vol03.吸啜【言語聴覚士ことばのさんぽ帖】

2022/07/03(日)08:23
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 「話す」「聞く」「食べる」。

 私たちに綿々と受け継がれ、なんとはなしに行われてきた行為たち。

 あらためて注意のカーソルを向ければ、どんな景色が見えてくる?

 言語聴覚士の端くれである筆者が、もっとも身近な自然である「私」を寄り道たっぷりに散歩していきます。


 

 スリットから小さな突起が現れると、葉状の襞がそれを包み込む。

 隙間なくぴたりと密着させることが、コツなのだ。そのあいだは何者も干渉してはならない。数秒後、襞は離れた。水中には白い靄が漂い、突起はふたたびスリットの奥へと消えていった。

 「赤ちゃんがおっぱいを飲めるか、見守っています」
 テレビに流れたのはバンドウイルカの授乳シーンだった。続く「お乳を飲んで、すくすく育っています」の飼育員さんの言葉に、はっとする。そういえばイルカも私たちと同じ《哺乳》類だった。哺乳類であるから、お乳を飲むのだ。
 イルカのおっぱいを想像できない人は多いだろう。それもそのはず、普段イルカの乳頭は下腹部の生殖孔の左右にある小さなスリットの奥へと収納されている。付近が刺激されたときだけ乳頭は飛び出し、そこへ子が舌を丸めてぴたりと吸い付く。そうすることで飛び出てくる母乳だけを器用に飲んでいるのだ。
 子の舌は、乳首との密着のため葉状の襞を持つが、やがて歯が生え栄養源が魚へと移る頃には、つるんとした形状に落ち着いている。
 乳房へと吸い付く仕掛けは、命をつなぐ彼らの身体編集といえるだろう。



 私たち人の赤ちゃんも、唇や舌を使って乳首や哺乳瓶へと吸い付くことができる。
 朧気な視力にもかかわらず、突起を探り当て、口へと含み、吸うというリズム運動をこなす。その光景に触れるたび、自然界の鮮やかな奇術に魅せられる心地となる。
 この乳児の吸う行為は、「吸啜(キュウテツ/キュウセツ)」と呼ばれる。彼らの姿を、より引きで観察すれば、この吸啜と嚥下と呼吸という三位一体を並立させ、真新しい命を響かせていることがわかる。
 「生まれたばかりなのに、すごい」
 そんな感嘆がつい漏れるが、その考えは早計だろう。なぜなら、私たち人類もまた、イルカ同様、誕生に向けて虎視眈々と自己編集を行ってきていたからだ。
 舞台は、胎児の時代へと遡る。


 私たちは母胎の中で、十月十日、羊水に漬かって過ごしていた。
 そのため、耳、鼻、口といった発生する孔という孔から水は侵入し、胎児の内外を潤した。「侵入」と書いたが、決して受動的なものばかりではない。即ち、妊娠中期を迎える頃、胎児はこの水をおもいきり嚥下するようになっているのだ。
 羊水は、食道、胃袋、そして腸へと渡り、尿となって体外へ戻ってくる。体の内側のすみずみまで、浸潤は進められる。
 また、羊水に喉を鳴らしていた胎児は、次第、指をしゃぶるといった吸啜運動も獲得しはじめる。嚥下と吸啜はそれぞれに繰り返され、やがて二者は協調運動へと仕上げられていく。
 この間、もう一つ大事な下地が並行して仕度される。それが、呼吸だ。
 実は、胎児は自らが漂う液体を、肺いっぱいに吸い込んでは吐き出している。普段、肺に空気を運んで暮らす私たちには信じがたい事実だが、これは「呼吸様運動」と呼ばれ、出産時から始まる肺呼吸への予行演習となっている。

 「嚥下・吸啜・呼吸」。胎児は、限られた空間のなか、己に必要な機能を密やかに身につけ逞しく育っていたのだ。

 さらに、誕生後も戦略は練られていた。

 お乳を吸う際の「突起を探し」、「口に含み」、「吸う」という行為は、実は反射の一種を利用しているのだ。それぞれに「探索反射」、「口唇反射」、「吸啜反射」と呼ばれ、出生後の限られた期間のみ体に備わっている。
 意識/無意識の境は別にして、こうした反射運動もまた、肉体と脳の共同作業という点では、胎児の頃のトレーニングの賜物といっていいだろう。
 嬰児が哺乳にみせる鮮やかな一連は、母胎の波に嬰児自らが起こしてきた身体編集の成果だったのだ。


 ここで改めて「吸啜」という漢字に注目してみよう。

  【吸】息を引くこと。(擬声的な語と推測される。)
  【啜】なく。すすりなく/すする。なめる。くう。
     叕は短い切れ切れのものを連ねるの意。

 (『字通』白川静 参照)
 
 意味を見ると、口元で吸うごとに断片であった要素たちが結ばれていく絵が浮かんでくる。このアナロジーに言語聴覚士として頭を過るのは、哺乳の吸啜とつづく言葉の発生との関係についてだろう。
 私たちはマンマン[maNmaN]などの喃語から言葉を始めるが、この「マ」行は唇によって出される音だ。そのため、吸乳の響きは、言葉の扉を開こうとする音色にも聞こえてくるのだ。
 三木成夫は『胎児の世界』の中で、このマ-ma-音を哺乳動物の象徴音と記述している。三木は続けて、マ-ma-を「西欧諸国での所有代名詞(ma,my…)」や、「「マナ識」のmanasすなはちmind」へと至る古代インド語のmaへと進展させながら、われわれ人類がこの唇音を一つの軸として「強烈な自我」を目覚めさせゆくのではないかと明察する。

 その考察に【吸】や【啜】の漢字を重ねてみれば、赤ん坊のひと吸いひと吸いが撚糸となって、口元から「私」が編まれていく景色が見えてくるようだ。


 さて冒頭では、《哺乳》というイルカとわれわれの「目に見える」共通項を紹介した。では、「目に見えない」共通項は?
 それは、体温だ。私たちの平熱は、互いに36~37度ほどで保たれている。恒温性もまた、多くの哺乳類の特徴であり、種の存続戦略の一つだった。

 イルカたちは、羊水と同じ水のなかに生まれても冷ややかな海水は飲まない。温かな母乳を飲んで、命を繋ぐ。

 私たちと彼らは、ひたむきに人肌を求め啜ることで今日までを生き延びてきた仲間といえるのかもしれない。

 

写真:高らかに空を舞うバンドウイルカ。

   京都水族館にて撮影。水族館には今秋出産を控えるイルカもいるという。

   元気な赤ちゃんの誕生を願うばかりだ。

 

  • 竹岩直子

    編集的先達:中島敦。品がある。端正である。目がいい。耳がいい。構えも運びも筋もよい。絵本作家に憧れた少女は、ことばへの鋭敏な感性を活かし言語聴覚士となった。磨くほどに光る編集文章術の才能が眩しい。高校時代の恩師はイシスの至宝・川野。

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