梅園に学ぶ、21世紀の学びの方法【輪読座 三浦梅園『玄語』を読む 第一輪】

2023/02/17(金)08:00
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2022年10月~2023年3月に開莚中の輪読座は「三浦梅園『玄語』を読む」である。初回は梅園のルーツと梅園の生きた時代を巡った。

 

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◆梅園の郷・国東

大分県の北東部に国東半島がある。周防灘に丸くぽっこりと突き出した半島の中心部には標高721mの両子山が構え、中腹に両子寺がある。718年に開創された古刹だ。両子山を中心とした山稜の間に開かれた六つの郷、満山はそこに開かれた寺院群を指し、古くから「六郷満山」と呼ばれる独特の山岳宗教文化が栄えた。国東にはいまだ多くの寺院が残る。

 

九州北部で山口県側にポコリと突き出しているのが梅園の生きた国東半島

両子寺の仁王像。梅園の祖先は両子寺の参詣ルートに入植した

 

17世紀半ば、三浦梅園の曾祖父・清兵衛義正が両子寺参詣ルートである富永村に一族で入植した。梅園の祖父・義房は医者でありながらも農業機械などをつくる技術に優れ、数学にも長けていて数学書も残す。父・義一も祖父同様に医者であり、長崎への旅を俳句に綴り書物に記す俳人でもあった。梅園が両子山のふもとに誕生するのは1723年。八代将軍吉宗の時代である。

 

享保17年(1732)の夏、冷害とバッタなどの蝗害によって西日本の稲作は大損害を受けた。杵築藩も例外ではなく、藩儒であった綾部絅斎は杵築藩に財政出動を願うも閉門蟄居を言い渡されてしまう。三浦梅園の父・義一は困窮した村民の救済に私財をはたいて奔走した。7年後、閉門を解かれた綾部絅斎宅を17才の梅園が正月の挨拶を兼ねて訪問すると門弟にしてもらいたいと申し出る。中津藩儒の塾に逗留もした。田舎の豊かな自然観察から世界を認知しようとしていた梅園が実践哲学に触れて学問の扉を次々と開いていく。

 

梅園の私たちに対する説得はこのようにして、切々として迫って来ます。「枯木に花咲きたりといふとも、先づ生木に花咲く故をたづぬべし。」

このように、変にでなく、却って常に対してたずね求めゆく心こそ哲学なのです。

 

『梅園哲学入門』三枝博音 科学図書館

 

 

梅園は小さな国東半島というところで、花を見たり、空を見たり、近所で働いているじっちゃんばっちゃんを見て、彼らは何を語り、何を悩み、何を望んでいるのかということから自分なりの「条理」をつくりあげた。自分なりの学問体系を整えたんだよね。


梅園の生きた時代に踏み込む図象解説は「三浦梅園の世界史と学問の意義」と題して戦国時代から始まった。梅園誕生の200年前から始めるの?という思考が脳をかすめた矢先、「年表は最低限のバックデータです」という輪読師バジラ高橋の言葉がとんできた。

 

 

◆江戸初期:朱子学の流入

世の中が戦いの渦にまみれた16世紀序盤。日本の銀産出量は世界の3割を占め、供給網をおさえていた。ポルトガルから鉄砲が伝わると鍛冶師が鉄砲を国産製造するようになる。戦国大名の領地拡張にともない流通拠点となる「辻」が発生し、技術は高まり産業・商業は栄えていく。16世紀終盤には貨幣が統一され度量衡をとりいれて税を透明化するなど、藩それぞれでの運用から統一された規格運用がなされるようになっていく。秀吉はこのシステムを東アジアに広げることを妄想していた。朝鮮出兵は秀吉の死によって頓挫するが、文禄・慶長の役で日本に流れ込んできたもののひとつが朱子学だ。徳川幕府に儒学イデオロギーが一気になだれこむ。幕府は徳川体制構築にあたって藤原惺窩や林羅山らを擁して儒学を政治思想に採り入れようと動く。目的は日本モデルの設定に加え、政治体制の絶対化と幕藩社会のための道徳の確立、その範囲での宗教の許容をはかること。仏教の力は使いたくない。キリスト教はヨーロッパの侵略を招く。そういった環境下で世俗社会の規範や道徳を整える手が儒学にしかなかったともいわれている。

