[AIDA]ボードインタビュー:中村昇さん◆前編:「世界は編集行為で成り立っている」

2022/10/13(木)08:01
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今年もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]の季節がやってくる。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、次なる2022年、10月開講のSeason3のテーマは「日本語としるしのAIDA」。あらたな「あいだ」に迫るべくプロジェクト・チームが始動した。新シーズンの到来とともに、過去シーズンのボードメンバーからの声に耳を傾けてみたい。

 ※内容は取材時のもの


 

新型コロナウイルスの蔓延は世界の様相を一変させました。時々刻々と変わっていく状況に揺さぶられるように、わたしたちの価値観も大きな変更を迫られています。「これまで当たり前に存在していたモノやコトをあらためて見つめ直す機会として、現在のこの状況を捉え直してみるーー」。編集工学研究所は、現在、Hyper-Editing Platform [AIDA]を通じて各界の有識者と共に「編集的社会像」というコンセプトのもと、さまざまな角度から社会のあり方を考え直しています。本稿では、『ホワイトヘッドの哲学』や『落語ー哲学』などの著書で知られる哲学者 中村昇が捉える世界および、世界との一体化に関する考えから「編集的社会像」のヒントを探ります。

 

中村昇(なかむら のぼる)

1958年10月7日生まれ。日本の哲学研究者、中央大学教授。専門は英米哲学。ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド、ベルクソンなど。1984年中央大学文学部仏文科卒。卒業論文指導教授は丸山圭三郎。1994年同大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。大学院では木田元に師事。2005年教授。2007年Center for Process Studies(アメリカ・カリフォルニア州、クレアモント大学)客員研究員。主な著書は『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ、2007)、『ベルクソン=時間と空間の哲学』(講談社選書メチエ、2014)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(教育評論社、2014)など。

 

 

◆多様性を多様なまま編集しつづける

 

―― 編集工学研究所は現在、新しい社会の捉え方として「編集的社会像」というコンセプトを打ち出し、各界の有識者の方々と一緒に思索を深める活動を行っています。今回、中村さんには、哲学という学問分野の立場から、あるいはその立場を超えて、あらためて「世界のあり方」「<わたし>の捉え方」「世界と<わたし>の関係」についておうかがいできればと考えています。

 まずはじめに、中村さんがボードメンバーとして参加されているHyper-Editing Platform [AIDA]についておうかがいしたいのですが、第4講(*インタビュー時点)までで交わされた議論で、中村さんの中に印象に残ったのはどんなセッションだったのでしょうか。「編集的社会像」というフィルターを通してみた場合の中村さんなりの感想をお聞かせください。

 

中村昇(以下、中村) 正直に言うと、すべてのセッションです。特に環境ジャーナリストである石弘之先生(第2講)と進化生物学者である倉谷滋先生(第4講)の講義は事前に先生方の著書を読んでいたこともあり、非常に楽しめました。

 ウイルスについては、今回の新型コロナ禍以前から興味がありましたので、石先生のお話をすべて吸収しました。倉谷先生のお話も、途方もなく面白かったと思います。それと松岡正剛さん(編集工学研究所所長、イシス編集学校校長)のお話が、やはりよかったですね。若い頃から、「編集」や「相似律」といった概念に興味を持っていましたので、直接身近でお話を聞けるというのは、この上ないことです。松岡さんの方法論が具体的にさまざまな対象に見合ったかたちで提示されるのをみると、とても刺激を受けます。石先生のセッションだったと思いますが、松岡さんが「多様な言説を持つ必要がある」と言われた時には、私のなかで今までもやもやしていたことが、一挙に分かったような気になりました。そうか、そうだったのか! という感触です。

 

 「編集的社会像」という概念は、その「多様な言説」という観点から私なりに考えれば、社会に関する単一の考え方や、あるいは分かりやすく対立する考え方を、すべて丁寧にほどいて、多様で複雑で錯綜した言説の海で、流動化させるという感じになります。つねに流動化した状態で、そのつどアドホックのように見えて、一貫させるようなやり方で編集していく。これはしかし、松岡さんしかできないかもしれませんが。分かりやすい考え方や、誰でも思いつくような語り方ではない、多様性を多様なまま編集しつづけるといった方法論ではないかと思います。

 ですから、「編集的社会像」とは、かくかくしかじかのものですよ、とは、絶対に言うことのできないものだと言えます。1つや2つや3つ程度の方向ではなく、多くの方向を同時に提示するような社会のあり方を編集しつづけるといったところだと思います。

 

―― 「遊学する土曜日」を含め、これまで中村さんは松岡正剛という存在からどのような刺激を受けてこられたとお考えですか。

 

