参加者や遊刊エディスト読者にはまだ記憶に新しい、9月10日・11日の第79回感門之盟。その2日目での鈴木康代だ。まったく思いがけない花束贈呈に、石楠花色のドレスを纏った女神は、胸を詰まらせて泣いた。
イシス編集学校の入門編となる[守]講座。その学匠の大役を引き受けて早10期。冨澤陽一郎という大先達の足跡をつないで5年。鈴木康代が一心不乱に耕し続けた編集工学の苗代には、いつでもどんな方法の種も蒔かれる用意がなされてきた。
現在に至るまで、そこに遊んだ教室は200近く。このわずかな年月に、師範代と学衆だけでもおよそ2000人以上は編集の種を萌芽させていったことになる。
* * *
そこで思い出されるのが、2020年6月、45[守]2回目の伝習座だ。
最後のプログラムとなる「校長校話」は、いつもと趣向を変えて、校長・松岡正剛と学匠・鈴木康代との対談形式となった。名付けて「鈴木康代劇場」だ。
いつも師範代や師範、番匠の語りを一番に考え、自身は誘い水に徹する鈴木だが、そこにこそ抜群の「編集的方法」がひそんでいることに松岡は瞠目していた。
「伝習座」は、いわば師範代の勉強会のようなもので、開講前と開講中に計2回行われる。師範代にとっては、日々の指南と教室運営で抱える不安や孤独感などを共有できる場でもある。
そもそも「編集は遊びから始まる」を旨とするイシス編集学校の「お題」には、「正解」がない。指南にだって要訣こそあれ、一挙手一投足まで注文をつけるようなマニュアルは一切ない。だからこそ難しく、伝習座2回目ともなれば、師範代の胸中にはそれぞれの迷いや悩みが渦巻いている場合がほとんどだ。
折しも45[守]は、新型コロナウイルスの感染拡大による世界的自粛の中で開講した期であった。冒頭の学匠メッセージで、鈴木は師範代に向け、zoom画面越しにこう切り出した。
「向こう側へ声を届ける、ということ――」
いくらオンラインが発達したとはいえ、オフラインの温度感がともなえばこその便利であって、互いに画面の住人のまま一期一会をともにするのでは、他生の縁も霞んでしまう。新型コロナウイルスが跋扈するまで、イシス編集学校の学びは、オンライン上のテキストによる「問感応答返」と、折々のリアル対面を両輪としていた。望まぬ片輪走行を余儀なくされてしまったコロナ禍で、編集学校もこれまでにない挑戦を迫られていた。
「オンラインを単なるファンクション(機能)と捉えてしまっては、画面の向こう側にいる人たちの世界を想像できない。zoomもそう。簡単に人と会うことが難しくなった今、これからの編集稽古に大切なのは『ここにとどまらない』こと。いろんな意味で、おもしろく“瀬を渡る”ことができる。今がその時なんです」
メタフォリックでありながらフィジカルな鈴木の言葉に、聞く者たちの心を縛っていた枷がパチン、パチンと外されていく。うん、うん、と、本楼の一画に座する松岡が頷く。鈴木は続けた。
「松岡校長はいつも相手のトポス――存在する場所――からアフォードされたものを取り出し、その人に逆照射する編集をしています」
鈴木はそう結ぶと、語りの主役を、番匠、師範、師範代へと明け渡した。
* * *
本題の「鈴木康代劇場」に進む前に、もうひとつ、持ち出しておかなければならない話がある。
人間・鈴木康代を語るために、絶必の余談だ。
時間はもう少しさかのぼる。2016年3月20日のこと、福島県郡山市で「ふくしまの記憶と祈り ~大地と空の物語~」という無料イベントが開催された。
郡山市民の鈴木康代を中心とするイシス編集学校の有志が集まり結成した「ふくしま再生プロジェクトの会」による、3度目のイベントだった。
早春の郡山はまだ寒く、それでもチラシを手に集まる観客たちの瞳には、冬から解き放たれる安堵のぬくもりが兆していた。東日本大震災から数えて5年。それは、ふるさとが失った当たり前の日常や取り戻せない時間を、大切な何かに変換するために鈴木が奔走した5年でもあった。
