■ピノコのもと
子どもの頃から、からだのしくみに興味があった。『からだのひみつ』はページがばらばらになるまで読み込み、内臓のスケッチに夢中になる子だった。
学研まんが・ひみつシリーズ『からだのひみつ』
(現在は改訂版が登場して内容も刷新されている)
小腸のひだひだを広げるとテニスコート一面分という事実があまりにも鮮烈で他に何が書いてあったか、もはや覚えていないのだが、とにかくページごとに登場するあらゆる臓器の絵を食い入るように眺め、必死に模写した記憶はある。医学部1年のカエルの解剖実習の時は、自分が思っていた通りに内臓が配置されているのを見て、懐かしさすら覚えた。
『ブラック・ジャック』ももちろん大好きだった。特に、ピノコが誕生するきっかけとなったシーンに釘付けとなった。怖いのにかわいい。気持ち悪いけど面白い。おどろおどろしいお腹の腫瘍からかわいい女の子が誕生するなんて!「あっちょんぶりけ!」と叫ぶ、ピノコのやわらかなほっぺたの感触を想像したりした。
「第10話 畸形嚢腫」がピノコ誕生のエピソード。ちなみに秋田書店から刊行されているエディションでは第1巻に収められている。
医学部に入ってから、ピノコのもととなった腫瘍が、「皮様嚢腫(正式名称は、成熟嚢胞性奇形腫)」という名称を持ち、しかも女性の卵巣腫瘍として代表的と言っていいほどよくある病気であることを知り、衝撃を受けた。ドクターであった手塚治虫が、この不思議な腫瘍からピノコの着想を得たことに、改めて感動し尊敬を新たにしたりした。
私は、だいたい月に数件、この腫瘍を診断している。ピノコ誕生のシュールなシーンのように、肉眼で見るとこの腫瘍はかなりグロテスクで、袋のような組織の中に、毛髪がぱんぱんに詰まっていたり、時に、立派に完成した歯や骨がごろっと出てきたりしてぎょっとする。
成熟嚢胞性奇形腫の病理組織像
肉眼の写真を掲載するのはちょっとはばかられたため、日本病理学会のホームページにある病理コア画像から成熟嚢胞性奇形腫の組織写真を供覧する。身体を構成している様々なパーツがパッチワークのようにつめこまれているが、下の写真のように、完璧な皮膚構造もよく観察される。
奇形腫とは、医学用語で「異なる胚葉成分が組み合わさってできた腫瘍」を意味する。「胚葉」というのは、将来どの臓器の細胞になるか、ざっくりした方向性が決まった状態の細胞たちで、外・中・内胚葉と3つにグループ分けされる。
成熟の意味は、医学的な使われ方において「分化」という言葉と切り離せない。「分化」とは、細胞それぞれがその役割に特化した機能と形態を有していく現象のことで、高分化な状態が、“成熟“を意味する。形態的にも機能的にも、これは皮膚、これは脳神経、これは肺の細胞、というように認識できる状態を成熟しているとみなすのである。たったひとつの受精卵は、外・中・内胚葉という分類を経て、37兆個もの成熟しきった細胞になるのだ。
つまり、成熟嚢胞性奇形腫とは、様々な種類の成熟細胞がまるでパズルのピースのように雑多につめこまれた、“びっくり箱的”腫瘍なのである。
■皮膚と脳とワタシ
多くの奇形腫は、外胚葉由来の細胞成分のボリュームが多い。外胚葉由来の細胞は、主に2つあり、皮膚と脳神経組織である。なぜ奇形腫を構成する成分の中で外胚葉由来、つまり、皮膚や脳の細胞が多いのかは、どの教科書にも明記されていないが、俗名の皮様嚢腫は、肉眼的に「皮膚のようなものが含まれた袋状の腫瘍」の意味である。時に皮膚組織より脳神経がたくさん含まれる場合があるのだが、そう言う奇形腫を観察していると、この腫瘍に含まれる脳組織も、何かものを考えていたのかなぁとSF的な発想に向かってしまったりする。『ブラック・ジャック』のあのシーンが頭に焼きついているからかもしれない。「ちゃんと診断してくれよ〜」と腫瘍からテレパシーを送られてたらコワい。
それにしても外胚葉由来の細胞が皮膚と脳神経組織なのは面白い。意識と身体の中枢として頭蓋骨の奥に潜む脳組織と、身体全体を覆っていて表面からどこでも観察可能な皮膚組織がもとは同じ仲間であるということが、なんとも興味深かった。脳の奥底に隠されていたワタシが、皮膚を通して外界に放たれていく、気の流れみたいなものがイメージされる。