中村 これは、もう一冊の本に書きたいくらいたくさんあります。19歳のとき、同じ予備校で知り合った加藤さんという人に連れられて、渋谷の松濤にある工作舎に行って、松岡さんのお話を伺ったのが最初でした。これが「遊学する土曜日」です。とにかく驚嘆しました。もちろん、高校の時に『南方熊楠全集』にノックアウトされましたし、ルドルフ・シュタイナーも大好きでしたので、該博な知識を持つ人間が、この世界に存在している、あるいは存在していたというのは、知識としては知っていました。でも、九州の田舎から出てきたばかりの予備校生の眼の前に、生(なま)の「博学多識」が、いるのです。「これが、東京なのか!!」と感動とともに興奮しました。でも、それ以降40年以上東京にいますが、松岡さん以上の方に出会っていないので、東京の問題ではなかったのです。あたり前ですが。

 

 これは、本当にきりがないので、これくらいにしますが、一時期までの松岡さんの本は、再三再四全部読みました。さすがに自分の専門が忙しくなったり、あまりにも膨大な著書を陸続と出版なさいますので、いまは、もちろん全巻読破といわけにはいきません。でも、いまだに『存在と精神の系譜』、つまり『遊学Ⅰ・Ⅱ』は、手元において、よく読んでいます。それに、これは今でもはっきり覚えているのですが、『空海の夢』を読んだ時、松岡さんを追いかけても、とてもかなわないし、自分自身の方法論とは違うんだな、と気づいたのです。もっと収斂していく書き方を自分は目指しているんだな、と思ったのです。『空海の夢』は、それこそ、多様な視点が、これでもかと登場して、最初読んだ時は、私は少し違和感を覚えました。もっと「空海」に収斂してほしいと思った。ですので、「多様な言説」という松岡さんのこの前の言葉には、ハッと驚かされました。何もかもお見通しなんだな、と。なんだか、気づくのがめちゃくちゃ遅いですが、しょうがないですね。そういう人間なので。

 

 私の研究や人生には、松岡さんは、甚大な影響を与えています。私の40%くらいは、松岡正剛でできあがっているといっても過言ではありません。とにかく、いまやっている研究は、松岡さん由来のものが多いと思います。

 

 40年ぶりに再会したのは、奇跡のようなものだと思っています。いまだに、何が起こったのかよく分かりません。明日あたり夢が覚めるのではないかと思ったりもします。久しぶりに会って、ますます松岡さんの凄さを体感しています。もし、私にあと40年くらい寿命があれば、『松岡正剛論』を書きたいと思っています。健康に留意しなければいけませんね。

 

―― 中村さんの『松岡正剛論』、ぜひ拝読したいです。ところで、中村さんは落語に関する著書もあるくらい、落語がお好きだということですが、中村さんにとって落語とはなんでしょうか。また、落語と哲学との関係性について、編集的世界像という観点から中村さんのお考えをお聞かせください。

 

中村 笑いはとても重要だと考えています。なぜ重要かというと、この世界のあり方である「不条理」を、一瞬で破壊してくれるからです。

 私たちの存在は、その基底が、非合理的なものです。国家、政治、経済といった、一見合理的なシステムで成立していますが、よく考えれば、なぜそんなシステムが存在していなければいけないのかということは、誰にも分かりません。つまり、この社会のシステムは砂上の楼閣なのです。「非合理の上の合理」なのです。

 そして、そのことこそ哲学が相手にしなければいけない領域だといえるでしょう。「なぜ」という問いです。そして、この哲学が相手にしなければならない「非合理の上の合理」をあぶりだしてくれるのが、笑いだと思います。世界を根底から笑いでひっくり返し、破壊するのです。そういう笑いは、哲学と同じ志向を持っているといえるでしょう。世界や存在の基底を垣間見せる機能を持っていると思います。

 

 私のなかでは、落語家と言えば、古今亭志ん生さんと古今亭志ん朝さんのおふたりです。

 私は志ん生さんの『火焔太鼓』から落語に足を突っ込みました。そして、落語の最高傑作は志ん朝さんの『文七元結』だと思います。

 さきほどの笑いの働きでいえば、志ん生さんは、「破壊王」とでも言いたくなります。志ん生さんは、世界を破壊しつくします。枕で、くすぐりで、高座で眠ることで、世界を破壊し、われわれが偽の秩序に拘束されていることを教えてくれるのです。とにかく自由で、この世界の不条理をそのまま体現したような存在なのです。

 息子の志ん朝さんは、まったく逆です。完璧な世界を構築します。この猥雑な世界とは異なる美しいイデア界を現出させるのです。志ん朝さんのこの底知れない構築性も、とんでもない魅力です。

 志ん生さんの破壊と志ん朝さんの構築。この2つの巨大な才能が、私にとっての落語なのです。

 

 このことが「編集的世界像」とどうかかわるかは、うまく説明できません。ただ、さきほどの「非合理の上の合理性」を笑いがあぶりだすという点からすれば、志ん生さんの笑いは、「非合理」であり、志ん朝さんの噺は「合理性」だと言えるでしょう。そして、世界を編集する際には、非合理的なわけの分からなさを必ず意識して、合理的な物語を創造していくというやり方をとるということでしょうか。志ん生さんが背後霊として志ん朝さんの高座にくっついてくるというイメージかもしれません。