 

幕府は徳川体制を構築するにあたって、まずもって藤原惺窩や林羅山に頼んで中国の儒教儒学のエッセンスを政治思想にとりいれようとします。なぜそのようなことをしたかというと、日本政府としてのレジティマシー(正当性)がほしかった。

(中略)

手っ取り早いのは、日本の歴史や特色がどうたったかなどということとほとんど関係なく、ある国に理想のモデルを求めてそれに近づくことです。徳川幕府にとっては、それは中国でした。

 

『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』 松岡正剛 NHKブックス

 

◆家光~綱吉時代:古学の萌芽

朱子学が幕府の官学というお墨付きを得たとはいえ、政治が円滑に進んだわけではない。儒学は社会にはどんどん浸透するも、三代将軍家光の頃までは武力で支配する武断政治を執っていた。牢人が関与する事件が続発するなど次第に政治も転換期を迎えると儒教的な徳治主義で秩序を保とうとする文治政治に移行していく。家光没後に四代家綱の将軍補佐となり、その後10年にわたる文治政治の幕政を中心的に仕切ったのが保科正之であった。保科正之の儒学の師が山崎闇斎である。ここで朱子学路線がやっと現場の幕政と結びつく。

 

同時期「日本とはどういう国であるべきか」という議論が巻き起こる。朱子学を批判する古学派として山鹿素行・伊藤仁斎・荻生徂徠が出てくる。山鹿素行は40歳の頃から朱子学への疑問を募らせていた。後に打ち出したのが、中国を離れて日本を主軸にしてしまえばいいという「中朝論」だ。伊東仁斎ははじめは熱心な朱子学の徒だったが36歳になるころ、朱子の与えた枠組みでは孔子や孟子の言葉が生きてこないという思いを強め、朱子による古典の理解が誤りであることを主張していく。仁斎が重視した「古義」には、朱子によって歪曲させられてしまった本来の意味を再び明らかにしたという自負が込められており、仁斎が開いた京都の古義堂は、仁斎の子、伊東東涯に引き継がれる。仁斎から40年ほど後に荻生徂徠が出現する。元禄9年(1696)五代将軍綱吉の時、徂徠は側用人の柳沢吉保に抜擢され柳沢邸での講学や政治上の諮問に応える役割として士官する。

 

貨幣経済は発展するも幕府の財政は破綻寸前である。幕府は、金の含有量比率の低い小判を鋳造する。それまでの小判の貨幣価値が下落してしまうことから、投資意欲が増強し好景気につながっていく。

 

 

山鹿素行(1622~1685):朱子学的解釈を批判。『中朝事実』で日本が世界の真ん中として中華になるのがいいという日本主義を主張 /伊藤仁斎(1627~1705)・伊藤東涯(1670~1736):孔子・孟子の古典に立ち返ろうとする古義学を提唱。京都堀川に古義堂(堀川塾)を開いて民衆に開かれた儒学を確立 /荻生徂徠(1666~1728):実証的な文献学、その考究を通して天下を安泰に導く経世論を説く。江戸の茅場町に私塾蘐園塾を開く

 

 

◆家宣~吉宗時代:学問の多様化

宝永6年(1709)、五代将軍綱吉が亡くなると家宣将軍を取り巻くブレーンも一変。新井白石が登用される。白石は木下順庵について朱子学を学び、甲府藩主であった徳川綱豊に仕え、綱豊が六代将軍家宣となると将軍を補佐して幕政改革にあたった。木下順庵は藤原惺窩の学統を継いだ朱子学者で、白石の他にも室鳩巣・雨森芳洲らを育てている。白石は小判の金の含有率を元に戻し、良質な貨幣を流通させようとする。金銀の海外流出を防止するために貿易額にも制限をもたせ、銅や俵物での決済を導入するなど、正徳の治を推進した。

