「こういうの何て言うんでしたっけ…? そうそう他力本願。僕ってけっこうズルい子なんですよ」。
感門之盟の教室名発表でドラムロールを担う姿がすっかりお馴染みとなったイシツ人。
〝イシスのアニキ〟と慕われる一方、インターネット時代の礎を築いたIT企業で輝かしい経歴を残し、現在は軽井沢でファーマー生活を送ると聞けば、イシツ・フェチとしての血も踊る。
解除されるハズだった緊急事態宣言が延長された6月某日、PCR検査と検温で挑んだ軽井沢取材は、アニキの飄々とした語り口で軽快に進み、何につけてもエピソードが年号日付とセットで語られるところに理系男子の顔を見る。
そんなアニキの「他力本願」とは、これ如何に?
謎が深まる人物像を、クロニカルでエピソーディックな語りで解き明かす。
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【イシツ人File No.9】浅羽登志也
19、35[守]37[破]師範代、21~22、36~37[守]39、41[破]師範、11~12、18[ISIS花伝所]錬成師範、14、16~17花伝師範、Season02~05、07[多読ジム]冊師、6[離]。京都大学大学院で数理工学を学び89年リクルート入社。同社スーパーコンピュータ研究所に勤務後、日本のインターネット事業の先駆けIIJ創業に携わる。04年取締役副社長、08年IIJイノベーションインスティテュート代表取締役社長。ほか98年クロスウェイブコミュニケーションズ執行役員、12年ストラトスフィア代表取締役社長など兼務歴任するが東日本大震災を機に軽井沢に移住、半農半Z(zoom)の生活を送る。穏やかさとキレの良さでイシスでは「アニキ」と慕われ、アニキのドラムロールで巣立っていった師範代多数。現在も社外役員や監査役、情報工場シニアエディターなどポリロールな顔を持つ。
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【疑惑・先斗町・接続】
┃‘84 JUNETの実験運用開始。
┃‘85 電気通信事業民営化/NTT発足。
┃‘88 リクルート疑惑。
リクルート事件が大騒ぎになった89年4月、リクルートに入社しました(笑)。
最近の人がどういうイメージを持っているか分からないけど、当時は若く元気で、新しい事業をどんどん始める会社でした。これは面白そうだと思って。
でも実を言うと、内定式に出たのはAI研究をぶち上げていた別の会社でした。当時は第二次AIブーム。でも内定式に集まった人々を見て「あ、ここ違うわ」と直感し、父の具合が悪いと言ってその場を逃げ、断りの電話を入れました。よく分からないけど「違う」ことだけは良く分かったんですね。何というか、野生のカン? 理系でロジカルだと思われがちなのですが、こんなふうに感性で生きているところがあるんです。
ほかにも某大手メーカーがシステム子会社を作ることになり、一期生なんて面白そうだと行く気になったのですが、父が大反対。普段は僕に似てすごく穏やかな人なんですよ、それがあんなに反対されるかってくらい絶対ダメだと。理由を問いただすと「子会社なんだろう?」と。意味が分からなかったんですけど、後で考えると父も東電の子会社にいて、イヤな思いをしたのかなと思います。
そんな父も、何故かリクルート事件については何も言わず(笑)、ようやく同社に行くことが決まると、今度は大学院の指導教授に猛反対されました(笑)。研究室の打ち上げで毎年、先生行きつけの先斗町のお茶屋さんに連れて行ってもらうのを楽しみにしていたのですが、その年は僕ともう一人だけが呼ばれて延々とお説教を食らうことに。無理やり紹介された会社に断りに行ったのは、リクルート入社式を目前にした3月20日。それでやっと、同社に入社したんです。
┃‘89 JUNET国際接続。
┃‘89 WIDEプロジェクト、ハワイ経由対米専用線接続。
┃‘89 日本のドメイン名「.jp」に移行。