プログラムの要は、福島県を中心に活躍するギタリスト5名によるギター演奏だ。時にソロで、デュオで、合奏でと、贅沢に趣向を凝らした構成で、古典からビートルズまでを繊細な音色で響かせる。それは切ないほどに美しく、そのまま福島の澄んだ空まで届くのではと感じられるのだった。
その後、会場の観客全員で歌いましょうと、多くの人が耳なじみのある「ふるさと」「花は咲く」が用意されていた。初めは遠慮がちに歌い始めていた人たちも、フレーズを追うごとに郷里の面影が歌詞に乗るのか、一人ひとりの声に温度が増していく。今までそこにあったはずのあたりまえ。決して忘れられることはない、大切な人たちとの記憶。ふるさとと生きることとは、どこにいようとその土の上に一途に立ち続けるということなのだ。
鈴木康代はそのポエジーを、言葉ではなく「人が何かを分かち合う場」に託した。彼女がただ一筋尽くしたことは、その「用意」のみであった。
* * *
45[守]伝習座のラストを飾る「鈴木康代劇場」を、どうしつらえるか。
松岡は初め、本楼の壁いっぱいにスクリーンをかけ、安達太良山や阿武隈川といった鈴木をはぐくんだ福島の自然の映像を流そうかと考えたという。しかし、そうではないなとすぐに思い直した。鈴木康代のたたずまいに、それらの気配はすべて活写されていたからだ。
かくしてテーブルをL字に囲んだ2人の対談が始まった。それはなんだか密談のようでもあり、奥の棚につつましく活けられた濃紫のあじさいと鈍色の香炉が、本楼を「ふたりの庭」のようにしてしまう。
そして、あじさいの色になじんで見過ごしそうになるが、花器の手前に、そっと立てかけられた本。そのひとつが綿矢りさの『インストール』……! 小さな爆弾のように仕掛けられたそれは、松岡から我々聴衆に問うなぞかけでもあった。
話は、鈴木が学匠という大きなロールを引き受けたときの胸の内を語ることから幕を開けた。
「できるとかできないとか考える余地はそのときはなくて。とにかく前に進まなくちゃと思っていました」
鈴木は言う。学匠と師範の間をつがう「番匠」を務めていた時は、街をつくっていく心持ちだったと。それが学匠となった途端、その街に「IN/OUT」と高速で出入りする人の気配が見えてきたのだという。
「最初はその仮想領域に自分を置くというのがイメージできなくて。ロールが変わると立ち位置も変わるので、どう編集していたたらいいかわからず2週間くらい悩み、自分自身が閉じてしまいそうになりました」
間髪入れずに松岡が返す。
「それを高速に通り抜けたね」
では、一体どのあたりで学匠というロールの勘所をつかめたのか。鈴木は、1期目が終わった時に、あることに気がついたのだという。
「イメージしたときに異質だと感じるものを、自分の持ち手で編集しない」
なんでも自力でやればいいというものではない。それは、思い切った選択だった。
鈴木はとにかくすべての教室で交わされる回答や指南を、読むのではなく「見た」。観る、診る、視る、看る、いろんな「みる」もあっただろう。編集学校では「抱いて普遍/放して普遍」という言葉をしばしば用いる。人間・鈴木康代は、学匠・鈴木康代に変ずることで、それをまず自分なりに体得したのだ。
その選択がいいんだ、と、松岡は頷いた。普通、場がアジールのようになると閉じてしまうものだと。
「アジールを開放的にしているのは『あなた』ですよ」
松岡は、きっぱりと言った。
* * *
これまで鈴木康代学匠のもとで師範代となった人は気づいていただろうか。
鈴木は、伝習座が本楼でのリアル対面のときも、オンライン開催であっても、一人ひとりの表情や様子を、ものすごくよく見ているのだ。zoomであれば、全員の顔をちゃんと画面に映し出し、ニコニコと見渡している。師範によるレクチャーの時間になれば、師範代と一緒に聞き入ったり笑ったりしながら、まるで同じ場所でひざ突き合わせているかのように、一座建立の下支えをしているのだ。
