[週間花目付#22] イシス的贈与論(序)

2021/11/09(火)08:40
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週刊花目付

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■2021.11.01(月)

 

「コップは何に使える?」

 

 思えば編集稽古は禅問答のようだ。「どうしてそんなことを聞くの?」と問い返したくなるようなお題が、唐突に、投げられる。その不可思議なお題そのものを、カリントウ蒔田俊介が問い直した。花伝所名物花Q林の開幕である。

 

「〇〇は何に使える?」
あなたなら「〇〇」を何にしますか。

 

 そうなのだ。コップに別様の使い方があるように、お題にだって別様の問い方が想定できるはずなのだ。

 ただしお題づくりにはコツがある。問いによって連想が誘われること、そのとき「たくさんの私」が多様に変化できること、共訳可能性に富んでいること、暗示性が高いこと、数寄好奇心が出入りできること、等々。

 


■2021.11.02(火)

 

 何度でも言うけれど、「わからなさ」はギフトだと思ったほうが良い。

 

 かのマルセル・モースは、ゲルマン語系の「ギフト(gift)」という語が「贈り物」と「毒」の意味とを併せ持つことに触れながら、贈与のもたらす「負債感」について説明している。

 つまり、学びの場において学習者は与えられた問題への回答義務を負っているのである。そのことが冒険を駆り立てもするし、不足を突きつけもする。

 

 「わからなさ」を抱くことは、たしかに居心地は良くないかも知れないが、「わからなさ」には「わからない」という状態についてのアウェアネスがある。そのアウェアネスこそが、編集的振動状態を励起させるトリガーとなる

 


■2021.11.04(木)

 

 「わからなさ」のもどかしさに耐えきれなくなった入伝生から「give up宣言」が届いた。その姿勢を正直で潔い割り切り方だと受容することもできるが、ギフトの贈与側からすると受け取りを拒まれた状況でもある。ギフトの価値は被贈与者側の評価次第だ。

 

 編集稽古における問感応答返は「贈与交換(*)なのだとあらためて思う。問う者が贈与者で、答える者が被贈与者だ。そこで交換される情報は「等価交換」ではないから、問答の収支決算には不均衡がつきまとう。
 その不均衡は、「感」と「応」のズレやスレ違い、誤解、曲解、想定外などと言い換えることができるだろう。それらの「毒」を、すべて受容しながら意味や価値のリフレーミングを起こすことを訓練するのが編集稽古だ。

 

問感応答返贈与交換

 

◇編集稽古の場で「情報(=意味+方法)」は「問答」として交換される。このとき、情報には(Quality)と(Quantity)とがあって、送られる【問】と返される【答】の情報質量は等価ではない。

 

◇では、その交換収支の差額はどこへ行くのか?

1.交換コスト(【感】【応】)として消費される/あるいは外部系から投入される。
2.被贈与者の「負債」として留保される。
3.場外へ【返】として放出される。

問感応答返は【感】と【返】の相において外部系に開かれている点に留意しておきたい。

贈与交換は、半開複複環構造のメディアにおいて負債を「負い目」としないシステム構築の可能性へ通じているだろう。

 

 いわば編集稽古は、不均衡な交換について寛容な市場なのだ。そしてその寛容さが「別様の可能性」の土壌となっている。
 資本主義の根本原理である「等価交換」ではなく返礼の義務づけられた「贈与交換」でもなく、ハイパーな「◯◯交換」の仕組みを考えていきたい。

 

 いや、待てよ。むしろ「贈与○◯」と空文字をズラして「贈与代謝」と当ててみてはどうだろう? そもそも生命は借りものなのだから。

 

 

■2021.11.05(金)

 

 36[花]指導陣を招集してzoomで作戦会議。指導方針の仮設と共有など。

 花伝所では前期から錬成師範を道場に配して、チームでの指導体制を組んでいる。その多層立体ブラウザーが、今期はますますキビキビと躍動している。

 

 とはいえ、指導の充実は必ずしも演習成果を約束しない。式目演習は自学自習が旨であるから、指導陣は入伝生の「エディティング・キャラクターの発露」を誘うが、「エディティング・セルフの自立」の訪れは当人による発破を見守るしかできない。

 

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  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。