外国語から日本語への「翻訳」もあれば、小説からマンガへの「翻案」もある。翻案とはこうやるのだ!というお手本のような作品が川勝徳重『瘦我慢の説』。
藤枝静男のマイナー小説を見事にマンガ化。オードリー・ヘプバーンみたいなヒロインがいい。
小学2年生だったわたしは1964年のオリンピックを白黒テレビで見ていた。同級生の家のカラーテレビを羨ましがったことは今でも思い出す。競技結果はすっかり忘れてしまった。だが、わたしのオリンピックの記憶は、映像や書物によって、「誇らしい日本人」の躍動として、今なお更新され続けている。わたしたちはまもなく開会をむかえる東京2020オリンピックをこの後どのように記憶し、語っていくのだろうか。
○旅の記憶
28歳の和辻哲郎は奈良を旅する。崩れかかった築泥に盛んな若葉がのぞいていた。廃都らしさのなかにしみじみなつかしい奈良があった。その時の記憶を30歳の和辻は『古寺巡礼』として出版する。現在読まれている『古寺巡礼』は改訂版で、60歳の和辻哲郎が文章を大幅に削ったものだ。大成した学者にとって、若き日の情熱は余分に感じたようだ。東京帝大で谷崎潤一郎、小山内薫らと第2次『新思潮』を起こし、ニーチェやキルケゴールの研究から学究生活を始めた。『初版 古寺巡礼』には、仏像を前にしばし感動に茫然とする和辻哲郎がいる。和辻にとって仏像は信じ仰ぐものではなく美の対象だ。天平の芸術は希臘から伝わったと考えた。伎楽面に希臘劇を連想し、夢殿観音は希臘の原始美術と類似しているという。
和辻の仏像に寄せる視線は生なましい。法印を結ぶ金堂壁画の阿弥陀如来の左手に、「ふるいつきたいような愛着」を感じ、東院堂の観音の静かに垂れた右手に縋り、滑らかな胴の肌を撫で、その露わな肌に、烈しい執着を覚える。和辻の視線の行きつくところは中宮寺の弥勒菩薩だ。その姿に日本の自然のうつしを見る。それゆえ、中宮寺観音はただただうっとり眺めるしかないのだ。
「とうとう中宮寺がすんでしまった」と書いて、和辻は旅の記憶を結ぶ。廃仏毀釈で討ち捨てられた像がいまだ放置されている博物館や寺々を巡り、「日本」の美の記憶を『古寺巡礼』に定着させた。その記憶はその後古寺を巡る多くの人々によって持ち運ばれた。
○記憶の旅
高行健は仕事を捨て、家族と離れ、リュック一つ背負い揚子江流域へ旅に出る。トウ小平の復活の後、中国文学は復興期を迎えた。鄭義、莫言、韓小功らの名が並ぶ。高行健が登場したのはこの時期だ。不条理劇『バス停』を政府当局から批判されて文筆活動を制限され、同じ頃に医師からは肺癌で余命いくばくもないと宣言された。2年間中国の山河をめぐる旅に費やした。旅を終えた時、肺の黒い影は消えていた。招かれてパリに滞在していた高は天安門事件に際して亡命を選ぶ。この間7年かけて書き継いだものが『霊山』となった。
これは旅行記だろうか。語り手は作者の分身である「私」とその影である「おまえ」。伝聞、感想、法螺話、民謡の採録、神話、アフォリズム、母・伯父・叔母・祖母・曾祖父のこと、そして「おまえ」と「彼女」の愛と欲望をめぐる世迷い言が挟まる。本書の中に高が呼び寄せたものは、匪賊、男を誘惑する朱花婆、彜族の歌手、天羅女神を彫る老人、五歩龍、蛇を巻く女、龍船競争、祈祷師と龍女、赤い子供、道士と僧侶、大洪水、禹、カエルの姿をした神。とりわけ溺死した少女の話は文革中に死んだ母の記憶と結びつき、いくつものバリエーションが語られる。
高行健は「陰と陽が互いを補完し、禍と福が交互に現れる」中国文化の古層のイマジネーションのなかに「私」を置こうと試みる。中国の奥の奥に蠢いている数々の記憶を拾い集めて、物語として持ち帰った。
○自己創出の物語
ソメイヨシノの歴史は新しい。江戸が東京となる頃に誕生し、日露戦争の記念として公園に植えられ日本国中に広まった。いまでは桜の8割までがソメイヨシノになった。「一面の花色」と言われ、樹全体を覆い隠す様に花が一斉に広がる特徴を持つ。『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅』で、佐藤俊樹はソメイヨシノの出現は、桜とは何か、桜を見るとは何かという日本人の桜観を大きく変えたという。佐藤は『不平等社会日本―さよなら総中流』(2000年)で、日本社会の転換を知らしめた炯眼の社会学者だ。
佐藤は明治以降の日本のナショナリティ形成の中で桜が果たした役割を、桜語りの変遷のうちに示していく。いまでも桜が話題になると、突然「古来から」や「日本人」が呼び出されてくるのはなぜだろう。桜の性質と日本人の国民性に重ね合わせて桜が語られるのは大正期の頃からだ。春に日本中どこでも同じように咲き、一斉に散るソメイヨシノのありようはナショナリティを醸成していく。ソウル神宮の桜を見て、「異境の桜も日本の桜と変わるところはない」と日本を想う学徒動員候補生のエピソードはそのことを端的に物語る。
多様な桜はソメイヨシノに集約され、桜はただ一つの日本らしい花と見なされるようになった。桜らしさと日本らしさは等式で結ばれる。その一方で、詩歌で流布されてはいたが現実にはなかった「吉野の桜」のイメージを、あとから来たソメイヨシノが実現した。あたかも昔からそうだったという記憶が重ねられていく。こうして「日本」も「桜」も自らを創出し続けてきた。
和辻哲郎が思慕した弥勒菩薩の「日本」も高行健が出会った天羅女神の「中国」も、それぞれの「らしさ」をまとった自己創出の物語の一部となるのだろうか。仮にそうだとしても、いまだ大きな物語に取り込まれ記憶の更新を続けているわたしたちは、佐藤俊樹がソメイヨシノの起源に向かったように、「はじまりの記憶」への眼差しを忘れてはなるまい。和辻の古寺を巡る旅も、高の山河を巡る旅もそれぞれの起源に向かう旅であったのだから。
Info
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●アイキャッチ画像
∈『初版 古寺巡礼』和辻哲郎/ちくま学芸文庫
∈『霊山』高行健/集英社
∈『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅』佐藤俊樹/岩波新書
●参考千夜
∈835夜『古寺巡礼』和辻哲郎
∈1449夜『霊山』高行健(ガオ・シンヂェン)
●多読ジム Season06・春
∈選本テーマ:旅する3冊
∈スタジオ茶々々(松井路代冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):一種合成
『初版 古寺巡礼』──┐
├─→『桜が創った「日本」―ソメイヨシノ 起源への旅』
『霊山』 ──┘
エディスト編集部
編集的先達:松岡正剛
「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。
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コメント
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