ああ、こうしていつも「こちら」と「あちら」をふわふわ軽やかにまたぎ、小さな橋をいくつもかけているのだな。ノートパソコンの小さな画面を前のめりになって覗き込む鈴木の横顔を見て、そう思った。
伝習座の終了後、鈴木に少しプライベートな質問をしてみた。
「自分より相手」の鈴木康代は、途端に言葉を選べなくなった少女のように照れるばかりだったが、ぽつりぽつりと話してくれたのは、「いつも自分は何もできていないもやもやを抱えているのかも」という告白だった。
東日本大震災のとき、鈴木は24[守]で初めての師範ロールを務めていた。地震が起きて1~2日目は、まだ生きるということに前向きだったという。しかし、3日目以降の原子力発電所爆発、あのときに初めて「ああ、もう、ちょっとだめだ」と思ったのだそうだ。
「地元が混乱し、自己と世界が分断されるという感覚に襲われた時、編集学校のラウンジを開くと、たくさんの人とつながっていたんですよね。その数日間は世の中から取り残されそうな気持ちだったけど、私には行くべき場所があると思えた。何も迷いませんでした」
3.11直後に行われた伝習座に鈴木康代が郡山から駆けつけたことは、今でも当時の関係者の間で語り継がれる伝説である。
「いつも敷居をまたいで来ている気がします。ロールもまたぎ続けていくうちに何かが変わってくる。そのたびに自分の中で編集が起きているということを、ぼんやり感じていました」
元をたどれば、師範代になったのも、破を受講した際の師範代から「鈴木さんはダークホースなんだから花伝所に行きなさい」と言われたことがきっかけだったのだという。
「なんだか嬉しくて、照れながら学衆仲間に伝えたら『それって褒め言葉なのかなあ』とつっこまれて(笑)」
そう破顔しながら、気の置けない仲間たちとの思い出話も明かしてくれた。そのときから鈴木はもう、何か大切なものを引き取っていたのである。
対談の終盤、松岡正剛がこれは必ず鈴木康代の口から語らせようと決めていたかのように、彼女のある特質を取り出した。
「毎回、ずいぶん準備しているね」
「準備をどこまでとことんやるかというのが大事なのかな、と思います。用意をして卒意するときに、また用意を脇に置くというか……」
「そうだよね。卒意爆発という感じだもんね、いつも」
「どれだけ用意しているものを捨てているか、だと思います」
「それはもう名人ではなく達人だよ。よくそこまで育ったのう(笑)」
このやりとりを聞きながら、鈴木康代は誰よりも編集という営みをハイパーな領域まで押し上げようと泥まみれになっているのだ、ということにハッとした。闘病で亡くなる間際まで編集学校の動向を見守り続けた先代の冨澤にもこの対談を見せたい。心の底からそう思った。
「鈴木康代だからこそ校長が対談をやる気になった、というところを今回はみなさんに聞いてもらいました。今日をもって、冨澤のすべてを抱えてまた前に進んでください」
* * *
それから5期を経て、今秋幕開く50[守]である。
先の感門之盟で松岡は、「この先10期もよろしくね」と、鈴木をさりげなく鼓舞した。
そのとき鈴木のほほをつたった熱い涙は、これまで見守ってきた師範代たちの流した汗や涙にも思えてくる。かつ、これからデビューする師範代たちのそれでもあるだろう。
鈴木康代という土壌には、鮮烈な編集欲の石清水がある。
そのひとしずくが、明日の種を蒔く師範代の力水となってゆく。
植田フサ子
編集的先達:幸田文。熊本を愛し、言葉を愛し、編集を愛する。火傷するほどの情熱にきらり光る編集力、揺るがない正義感をもつライター兼編集者。常に多忙で寝落ちもしばしばなのはご愛敬。
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