ある日、千夜千冊で『皮膚-自我』という一冊に出会った。私のぼんやりしたイメージを明晰に言語化している人がいるということを知った。
アンジューは、そのようにしてできた皮膚にはきっと「自我の前駆性」がひそんでいるだろうと推理した。身的自我と心的自我は脳と皮膚との両方で補完しあっているのではないかとみなしたのだ。(1501夜『皮膚-自我』)
皮膚における「自我の前駆性」という見方に膝を打つ。自己というのは外界との接触によってはじめて確立されていく、と言い替えられることだろうか。私たちは、皮膚に覆われているからこそ、世界との間に境界をもち自己を保てる。母の温もりからはじまる触知的感覚が自我の確立には不可欠だろう。
「皮膚−自我」は自己的なるものの、あらゆる意味における展延なのである。(同千夜より)
展延。耳慣れない言葉だが、皮膚が、外に広がっていく脳の触角のように思えてくる。触角というより形状的にはひらひらとしたフレアスカートか。触角のようにぴんぴんとあちこちに指を伸ばすというのではなく、脳自身の縁がひらひらとしながら、カラダ全体を包む。世界を知りたくて思わずせり出してきたかのように。
さらに、千夜千冊では、校長がアンジュ―の皮膚-自我論をさらに“展延”し、ここにはメルロ゠ポンティのいう「かかわりあい」や、
フォン・ヴァイツゼッカーがゲシュタルトクライスに覗きこんだ「からみぐあい」も関与しているに決まっていると云う。さらにホワイトヘッドの「抱握」もここに出入りしていると見なし、「皮膚−自我」においては維持と抱握と内包とは同意義なのである――、と断言した。かっこいい。
維持と抱握と内包が同義語。この3つのキーワードから連想されたのは、ワインバーグの一般システム思考である。皮膚-自我システムは、皮膚によって境界と見方を持った、といえるし、我々は視覚よりも先に皮膚越しに世界を知るということなのかもしれない。
■脳と皮膚は瞳で再会する
視覚と書いて思い出したが、実は、瞳というのは、脳組織と皮膚が接し合って形作る唯一の器官である。瞳の表面には角膜があるのだが、その表層は表皮外胚葉由来、内側は、神経外胚葉由来の細胞で構成されており、それらがピッタリ重なり合って眼球を覆っているのである。
眼球の一点において、皮膚と脳は互いに触れ合い、世界の感じ方を共有しあっているようだ。『皮膚-自我』を読んでから発生学の教科書を再読し、そのことに気づいた感動が今でも忘れられない。
相手に触れ、視線を重ねることは、皮膚-自我ループを相手と創っていくことである。最初は赤ちゃんとお母さんがそうやって絆を深めていくけれど、しだいに新たにループを作る大切なひとを見つける旅に出る。愛する人に見つめられた時、全身を駆け巡る、甘く痺れるような皮膚感覚。外胚葉由来の細胞たちが一斉にその偶然を必然化する。
ピノコは、皮膚-自我が凝縮されたミューズなのか。だからこそ、ブラック・ジャックを魅了してやまないのでだろう。あの愛らしいくりくりとした瞳とふわふわの皮膚によって。
追伸:ピノコを模写してみた。”ピノコ・原画”とサイトで検索し、気に入ったピノコちゃんをパソコン画面に大写しにし、黒のVコーンで一発勝負。書き始めがうまくいかず、何度も描き直す。「よし、書くぞ!」と気合いを入れると力が入ってうまくいかないので、落書きのモードを自分の中に作りながら、なんとなく描き出しはじめ、「ピノコちゃんカワイイなぁ~」と呟きながら描いた。いや~、ものすごく難しかった。手塚治虫先生への敬愛と「マンガのスコア」の堀江純一さんのコラムごとの努力を再認識いたしました。
小倉加奈子
編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。
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