手を施す──抗ってきた母の最期をめぐって

2025/10/25(土)07:00 img
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母が亡くなった。子どもの頃から折り合いが悪かった母だ。あるとき知人に「お母さんって世界で一番大好きな人だよね」と言われ言葉を失ったことがある。そんなふうに思ったことは一度もない。顔を合わせばぶつかり、必要以上に口もきかず、抗い続けてこれまで生きてきた。

母の洗濯物と自分の洗濯物を一緒に洗えないくらいだったのに、葬儀の日、私は母の着物を着ていた。そばにいると息の詰まるような感覚は、すっかりどこかに消えていた。

 

■母のルーツを知らぬまま

かつて、両親は着物にかかわる仕事をしていた。父は日本橋の実家で祖父母が営んでいた呉服屋を継ぎ、母は銀座の呉服屋に勤めていたらしい。なのに私は着物のいろはを知らず、自分で着ることもできない。

 

わが家には、長らく、実家にあった着物がクリアケース箱分眠っていた。10年ほど前、母と同居を始めたときに運び込んだものだ。「とりあえず」と押し入れに仕舞ってそれっきり。両親のルーツを何ひとつ受け継げなかった無念さが、ずっと押入れに鎮座していた。

 

 

■先達はあらまほしきものかな

長年の状況が変わったのは、イシス編集学校で出会った先達のひとことだった。「よかったら福井さんのお宅におじゃまして、一緒にケースを開けましょうか? 着物の整理をお手伝いしますよ」ふだんからおしゃれに着物を着こなし、イシス編集学校で「着物コンパ倶楽部」という多読アレゴリアの人気クラブを立ち上げたばかりだった森山智子さんだ。イシス編集学校校長 松岡正剛プロデュースの伝説の書店「松丸本舗」で客を本の虜にし続けた名ブックショップエディターであり、編集学校の師範でもある。

 

6月1日、森山さんがわが家へ来てくれた。押し入れを開け、順々に着物を引っぱり出す。どこか懐かしい香りを帯びたたとう紙が、30〜40、いやそれ以上あったかもしれない。結び目を解くと、さまざまな絵柄や素材の着物、帯、小物が姿をあらわした。

▲子どものころ、家には「よしだや」という屋号の入ったたとう紙や、くるくる巻かれた反物、種々の布の端切れを貼り付けた見本帳のようなものがたくさんあった。中学生のころ、反物をさーっと広げた父が「こうやって巻くんだよ」と目にもとまらぬ速さで巻きはじめ「ほら、やってみな」と手渡されたことがある。父の巻いた反物は端がぴったり揃って美しいのに、私の巻いたものはがたがたで緩んでしまう。ほろ苦い記憶だけを残して、私が大学生のときに父は他界した。

 

昼すぎに作業を始め、終わったのは夜9時。森山さんは一枚ずつ着物の歴史を解きながら、用途や素材、呼び名を教えてくれた。


「何度も袖を通した感じがする着物。お母さんがよく着ていたのかな」

「七五三の着物だね。福井さんが着たもの?」

「こっちは娘ちゃんの結婚式に着れるね」

 

過去から未来まで、小さな物語がさまざまに浮かびあがる。着物と母との距離がすこし縮まった気がした。

 

 

■「手の施しようがありません」

翌日の午後、私は総合病院の耳鼻科の診察室にいた。原因不明の耳垂れがつづきすこし前から耳の脇にしこりができた母の診断のためだ。いつもてきぱきとしている担当医が神妙な顔つきで視線を落として言った。「お母さんの余命は半年あるかどうか」。

 

内視鏡、CTやMRI、病理組織検査などそれまでに受けた検査の結果から、癌の可能性が極めて高いとのこと。すでに骨を溶かし、脳を覆う硬膜にも炎症が広がっているため、数日後に急に命を落とす可能性もあるという。

 

「手の施しようがありません」

 

診察室を出ても、医師の言葉が繰り返し頭のなかを巡る。

 

