数学にも社会にも「いい物語」が必要―津田一郎 56[守]特別講義

2026/02/23(月)07:56 img
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 数学は、曖昧さを抱え、美しさという感覚を大切にしながら、意味を問い続ける学問だ。数学者津田一郎さんの講義を通して、そんな手触りを得た。

 「数学的には手を抜かないように、それだけは注意したんです」

 講義終了後、学林局のメンバーと雑談をしていた津田一郎さんが、ボソリと言った。そんな津田さんの本気の思いは、本楼とオンラインで集った56[守]師範代や学衆など参加者にしっかり届いたことだろう。

 講義は無論難しかった。数式やグラフ、群・環・体といった用語に何度も足元をすくわれそうになった。それでも、数学的な世界と一瞬つながれた感覚はあった。

 

 講義のテーマは、「3Aを数学的に読み解く」。内容そのものについては、連載記事「津田一郎の『千夜千冊エディション』を謎る」の⑥〜⑨を粘り強く読んでほしい。本記事では、3A(アフォーダンス・アナロジー・アブダクション)の一つ「アブダクション」に注目して、講義を振り返ってみたい。

 

■前提が間違っていても、「正しい」結論が導ける!?

 

 講義の中で、津田さんが何度も強調していたのが「前提」の重要性だった。前提から結論を導く演繹推理(ディダクション)という方法は、たとえ前提が誤っていても、論理が正しければ「正しい推理」とされる。「間違った前提からは、正しい結論も間違った結論も導ける。論理としては正しい、ということです」と津田さんは説明し、ニヤリと笑って、「要するに詐欺の手ですね」と言い替えた。

 

 津田さんは、「大前提とは、誰もが正しいと認めるものでなければいけない」という。その数学的な議論は、そのまま社会の問題へとつながっていく。

 

 一部の他者の排除を前提とした意見が目立つ昨今、私たちは同じ言葉を使いながら話をしているつもりでも、実はすれ違っている状況が生まれている。議論が噛み合わない背景には、それぞれの大前提のズレを擦り合わせるところに、注意が向いていないという問題があるのではないか。

 

 では、「誰もが正しいと認める大前提」とは何か? そもそも、人は一人ではいられない、他者との関係の中で存在しているーーその当たり前の事実に立ち返りたい。

 

 「今世紀に入って、自己責任という言葉が宙を舞うようになった。おかしな言葉である。この言葉の背景には個人の行為が個人に還元されるという仮定がある。がそれは、個人は他人や世間との関係性の中でその能力を発揮するという観察事実に反している。個人の行為は個人ではなく他者に還元されるのだ」

 

 津田さんが別の場で語っていた言葉は、数学的見方から社会に対する問題提起であり、講義全体の大前提として置かれているように感じた。

 

▲必死でメモを取る56[守]の師範代たち(撮影/後藤由加里)

 

■中学の数学は「アブダクション」のトレーニング

 

 おかしな前提がまかり通る社会を、どう編集し直せばよいのか。そのヒントがアブダクション(仮説推論)という思考法だ。

 

 「中学の数学で、大前提と結論を示しておいて、『証明してください』という問題がありますよね。あれば『アブダクションしてください』ということ。証明というのはアブダクションそのものなんです」

 

 アブダクションとは、演繹や帰納とは異なり、前提と結論をつなぐ仮説を見立てる推論の型だ。

 

 「数学を勉強してほしいと僕は切実に思うのです。 それは一番アブダクションが有効に機能するところをその場で見られるから。 日常は複雑で、時々、前提の取り方を間違えることがある。だから、日常でアブダクションを機能させようとしても、いきなりうまくはいかない。でも、数学でトレーニングを積んでおけば、間違えにくくなるのではないか」

 

 トレーニングというと試練のようだが、津田さんは、アブダクションの魅力をこう表現する。

 

 「アブダクションは、主客が入れ替わるようなところがあるんです。その過程が面白い」

 

 話を聞きながら、自分が中学生まで数学が好きだったことを思い出した。休み時間に同級生のS君とどちらが早く証明問題を解けるかを競い合っていた。正解を見つけることが楽しかったのではない。同じ結論に至るまでに、それぞれの異なる道のりがあり、それらを交わし合い、語り合うこと自体が楽しかったのだと腑に落ちた。

 

■数学も社会も、「いい物語」が必要だ

 

 講義の最後は、最先端のAIへと話題が広がった。「AIは知能を持つが、知性を持つのは人間。社会のニーズはAIの知能で解決できるが、人が望んでいるかを先取りしていくことこそが、本当の意味で社会の役に立つこと」だという。だから、「役に立たないことが一番役に立つ」と断言する。

 

 さらに、こうも語った。

 

 「人の脳がAIと違うのは他者の存在によって、あるいは社会を形成することによって、つまりある種の拘束条件を経ることで機能分化して、より高度な知性を獲得してきたと考えられる」

 

 未来を切り拓くとは、今見えるニーズではなく、見えないウォンツを目指して、仮説推論を繰り返していく道のりだ。数学の証明がそうであるように、大前提をどう置くかで、見える景色も、導かれる結論も変わる。必要なのは、正解を求めて他者と競い合うことではなく、より豊かで多様な物語を編み出し合うプロセスだろう。

 

 「いい物語を作っておかないと、いい研究はできない」

 

 津田さんの言葉は、数学や研究の世界にとどまらない。社会は複雑で混沌としている。「複雑なものを複雑なまま還元しないで解く」数学的方法は、私たちの未来を開ける鍵になるのかもしれない。

 

▲本楼に並べられた津田一郎さん関連の本(撮影/田中志穂)

 

取材・文/田中志穂(チーム渦)

写真/後藤由加里

編集/角山祥道(チーム渦)

  • エディストチーム渦edist-uzu

    編集的先達:紀貫之。2023年初頭に立ち上がった少数精鋭のエディティングチーム。記事をとっかかりに渦中に身を投じ、イシスと社会とを繋げてウズウズにする。[チーム渦]の作業室の壁には「渦潮の底より光生れ来る」と掲げている。

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