◎ヘンシツでイシツ!
(※ヘンシツとは?:偏質。狭義にある方向に一途であること)
インタビューが行われたのは、京都在住のイシツ人が出張時に根城としている東京の拠点。じつはこのイシツ人、京都の自宅、京都の活動拠点と3拠点を行き来しながら編集的生活を実践している。その異質性あふれる暮しぶりは、日常と編集を片時も切り離さないヘンシツな頓さが育んでいた。
切り離さないというより切り離せないですよ。日常は思うとおりにいかなくてもどかしいでしょ。編集学校で得た世界の見方を実社会にもちこまないで、どこで使うんやろ。
例えば守のお題016番『二ホン置きなおし』で日本を三分岐しろと問われたとき、今の日本が抱える問題まで考えざるを得なくないですか?
イシツ人の本業はライターであり、近年は京都岡崎のまちづくりや京都を中心としたまち歩きの企画運営・ガイドと二つの軸足をもつ。その源流は学衆時代の[破]にあり、お題の最後に学ぶ「プランニング編集術」をそのまま現実の仕事にしていった。
学衆として学んでいた10年前、ライター業の転換期も重なり、縁あって京都のエリアマネジメントに携わる。当時〝架空の町の活性化〟を課題としていたプランニング編集術のメソッドを、型通りに実生活とシンクロさせ、バラバラだった地域の「地」をつなぎ土地の物語を再生させた。企画発行した冊子では[破]で学ぶ4つの編集術を総動員し、この本を発端に動き出したまち歩きの企画とともに、「今の日本をどうするか」というフィルターで地域の再編集に挑み続けている。
プランニング編集術の解説にもありますが、仮に雲のようなオムレツを食べたいという企画があったとして、そのふわふわ感を伝えるのがライターだとしたら、雲のようなオムレツを実際に作ってみようとするのがプランニング編集術やったんです。おおーこれはすごい!と、コトを動かしていける「方法」のダイナミズムを実感しました。
ゾクゾクしたのは、先のコロナでまち歩きがすべて中止となったとき。どんがらがっしゃんと何もかもがひっくり返ってしまいましたが、<よもがせわほり>(※1)の型で捉えると、「地と図」の「地」がごそっと入れ替わっただけ。内部環境の価値は何も変わらない。メディアを乗り換えるってこういうことなんだと、とるべき方法が明確になりました。
イシスで学ぶ型は普遍度がとても高くて、状況が変わろうがビクともしないんですよね。むしろ状況が変わったときが本領発揮。ストレッチと同じで型を使うと動かせていない思考が見えてきます。プロは「空振りときどきホームラン」では困るんです。それよりも「必ず安打が打てる」力が大前提として必要。それにはやっぱり「方法」なんですね。
文字通り「型」をそのまま外部化し、方法から適職を生みだした底力。京都と東京に拠点を持つことになったのも、「今の日本をどうするか」という地で方法を実践しつづけた先にモーラの女神が微笑み、社会の在り方を共同生活の場から問う団体との出会いを連れて来たから。「人生を編集」するのではなく「編集を人生」しながら、ミメーシスのごとく自身と編集を一体化させる。
◎ケイシツでイシツ!
(※ケイシツとは?:継質。狭義に意伝子を継ごうとの思い)
原体験は[離]だった。校長・松岡正剛の編集的世界観に直接触れることができ、[離]の総匠・太田香保をして「松岡正剛の生き様そのものを象ったもの」と言わしめる〝知と方法の受精卵〟。
[離]で世界の意味が変わったとイシツ人は言う。
どう変わったか? うーん、その感覚はとても言葉で伝えられる気がせえへん…。
イシス10周年の感門之盟に学衆として参加したとき、綺羅星の如く多士済々な面々と対談をかさねる校長のすがたを拝見したんです。お歴々のゲストと個別に対話し専門領域から一家言を引き出しながらも、通して聞けば情報の未来という一本の文脈がつながっていたことに後から気づかされたとき、「ああ[離]に行こう」と決めました。
「陶夜會」と称する[離]の集いで校長と初めて言葉を交わした際、何でも聞いていいよという言葉に、若気の至りで地雷を踏んだ。
校長の文章はわかりにくい、なぜもっと分かりやすく書かないのか?