 

■あれほど息苦しかった介護が

1年半前、母が急に体調を崩してから、慣れない介護が始まっていた。うまく着替えさせられないと「もっと優しくして」と怒られ、家事や仕事で手が離せずに待たせていると「動けないのにほったらかしで」と詰られる。かなりの軟便でおむつから大小便が漏れ出し、陰洗や洗濯、汚物の処理に追われるなか、ブツブツと不平不満の声が聞こえてくることも度々だった。血のつながりなんて美しくもなんともないと思っても、介護サービスでカバーできない分は私がやるしかない。汚れた母の服を手洗いしながら、心だけは汚染されまいと黙々と介護する日々だった。

 

この日も病院から帰宅するとすぐ、ベッドで寝ていた母のおむつを替えた。「おしもの世話までしてくれてありがとう」と感謝されるのはいつ以来だろう。夜「爪を切って」とお願いされ手を握るととても温かい。ふいに涙がこぼれそうになり、気づかれぬように顔を逸らした。どうしてこんなに動揺してしまうのか。

 

嫌な記憶ばかりだった母。しかし、余命宣告のあと、ポコン、ポコンと小さな泡のように浮かんでくる母との思い出は、不思議と楽しかったことばかりなのだ。一緒に近所の商店街に買い物に行ったこと、クリスマスの夜に時計を買ってもらったこと、ときどき作ってくれるナスとピーマンのみそ炒めの味…

 

この病状では、医療でできることはないという。ならば、別のかたちで「手を施す」ことができないか。夜通し考えていた。

 

 

■生きているうちに

母が生きているうちに、着物姿を見せたい。まず、そう思った。その気持ちを森山さんに伝えると、すぐに都合をつけてまたも自宅に来てくれた。

 

ベッドから母を起こして車椅子に座らせ、私が着付けてもらう様子を見てもらう。成人式のときは「一生に一度なんだから」と母に着物を勧められたものの、父が亡くなったあとだったので「お金がかかるからいいよ」と断ってしまった。だから七五三のとき以来、人生二度目の着物。体調がすぐれない母はしんどそうだったが、最後はすこし笑顔になった。森山さんが母の手を握って話しかけると、うんうんと頷いていた。

 

「生きているうちに」

 

その制約がなかったらきっと叶わなかった着物姿のツーショットだ。はじめて実家の着物を紐解いてから2週間後、6月14日のことだった。

▲この写真の撮影者は娘。着物の整理のときも着付けてもらったときも、ずっとそばで様子を見てもらっていた。私が伝えられない着物のこと、少しでも感じてくれていると嬉しい。

 

 

■まだできることはある

6月の終わりに車椅子で近所のカフェへ行き、大好きなコーヒーを飲んで「おいしい」と微笑んだのが最後の外出。7月に入ると発熱を繰り返すようになった。口からうまく食べられず、眠っている時間も長くなっていく。

▲こちらの写真の撮影者は、編集学校師範であり松岡校長を撮り続けたカメラマンでもある後藤由加里さん。多読アレゴリアでは「倶楽部撮家」の瞬姿としてクラブを率いている。後藤さんに母を撮ってもらいたくて相談すると、重い機材を抱えてすぐ会いに来てくれた。この日、母と直接言葉を交わすことはできなかったが、レンズを見据える母の目に生命力を感じてドキリとしたという。「肉眼では見えないのに、ファインダー越しには見える世界がある」と語る後藤さんに後日撮影した写真を見せてもらうと、ずっとそばにいた私でさえ気づかなかった光景が映し出されていた。

 

7月25日、母は旅立った。長らく過ごしたわが家の一室で、母の好きだったパーシー・フェイスの「夏の日の恋」をイヤホンで一緒に聴いた。まもなく絞り出すように3度渾身の呼吸をして、逝ってしまった。

 

