この世界のなかで否応なく他者と共存している私たちは、誰一人として独立した傍観者になることは許されていない。
このことは、他者の視点を通じて自らを構成しなければオリジナリティを確立できないことを意味している(『機械カニバリズム』久保明教/講談社選書メチエ)。
たとえばネットコミュニティにおける発話は、書き手である「私」の意図とは異なる複数の文脈へと流出していく。このとき、ネットワーク上へ拡散された「私」は、より多くの読み手と接続されるチャンスを得ることと引き換えに、書き手でありながらどのように「私」を受容してもらいたいかを制御する権限を失う。
断片化された「私」の存在は、非自律的であるからこそ他者との接続可能性を増大させ、タグとして可視化されることで無数の文脈を横断し得るのである。
このようにネットワーク上へ積極的に主体性を置く創作様式は「N次創作」と呼ばれる。作家たる「私」は、自律的で完結した自己を主張するのではなく、他者との新たな繋がりを発生させる力によって存在を評価されるのだ。
いわば、ネット上で発信する「私」とは「0.5人称の私」であり、未知の他者に受容されることによって「一人称の私」が発掘されて行く。
こうした多層多重な相互編集は、現代のITテクノロジーによって今あらためて可視化されているのだが、そもそも私たちのコミュニケーションはN次の相互行為そのものなのである。
相互関係を構築するための第一歩は、自らの状況を相手から参照可能な状態に表示しておくことである。そして、相手から向けられる視線に自らの視線を重ねながら、互いに互いの気持ちを探り合う。
私たちの日常的な会話をみても、はじめに言葉を繰り出そうとした瞬間には、まだそこで伝えたいメッセージは完成されていないことがほとんどだろう。とりあえず言葉を繰り出すなかで、その意味や価値がおぼろげに見えてくるのだ。相互編集は、互いに行為を繰り出すことによって進展するのである。
相互行為から生きた「意味」を生み出すには、自分の不完全さや不完結さの一部を相手に委ね、一緒に意味や価値を生み出すというオープンなスタンスが必要なのだ。(『〈弱いロボット〉の思考』岡田美智男/講談社現代新書)
こうした相互行為論は、COVID-19のような差し迫った領土侵犯に対して有効な視点をもたらすことはないかも知れない。けれど、不足や欠落といった〈弱さ〉こそが自他の彼岸を橋渡しするのだとしたら、そこには私たちを一歩先の未来へ導くような編集可能性を見出せるのではないだろうか。
現代社会に暮らす私たちは、何であれ利便性を志向したデザインやサービスに満たされている。それらは疲れることを知らず、怖がることもなく、黙々と働くことを期待され、私たちはその利便性とのトレードオフとして、恩恵を「提供する者」とそれを「消費する者」という非対称な関係が社会に溢れることを甘受している。
その一方で、機能を削ぎ落としたチープなデザインが、むしろ人と機械のリッチな関係性を引き出してしまうことは刮目すべき行為方略と言えるだろう。自らの〈弱さ〉を積極的に受容するデザインは、周囲の参加や解釈を引き出す「余白」の編集なのである。
いま自分はどんな状態にあって、どこへ進もうとしているのか。「私」という情報は、一人きりでは意味や価値を開いていくことができない。
私たちは、「他者」との関わりを手がかりに自分の存在の質や意味を探り、自らの不完全さや不完結さを克服して行くべきなのだろう。
自分ではゴミを拾えない〈ゴミ箱ロボット〉
(岡田美智男/豊橋技術科学大学)
◆岡田美智男の開発する〈弱いロボット〉は、不完全だけれど、なんだかかわいい。周囲の者が思わず手助けしてしまう他力本願な方略なのである。◆〈ゴミ箱ロボット〉は、ランドリーバスケットにホイールとセンサーが取り付けられており、よたよたと歩いたりペコリとお辞儀をしたりはするが、自らゴミを拾う機能はない。◆不完全なロボットのたどたどしく貧弱なデザインは、私たちの手助けを引き出したり、相互行為を誘発する「余地」を残している。
[髪棚の三冊vol.4]見知らぬものと出会う
1) 想像できないことを想像する
2)世界は一つより多く、複数より少ない
3)美意識は怖がらない
4)「0.5人称の私」とN次創作
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
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