校長の答えはこうだった。「わかりやすいって何?」。
校長は時に、たった一人に向けて書く。一方で『17歳のための世界と日本の見方』(※2)のような、平明な語り口の著書もある。
「校長はたぶん、圧倒的な孤独を抱えて、でも絶対に諦めることなく、書き続けておられると思うんです」。
人間・松岡正剛のすさまじき孤独が、イシツ人の心魂に迫る。
本楼の本棚の上にラテン語の「書」が掲げられているのをご存知ですか? 数学者フリードリッヒ・ガウスが墓碑銘とした「少数なれど熟したり(pauca sed matura)」。校長がやられていることがまさにこれです。
我々が生きている地がインターネットに入れ替わり、情報とオブジェクトの乖離が起こっている今、経済至上主義の次のパラダイムのスコアは何なのか。現状はやはり残酷で悲惨だと私には感じられます。もう少し幸せなセカイを見たいけれど、その見方がわからない。
私なんかが世の中を変えられるわけもないのに、少数なりの世界の突起を見つけられないかと勝手にもがいているんですよね。
私たちは本を読む。千年、二千年前に書かれた言葉に現代を生きる人間がハッとさせられるなら、数千年先までだって言葉は十分届く。思いを込めた言葉であれば。
松岡校長は、あの手この手を尽くし編集を通して何かを伝えようとしている。もしかしたら校長には、その先の希望が見えているのではないかと、ある時ふと思いました。それなら時空を超えるつもりで言葉を紡ぐことを諦めてはいけないし、いま伝わらなくてもいつかどこかで思いがけない人に、何かが届く可能性は永遠にあると信じてます。
だから、厳しくとも指南にありのままを直筆する。校長の言う「依怙贔屓」に完全同調し、去るものを振り向かせる余力は、全力で編集工学に向かっている人に捧げたい。
10年前から変わらず感じるのは「ここ(編集工学)に何かがありそう」という感覚。進めば進むほどつかみきれないけれど、「世界の見方をぜんぶ松岡さんにもらった」。誰かに恩送りできるよう、イシスにイチズに、イシツをゆく。だからこそ袈裟斬り伝説が囁かれ、「ふくよミーム」が伝播もする。
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ぼくの生き方B。僕の生き方B。依怙贔屓する。そのためには
自分を可能な限り無償状態にするのだが、もっと大事なのは
恋闕の情を持ち続けられるかどうかということだ。
(日刊セイゴオ「ひび」◎ 2012年7月1日(日))
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◎イシツブツがイシツ!
(※イシツブツとは?:異質物。狭義にイシツ人こだわりの逸品)
世界の見方が変わったという意味では、趣味を通り越した「数寄」の分野でも同じ。知人の茶畑や野良茶を訪ね、茶を摘み手作業で製茶するほどハマった茶の世界。本来なら茶道具にやかましいルールもついてくるが、見立て次第でセカイは広がる。野を歩き材を拾って削り、市販品の少ない茶則や茶通しをブリコラージュする。
「ないものは買うという世界から簡単に出ていけることを痛感した」。
手製の茶をふるまう様は少女のようで、道具を褒められれば無欲恬淡に気に入ったものから手放す。
【◎おまけ:イシツ人の弱点】
「幼な心」がウルトラウィークポイント。お題等で幼な心を問われるたび憂悶する。「自己評価が低く過去にマイナスフィルターをかけがち」との言葉通り、幸せだったはずの子供時代を「近代国家が押し付けた役割に無意識に隷属した家畜状態」だったと記憶の中で書換えているらしい。『フランダースの犬』や『幸福の王子』のラストのとってつけたような救いにイラつき、小川未明の不条理と因果〝非〟応報に安堵する。自分の記憶なんてしょうもないことに係っていられないから、校長の言葉で一番好きなのが「自分なんてどうでもいい、もっと他分に遊びたい」。
(※1)7段階で企画を組み立てる松岡正剛考案のプランニングフォーマット
(※2)『17歳のための世界と日本の見方-セイゴオ先生の人間文化講義』松岡正剛著/春秋社