リクルートではスーパーコンピュータ研究所に配属となり、インターネットを担当してくれと言われました。まだ誰もインターネットという言葉すら知らない頃で、「インターネットの父」と呼ばれる東大(当時)村井純先生のWIDEプロジェクトや、日本の学術組織で構成されたJUNET、通産省推進のICOTなど一部の公的/研究機関がわずかに繋がっていただけでした。
でもリクルートって不思議な会社で、民間企業なのに国際線用回線を使ってハワイ大学まで既に線を繋げていたんです。そこでインターネットに初めて触れ「これは面白い!」と。
大学ではAIを使った故障診断を研究していて、SEにでもなれればいいやくらいに思っていましたが、人が開いてくれた流れに乗っていたら、いつの間にか一生の仕事に辿り着いちゃったんですね。
軽井沢のおしゃれカフェにて半生を語るアニキ。
【値切って、複写長】
┃‘92 日本初インターネットサービスプロバイダ(ISP)IIJ誕生。
┃‘92 World Wide Web(WWW)公開。
┃‘94 IIJ日本初ダイヤルアップIP接続サービス。
ところがスパコン研究所は僅か3年で閉所が決まり、付き合いのあった村井純先生に相談したところ「ちょうどいいじゃん」と紹介されたのが、IIJ創業のための準備プロジェクトでした。解体予定のビルでブラインドを買うお金もなくて、傘をカーテンに、段ボールを机にするようなオフィスで。
最初の資本金は準備プロジェクトのメンバーが100万円ずつ出資しました。30才だった僕は前社歴3年で蓄えもなく、「ごめんなさい、50万円しかないです」と値切りましたけど(笑)。(※1)
それに85年の通信自由化からまだ7年足らず。ベンチャー企業が通信事業者になった前例がないという訳の分からない理由で郵政大臣から認可が下りないんですね。インターネット事業の会社なのに事業が始められない、という状態が続き、しばらくは給料も出ませんでした。
家族の心配? 特になかったですね。以前あれほど反対した父も、この時は何も言いませんでした。僕もあまり深刻に考えていなくて、インターネットが流行るのは間違いないと思っていたし、そもそも日本に本格的なネットワークがまだなかった。ともかくそれを作らなきゃいけない、新しい時代ができるんだと、そういうワクワクばかりで。
今でこそアメリカ経由で世界中とつながるのは当たり前になりましたが、当時は二国間協定といって、それこそ一国ずつ交渉して通信を繋いでいくのが普通でした。まさに常識を変えてしまった、それほどの衝撃だったんですね、インターネットは。
┃‘95 Windows95爆発的ヒット。
┃90年代後半~ クラウドサービス萌芽
┃‘99 IIJ取締役就任。
┃‘04 IIJ取締役副社長就任。
┃00代中頃~Consumer General Media(CGM)の普及。
予想通り、インターネットは爆発的な勢いで普及しました。IIJは当初NTTのような第一種通信事業者から回線を借りてネットワークを構築していたわけですが、それではとても間に合わない。自ら第一種通信事業者となるべくトヨタとソニーと三社合弁企業を立ち上げ、99年には米ナスダックに上場しました。直接米国市場に上場した初の日本企業となりましたが、当時は我々のようなスタートアップ企業用の市場が日本にはなかったんですね。
で、その際に当時の社長から「お前CTOをやれ」と言われ、取締役にされました。抵抗したんですよ、取締役なんてなりたくないって。会社を経営したいんじゃなくインターネットをやりたいわけで、ネットワーク屋でいたかった。その後、副社長を任命されたときも抵抗しました。「副社長ってなんですか? コピー取ってくればいいんですか?」と恍けたら、「バカ、複写長じゃない、意味が違う」って。
経営は面倒くさいことばっかりです。ベンチャーなので優秀なエンジニアをどんどん採用しましたが、みな我儘なんです。これは日本のプロダクトアウト型エンジニアの悪いところかもしれませんが、意見がぶつかったときにアウフヘーベンしないんです。だからいつも彼らの間に立つ調整屋みたいなものでした。