看取った夜から息つく間もなく見送りの準備が始まる。葬儀社から手渡されたカタログを開くと、祭壇の大きさもお花の数も棺の質もすべてにランクと値段がついている。弔いが商品として並び、こちらは選択肢から選ぶだけ。葬儀はカネで買う。突き付けられた現実に言いようのない空虚さを覚えたとき、イシス編集学校の「惜門館(せきもんかん)」を思い出した。

 

この数年、縁の深いふたりの師範が立て続けに亡くなった。抜群の編集センスと凛々しい風姿で多くのイシス人にとって憧れの先達だった渡辺高志師範は、伝習座の最中に倒れて急逝。翌年には、いつも底抜けの笑顔と弾むような言葉で編集の愉快を体現し続けた山根尚子師範が闘病の末に亡くなった。訃報に触れたイシス編集学校の有志が立ち上がり、百花繚乱の編集を尽くして故人を偲ぶ場をつくりあげたのが惜門館だ。言葉や映像、数寄や本、クロニクルや物語で世田谷豪徳寺のブックサロンスペース「本楼」を設えた一日限りの館は、訪れる人たちを「たくさんの高志師範」「たくさんの山根師範」の面影に出会わせてくれた。

 

ベッドに横たわる母は、ずいぶんと印象が変わっていた。体の下にドライアイスを敷き詰め、エアコンを最低温度・最大風量にすることで物理的な色艶はかろうじて保てても、在りし日の面影は急速に失われていく。葬儀の日に母に会いに来てくれる方々が、痩身の老女へ憐れむような眼差しを向ける場面が頭をよぎる。

 

気づけば、母の78年の人生クロニクルをまとめていた。押し入れからどっさりアルバムを取り出し、昭和20年代はじめの幼少期から学生時代を経て、父と出会い、妻となり、母となり、孫をかわいがる祖母となるまでの写真をかき集めた。撮影日や撮影場所が分からないものは調べる。古い写真はスキャンする。父の残した日記兼スクラップ帳からは、結婚前の母に対する恋心あふれる言葉を拾う。夜な夜な下準備をしたのち、葬儀の前夜、1本の動画に仕立てた。完成したときには窓の外はもうしらじらと明るみ、蝉が賑やかに鳴きはじめていた。

 

▲動画の素材集めのためアルバムをめくっているときに手が止まった一枚。母から離れたい、遠ざかりたいと思っていた私が、母に身を預けている。背中に添えられた手を見て胸が締め付けられた。

 

 

■抗いたかったこと

余命半年と告げられてからの2ヶ月はあっという間だった。手の施しようがないと言われて「命の限り」に向き合いながらも、ときには成り行きに任せることが心苦しくなり「なんとかしたい」という思いが湧き上がることもあった。いま思えば、それは「抗いたい」という気持ちだったのだと思う。

かつて松岡校長はこう言った。「世界が編集を終えようとしている。僕はそれに抗いたい」

 

余命宣告のあと、確執の続いた母に抗いたい気持ちはなくなった。消えゆく命の灯に抗ったのでもない。母でも余命でもなく、私が抗いたかったのは、硬直し動かなくなってしまった母との関係のほうだった。

 

いまは母が愛用したマグカップに熱々のコーヒーを注ぐのが日課になった。夜になっても減らないコーヒーを下げていると、涙のかわりに、間に合ってよかったという安堵と、いやもっと何かできたかもしれないという悔しさが込み上げてくる。だかこそこの先も私は抗い続けたい。編集を終えようとすることのつまらなさに。

 

編集:梅澤奈央

写真:後藤由加里(5枚目、7枚目)

  • 福井千裕

    編集的先達:石牟礼道子。遠投クラス一で女子にも告白されたボーイッシュな少女は、ハーレーに跨り野鍛冶に熱中する一途で涙もろくアツい師範代に成長した。日夜、泥にまみれながら未就学児の発達支援とオーガニックカフェ調理のダブルワークと子育てに奔走中。モットーは、仕事ではなくて志事をする。