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【三冊筋プレス】白い伽藍を藍と真紅で染めたなら(小濱有紀子)
- 2020/04/16(木)10:59
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新しい伽藍は白い。だが、それは次第に黒く汚れてしまう。だからこそ、常に新しい輝きを求めるべきなのである。
にもかかわらず、その汚れたものを美化し、あまつさえいまだ白いと言い張り、守り、固執する人間がいる。
『伽藍が白かったとき』には、建築のみならず、絵画、都市計画、インテリア・デザインといった広い領域での「近代の精神」の実現を目指していたコルビュジエの信念が詰まっている。
アーティストは単なるお飾りの美を生み出す芸術家ではなく、日常に規律と調和をもたらすためのクリエイターでなければならない。必要なのは、温故知新に留まらない換骨奪胎。過去に学ぶのではなく、本歌取りしながら新しい表現を見つけていく使命がある。愛する国立西洋美術館もサヴォア邸も、単なる容れ物ではない。中世的思想を支えにしつつも、近代的機械を取り入れることで新たな機能的価値を生み出す、文明開花論そのものなのである。
彼が求めていたのは、規律であり調和であった。だが、それらは決して、凝り固まった静的なものでも、物質的な真実でもなかった。人々の意識の問題として、むしろ動的に「あり」つづけること、明確に「見る」ように努めることだった。
コルビュジエの建築には「物語」がある。
ならば、『伽藍が白かったとき』というブラックボックスに、切実な空への希望を、日々生まれ出る自身の日常に乗せていたサン=テグジュベリと、美意識にも似た見方への信念を、日々変化する内面の、変化しない非日常に乗せていた倉橋由美子を容れてみたら、どのような関数と解が生まれるのか。
千夜千冊で「サン=テグジュペリ以外の誰もが描きえない、まさに『精神の飛行』」と評された『夜間飛行』では、短い作品をさらに23章に分割し、映画のような場面編集を生かして、飛行輸送人ファビアンの危機感と絶望、支配人リヴィエールの押し殺した強い使命感を余すことなく伝えている。
私と空への憧れを同にするサン=テグジュペリは、名門貴族の子弟として生まれ、パイロットと作家以外にも、数々の顔を持っていた。郵便飛行機の管理者として、南米やアフリカへの路線を開拓した空の時代の先駆者。建築家。航空力学の専門家としてジェット機の開発を目指し、その特許を所有する天才技術者。第二次世界大戦における戦場の英雄。数学者であり、哲学者。多彩な天才作家は、当時、常に死の淵と隣り合わせだったパイロットとして、数々の冒険を通して人間と文化を上空から眺めていた。
前衛は、規律を持たなければ成し遂げられない。サン=テグジュベリの眼差しには、時代や人種、国境を越えた普遍的な真実が滲む。
一方の倉橋由美子は、私の生涯消えない疵である。内側を引っかき続け、もはや瘡蓋にすらさせてくれない。未紀と同様、「いま、血を流しているところなのよ」だ。
目指していた医師への道は挫折、歯科衛生士からもドロップアウトして、フランス文学を学ぶ。この奇妙な経歴の一致は、私たちが魂の双生児たる所以の一端でもある。サルトル、カフカの影響を受けた観念的小説で評価を得る一方、中期以降は古今東西の古典文学を本歌取りする作風が加わった。膨大な知識を絶妙な塩梅で用いることで、自身の主義・思想を二重三重にも擬態して突きつける。読み手の知力、想像力、読書力が残酷なまでに試され、ついてこられなければ容赦なく振り落とす。
何が真実で何が嘘なのか、『聖少女』は、現実を甘い虚構で包みながら、虚構を現実に模した螺旋多重構造を、独特の淡々とした筆致で描く。異常な世界である近親相姦にある種の調和をもたらし、選ばれた愛に聖化するという試みは、成功どころの話ではない。大成功だった。
コルビジュエはいう、1957年のパリで。
「視覚が一たび自己の前に確保されれば、行く道の不安定と起伏がはっきり現われる。導きの線が見分けられ、引かれる。そして導きの線によって人は行動できるのだ。そこに事実がある。そして、そこに問題があるのだ。」
●書名:
『伽藍が白かったとき』ル・コルビュジエ/岩波書店
『夜間飛行』サン=テグジュペリ/新潮社
『聖少女』倉橋由美子/新潮社
●3冊の関係性(編集思考素):二点分岐と一種合成