス・ウェーバーの説を信じるなら、キリスト教は、カルヴァンの予定説などを経由して、資本主義をも、もたらしたことになります(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。

 科学的合理主義と資本主義の精神、これはもはや西欧社会にとどまらない、世界のデフォルトです。信仰の有無を問わず、キリスト教のエッセンスを多分に含んだミームが、今や全世界を覆い尽くしているのです。

 

 このように世界中に強力なミームをまき散らし、社会の下部構造をがっちり作り上げてしまったキリスト教の力の源は、いったいどこにあるのでしょう。

 

■一筋縄ではいかないキリスト教の「愛」

 

 キリスト教は、しばしば「愛」の宗教と言われます。

 たしかにイエスは「隣人愛」を説きました。

 注意すべきは、ここで言う「隣人」とは「赤の他人」のことです。

 まずは自分の身を修め/次に家を斉(ととの)え/さらに国を治め/その上で天下を平らかにする(「修身斉家治国平天下」)といった、身近なところから段階的に徳の及ぶ範囲を広げていく東洋の思想と異なり、キリスト教では「博愛(=phiianthropy)」という形で、いきなり「普遍」「全体」に向かいます。ある意味でキリスト教は、徹底的に厨二病的な「セカイ系」宗教ともいえるでしょう。

 

「汝の隣人を愛せ」という言葉は、もともと旧約の中にもありました(「レヴィ記」19章18節)。ただし、ユダヤ教のいう隣人はユダヤ人同胞という意識が強かった。イエスは、それを拡張し、異邦人までをもその対象に含めてしまったのです(善きサマリア人の譬えなど)。それがキリスト教をユダヤ人の民族宗教から世界宗教の方へと飛翔させる力となりました。

 

 さらに恐ろしいのは「敵への愛」です。

「汝の敵を愛せ」

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」

 キリスト教が、じわじわと浸透してきた頃の、古代社会の人々の気持ちを想像してみてください。初めてキリスト教という異教に接した人々にとって、これはそうとう迫力があったはずです。

 拳を振り上げた人に対して、なにも反撃せず、ただじっと憐れみの眼で見る。あるいは自分を殺そうとしている人に向かって手を合わせて拝む。人類史上初めて現れた、こうした行動様式が、当時の人々に、どれほどの恐怖と衝撃を呼び起こしたかは察するに余りあります。徹底的に弾圧されてしまうのも無理もありません。

 しかし同時に、それを上回る勢いで、キリスト教は、多くの人の心を鷲掴みにし、とりこにもしたのです。

 

 そして、このキリスト教の「愛」は、しばしば攻撃的でアグレッシブな姿を見せます。

 キリスト教に一度は入信し、のちに離れていった有島武郎は『惜しみなく愛は奪ふ』と書きました。これはキリスト教の「愛」の一側面を、よく捉えていると言えるでしょう。

 15世紀の大航海時代に入ると、西洋人は世界中に貿易船を出すようになります。そこには必ず商人と一緒に宣教師も乗っていました。未開の蛮族どもを「教化」するのです。

 こうして土着の習俗を徹底的に破壊しつくし、キリスト教の光を遍く届かせることがよしとされました。

 

■破壊するまで徹底する

 

 こうした「普遍」志向は、西洋人気質のあらゆるところに行き渡っています。

 数学などもそうですね。

 つるかめ算などの特殊算を多く用い、その場に応じて対処療法的に問題に立ち向かう東洋の算術と異なり、西洋の数学は、変数も定数も抽象化し、どんな問題にも対応できる連立方程式などを編み出しました。

 負の数や虚数、無限集合といった概念にも、ためらいなく突き進み、果てしなく世界を拡張していった挙句、ついには数学的論理構造そのものに斬り込んで矛盾率に陥り(ヒルベルト・プログラムからゲーデルへ)、学問としての体系を瓦解寸前にまで追い込んでなお、その追究の手を緩めることはない。まことにアッパレという他ありません。

 

 こういった妥協を許さず徹底性を追究する、といった構えは、いつしか全世界を覆う標準的ミームとなりました。それは無神論や、科学的合理主義といったものにとどまりません。

 たとえば20世紀以降の現代芸術、マルセル・デュシャンらに端を発する現代アートや、シェーンベルクの調性の放棄からジョン・ケージにいたる現代音楽などのように、ジャンルの意味を突き詰めた挙句、ジャンルそのものを崩壊寸前まで追い込んでしまうようなところが、まさにキリスト教的な非妥協的徹底志向の産物とも言えます。

 

『チ。』のラストは、まさに、その様をみごとに描いています。

 最終第8巻にいたって、この物語は、これまで積み上げてきた壮大なドラマを滅茶苦茶にぶち壊してしまうようなちゃぶ台返しを始めます。

 地動説に対して行われていた弾圧の数々は、実は……と、いう驚愕の真実が語られ、その上、最後には別の世界線が混入し、物語冒頭で崇高な最期を遂げたはずの人物が奇妙な形で再登場します。今までの話は何だったんだ、と言いたくなるような後味の悪い展開に…。魚豊氏は、この物語を、きれいなナラティブで終わらせるつもりなどなかったようです。

 

■彼岸vs未来

 

 この終盤にいたる怒濤の展開の中で、ある人物が印象的なセリフを発します。

 

「過去や未来、長い時間を隔てた後の彼らから見れば、」「今いる僕らは所詮、皆 押しなべて”15世紀の人”だ。」「僕らは気付いたらこの時代にいた。」「別の時代でもよかったのにこの時代だった。」「それはただの偶然で無意味で適当なことで、」「つまり奇跡的で運命的なことだ。」

「今、たまたまここに生きた全員は、」「たとえ殺し合う程憎んでも、同じ時代を作った仲間な気がする。」

 

「みんな所詮は15世紀の人間」――こうした相対化は、さらに進むと「そもそもこの人類だって、いずれは滅びる」「地球だって、いずれは蒸発し、宇宙そのものも、ビッグクランチによって消滅するのかもしれない」などと敷衍してくことが可能です。「この世の全てのことには何の意味もない」という結論に至るのはあと一歩でしょう。

 観念の徹底化は、あらゆる意味という意味を剝奪し、無化していきます。

 

 では、その先に残るものは何なのでしょう。

 それでもなお何ものかを求めてやまぬ人間の深い業――「言葉」です。

 

 人間は、言葉を獲得することによって時制と人称を得ました。そして、ひとたびそれを獲得するや、それ以外の方法で世界を見ることはできなくなります。過去や未来や私や他人のいる世界を生きるほかないのです。

 動物には「ここではないどこか」がありません。別言すれば、「ここではないどこか」を持つということは、動物性から逃れるということです。この物語の登場人物たちは、弾圧する側であれ、弾圧される側であれ、動物性から、最も遠い場所にいる人たちです。

 弾圧側であるC教の人たちは、汚濁にまみれた現世より、天国における救いを重視します。弾圧される地動説側の人たちは、反対に「この世界を丸ごと肯定したい」と言います。しかし、そのためには自分が犠牲になることはいとわない。「歴史」を、「未来」を信じる、と言います。

「いま・ここ」を犠牲にしてでも「天国における救い」or「この世における未来」に希望を見出そうとする点で、実は両者は、同じくらいに言語的で、観念的です。

つまり「人間」なのです。

 この物語を読んで、深い感動に打ち震える私たちもまた、「人間」なのでしょう――。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:魚豊『チ』①④⑧小学館


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。