高身長が軽井沢の緑に映えるアニキ。
【他力が拡張する】
┃‘05 Web 2.0。
┃‘07 編集学校入門。
┃‘08 IIJイノベーションインスティテュート代表取締役社長就任。
┃‘10年代~ Software Defined Network(SDN)構想潮流化。
経営者としても技術屋としても中途半端な僕でしたが、人に恵まれて何とかやってきました。僕は割と「他力本願」なんですね。自分で選んできた道のはずだけど、リクルートもIIJもその他の会社も、人が与えてくれた場にうまく乗っただけで、けっこうズルい子なんです。
特にIIJ当時の社長とは波長が合ったというか、次々と場を与えられたのも、他の人が社長から10言われるところを僕は3つで「ああ分かりました、こういうことですね」と理解できるところがあって。それが良くなかった(笑)。
会社もベンチャーと呼べないほど成長し、自分の役割は終わったかなと感じました。大きくなった会社をさらに大きくすることに興味はないし、そんな力もありません。15年にIIJを退社しましたが、辞めきれず非常勤の取締役や別の会社から頼まれた社外取締役、監査役、学会関係などの仕事は引き続き担当しています。
インターネット社会が、当初思い描いた理想の世界になっているかと聞かれたら、それは分かりません。世界のネット普及率は現在65.6%(※2)で、世界を繋ぐという点では理想に近づいた。でも自分の中ですごく矛盾するのですけど、僕はテクノロジーがちょっと行き過ぎたのではないかと思っている。
マーシャル・マクルーハンは『メディア論』で「メディアは人間を拡張する」と言いました。あるメディアができたとき人がどう変わるかというと、人間の感覚比率が変わるというんです。例えば活版印刷が始まると伝聞重視だったコミュニケーションは視覚重視に変化した。その後、インターネットのような電気メディアが中枢神経系の外部への拡張(※3)を引き起こし、人間の全感覚がいっぺんに吹き出して混乱しているかのようです。
【オーガニックドラマーの突出】
┃‘11 東日本大震災。
┃‘16 T-GAIA社外取締役就任。
┃‘17 日本品質管理学会代表理事副会長就任。
┃‘18 株式会社パロンゴ監査役就任。
その後軽井沢に移住したのは、2010年に受講した6[離]がきっかけです。あの頃はまだ西武池袋線沿線に住んでいて、池袋の「ルノアール」という喫茶店でよく課題をやっていました。席が2階で外が良く見えるんです。
お題に向き合い、戦争とか資本主義とか時代の本質を突き付けられるなかでふと窓の外を見ると、隣のヤマダ電機の壁一面にケータイの巨大広告が掛かっているのが目に入りました。「俺はなんでこんなものを見ているんだろう…」。そう思ってあちこち見ると、どこも広告だらけ。なんだ都会ってのは広告でできているんだと、初めて気が付きました。
当たり前過ぎて意識していなかったことに直面したとき、自分がやってきた仕事がダイレクトに人生に役立ったかというと、家も建てられなければ服も作れない、ましてや食料だって作れない、生きるために直接必要な仕事を僕はやったことがないという事実に驚愕したんです。バカみたいなロジックですけど、それで米でもつくってみようと。
[離]が終わってすぐ軽井沢に別荘を購入し、東日本大震災を契機に本格的に移住しました。これも「他力」なんですけど、ネット企業の社長をやりながら上田市で有機農業をやっている面白い人がいるから会わせてあげようと、僕の知り合いが紹介してくれたのが現在の僕の「お米の先生」。移住当初は毎日東京に通っていたし、週末だけ上田の田んぼに行く生活で、ファーマーとはとても言えないです。
耕運機を乗りこなすアニキ。
農業を少しかじると、自分たちが食べるだけならそう大変ではないことが分かりました。お米の先生にそう言うと、「だって主食なんだよ」って。確かに主食生産が困難だったら、日本人は亡びてますね。