 

木下順庵(1621~1698):綱吉の待講。のち木門派を形成し、新井白石・室鳩巣らの人材を輩出/新井白石(1657~1734):家宣に仕え、正徳の政治を主導する。儒教に基づく理想主義的政策を行う/室鳩巣(1658~1734):幕府儒者となり、吉宗の待講となる

 

 

1716年、八代将軍吉宗が将軍職につくと白石はあっさりと罷免されてしまう。幕府は変わらず財政難で、年貢米の割合を増やしながらも新田開発に取り組み幕府の財政は持ち直していく。このときに待講としていたのが、綱吉以来の登用となった荻生徂徠と室鳩巣。将軍吉宗の諮問に応えて徂徠が書いた書物が『政談』(千夜千冊#1706夜)だ。それまで排除されていた蘭学の制限緩和をしたのもこの時代であれば、飢饉等によって一揆や打ちこわしなどの民衆運動が徐々に増えるのもこのころからだった。

 

 

コメントのなかで一番目立つのは、まとめれば次のようなことだ。①日本(江戸)の景観が激しく変わりつつあること、②家康が存命中に政治制度を確立できなかったことによる弊害の多さ、③武官官位が続いている問題、④白石が試みた貨幣流通システムに対する批判、⑤財政危機を一回かぎりの徳政令で緩和するのがいいという提言、こういったあたりだ。 

 

千夜千冊#1706夜『政談』荻生徂徠

 

文治政治になるとアカデミー集団が政策を提言するようになってくるわけ。今はこういう世界だからこういう政策にしましょうとなってくる。梅園は、当時の学問は全部だめだといっているんだけれども、そこまでの事を全部把握した上で、日本という構造ができるプロセスを把握した上で書いているんだよね。


 

◆単独派・梅園

梅園が生きるのはこの先の「宝天文化」といわれる時代である。日本儒学と国学と蘭学と懐徳堂が入り乱れた時代でもある。若かりし梅園の師事した綾部絅斎は伊藤東涯、室鳩巣に学び、逗留した塾の藩儒も伊藤東涯に学んでいる。伊藤東涯は古学、室鳩巣は南学ルーツだ。梅園は、綾部絅斎の子で江戸の天文学者となる麻田剛立とも親しくしていたし、大阪で懐徳堂をおこした中井竹山・中井履軒兄弟とも文通をしている。多様な学派がはびこった時代に梅園は “まったく独創的に「条理」の哲学を打ち立てようとした単独派” だと『日本という方法』で謳われている。

 

 

梅園は人生で3度旅をした以外は生涯国東で過ごした。江戸や大坂や京都での学問を志す者もいただろう中、祖父の代からの医術を継ぎ私塾で塾生に指導をするというのは相当に土着性が高い。都会に執着せずにローカルを起点にグローバルに繋がろうとする21世紀の生き方にもつながるように見える。

 

梅園の方法的な自覚の鋭さは、「多賀墨郷君にこたふる書」に窺うことができる。私たちが「天地の条理」を捉えられないのは、「なれ」ることで(「見なれ」「聞なれ」「触なれ」)不思議を不思議と思わなくなってしまうからだ。天地の事物を事物のままに即物的に捉えて、それは何故かと疑うことが大切だと梅園は言う。簡単に「合点」してはいけない。

 

『江戸の思想史』田尻祐一郎 中公新書

 

学びの芽も兆しも、そこら中に転がっている。

 

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梅園の一対モデルの学びは3月に向けて深淵に向かっていく。図象解説やテキストを受けて「玄語」創作にもトライできる輪読座は毎回アーカイブ視聴できるため、いつからでも、どこでも受講可能である。

  • 宮原由紀

    編集的先達:持統天皇。クールなビジネスウーマン&ボーイッシュなシンデレラレディ&クールな熱情を秘める戦略デザイナー。13離で典離のあと、イベント裏方&輪読娘へと目まぐるしく転身。研ぎ澄まされた五感を武器に軽やかにコーチング道に邁進中。