 

 

◆「回顧的分岐」というあり方と多世界解釈

 

中村昇

 

―― 現在の政治的、経済的、文化的状況の脆弱さは、新型コロナウイルスの蔓延によって、とてもわかりやすい形で浮き彫りにされてきました。さまざまな社会的基盤の脆弱性を見つめる過程で、これまで思考の拠り所としてきた価値観、常識とは一体何だったのかということを考えざるを得ないことになるのですが、そのような思索の過程で、「世界」とはいかなるものだったのか、「世界」を考える<わたし>とは何なのか、という哲学的な問いにも突き当たることになるわけです。この問いを考える手掛かりとして、中村さんはさまざまな場所でアンリ・ベルクソンの「回顧的錯覚」という概念に言及されています。

 

中村 「回顧的錯覚」は、過去のある時点の多くの可能性のなかから、1つの可能性のみを取り出し、それを原因として、現時点のあり方を考える錯覚のことです。

 たとえば、わたしは今、哲学の教員として哲学に携わっています。わたしは小さい頃から、生きる意味や死ぬことについて悩んでいました。しかし、「だからこそ今、自分は哲学の先生になった」という因果関係を作るのは、ベルクソンによれば錯覚なのです。

 そもそも小さい頃は、誰でもそうですが、可能性がたくさんあったわけです。わたしは、ごく小さい頃はお坊さんになりたかった。スキンヘッドと黒装束がとても素敵でした。手塚治虫に憧れて漫画家にもなりたかった。ウルトラセブンも大好きでしたし、プロレスラーにもなりたかった。中学になると宮本武蔵<本人>にもなりたいと思い、資料を集めたりもしました。ベルクソンの考え方では、このようにさまざまな可能性があり、歳をとるにつれて、その都度の創造的な瞬間が積み重なって<今>になった。その結果、たまたまわたしは哲学の先生になっただけなのです。そこに、分かりやすい因果関係などない。

 だから、たくさんの可能性のなかから、もっとも現在の状況に見合った事象だけを、さかのぼってピックアップするのはおかしい。説明に都合のいい事柄だけをとりだして原因だと決めつけるのはおかしい。これがベルクソンの「回顧的錯覚」という概念です。

 

―― そしてこの概念を使って、中村さんは「回顧的分岐」へと思考を進められています。これはどういうことでしょうか。

 

中村 そうですね。ちょっと無理やりなのですが、「回顧的分岐」というのは、この「回顧的錯覚」という概念と、量子力学の多世界解釈とを合わせた考えです。量子力学の多世界解釈は1957年にヒュー・エヴェレット3世が提唱しました。主流のコペンハーゲン解釈とは異なる解釈です。どういう解釈かというと、ミクロのレベルで確率論的な状況なのであれば、マクロのレベルでも同じでなければならない。つまり、ミクロのレベルでは、ある選択をすれば、そのつど多世界に分岐するだろうという考えです。「世界は分岐し、多くの世界が並行している」という解釈ですから、SFのようだといって、物理学の世界では人気がなかったのですが、最近ではだんだんと主流になりつつあります。

 この多世界解釈を真剣に受けとめれば、私の過去の諸々の可能性が、いまも同時に存在しているのではないかと考えられるというわけです。多くの分岐した別の世界では、中村が曹洞宗の僧侶になっていたり、漫画家になって「鬼滅の刃」のようなベストセラーを出していたり、宮本武蔵本人になって、関ヶ原の戦いに参戦しているかもしれない。

 そうすると、中村R(real Nakamura)はこの世界では大学教授ですけれども、他の世界では、中村A、中村B、中村C……が別の人生を生きていることになります。それらと今の中村(中村R)は分岐してしまったので、二度と交差することはありませんが、すべての世界での<わたし>の可能性が、今の<わたし>に反映され、畳み込まれていると考えることもできるはずだと思います。

 すると、中村Rに着目しただけでも、それは「大学の先生」という、たった1つのアイデンティティを持っている存在ではなくなります。非常に多重で錯綜した人格が、畳み込まれた存在だと言えるでしょう。もちろん、意識はできませんが。このように、われわれの存在を、いわば「多重人格的な自己同一」というあり方でとらえ、そうした多層性を前提にして、自己を編集していく試みが、「回顧的分岐」という考え方です。

 

―― 編集工学で言うと「エディティングセルフ」や「エディティングキャラクター」とも通じる考え方ですね。

 

後編へつづく

 

執筆:弥富文次
取材:橋本英人(編集工学研究所)
取材/撮影/編集:谷古宇浩司(編集工学研究所)

 

※2021年3月17日にnoteに公開した記事を転載

  • エディスト編集部

    編集的先達:松岡正剛
    「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。