でも商売となると話は全く別。一反1000㎡で米が10俵とれますが、それを農協に売るといくらになると思います? 僅か6、7万だそうです。一家を養うには機械を導入しなきゃ間に合わないし、除草剤も捲きたくなります。
全国の耕作放棄地面積が埼玉県の2倍あると知り、ちょっと妄想しました。世帯数で割ると一家に約80㎡の農地が割り当てられ、全世帯が自給自足すれば日本は有機農業立国になれるんじゃないかって。
話が逸れますが最初に借りた畑は偶然、僕が19守で師範代をやった学衆さんの畑です。たまたま軽井沢のスーパーで再会して話をしたら、「僕の実家すぐそこなんで一緒に畑やりますか?」と。ネットワーク屋だから人の電波をうまく引き寄せるって? いや、分かんないですけど(笑)。
笑顔で麦刈りをするアニキ。
┃‘20 新型コロナウィルス猛威。
編集学校を知ったのも「他力」です。職業柄けっこう色々な企業の方とお付き合いがあり、たまたま松岡校長と懇意だったお一人が講演会に招待してくださった。恥ずかしいですけど僕、それまで松岡さんのこと知らなくて、講演会の課題本だった『17歳のための世界と日本の見方』がすごく面白くて、それで入門しました。
イシスで一番印象に残っているのはアレですね、35守の学衆同士だった浦澤美穂さんと小枡裕己さんのご結婚。あの教室はノリが良くて、皆で汁講旅行に何度か行くうち「オヤ?」と思いました(笑)。婚姻届けの保証人欄にサインして、あれはちょっと嬉しかったな。
そうですね、周囲を和ませるのは得意です。そういえば高校の時の席替えで、ある女の子と隣同士になったときのことを思い出しました。発育が良い子で、一度も喋ったことないのに話しかけてくるんですよ、「今日も痴漢にあったから待ち針で指してやったら血が出た」、とか。で、その子がある日「男の子と喋ったことない」とか言うんですよ。オイ待て俺と喋ってるじゃないかと言うと、「ううん、浅羽君は怖くない」と言われました。喜んでいいのか分からないけど、はい、怖くないそうです。
僕一人っ子なんで、割りと引っ込み思案で大人しい子でしたね。人と同じことやるのはすごく苦手で、自分の世界に入っちゃう。高校からの「自分の世界」はドラムです。コロナ禍でリモートワークが標準化しつつありますが、ネットワーク屋としては30年前からオンラインで仕事をしてきたのでやっと時代が追い付いてきた感じ。リモートの合間にドラムを練習しつつ、後半生はドラマーとしての自分を突出させて生きていきたいですね(笑)。
恒例の〝イシツブツ〟はアニキが丹精込めた無農薬天日干しコシヒカリのお裾分け。
【おまけ◎イシス人とドラム】
大学時代、京都で人気のあったITACHIというアマチュアバンドのドラマーが好きだった。30数年後にバンドが再結成した際もライブを見に行った。直接話をする機会に恵まれ、仕事でしばらく離れていたドラムを再開したいと話すと、引っ越しで不要になるからとドラムをくれた。そのドラムを車に積み、感門之盟のたびにせっせと東京に通う。
ほかにも2台のドラムを別々の人から同時期にもらった。「こういうシンクロニシティが起こるときは、ある意味その方向が間違ってないんだと思う」。
しかし、行きつけの軽井沢の焼き鳥屋でたまたま紹介されたミスチルのドラマーJENさんを、ミスチルデビュー当時は多忙すぎて、まったく知らないイシツ人だった。
(※1)のち、満額支払う。
(※2)2021年3月時点。
(※3)マクルーハンによれば、拡張≒外爆発。
羽根田月香
編集的先達:水村美苗。花伝所を放伝後、師範代ではなくエディストライターを目指し、企画を持ちこんだ生粋のプロライター。野宿と麻雀を愛する無頼派でもある一方、人への好奇心が止まらない根掘りストでもある。愛称は「お月さん」。
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