発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

2002年の大阪。上方伝法塾の塾長、はじめてのナマ松岡正剛は超高速だった。西鶴や蒹葭堂、山片蟠桃らを織り込んで関西経済文化を濃密に説いたかと思うと、目の色を変えて灰皿のもとに行き煙にまみれる。とても近寄れる空気ではない。それなのに、まだ〔破〕の学衆でホヤホヤの伝法塾衆だった私が、食事の会場へ向かうタクシーに添乗することになってしまった。もう二度と隣席する機会はないだろうからと、かねてからの疑問をぶつけてみた。「Xが空間でYが時間だとしたらZは何になりますか」。松岡校長は太い眉毛をあげて微かに笑い、「それは“やってくるもの”ですね」と即答だった。5時間にわたる苛烈な講義にもイシス編集学校にも触れない、通りすがりに投げたボールのような質問を受けてもらい、このひとにもっと近づきたいと思った。
それから21年後の春、49〔破〕で番匠をしていた私は、木村久美子月匠とともに第81回感門之盟で校長へインタビューをする機会を得た。校長は何にでも応えてくれるはず。事前におおよその方向を決めるオンライン会議で、私は編集学校を何かに転用するなら何がいいかとたずねた。ところが「その聞き方じゃダメ」とたしなめられた。編集学校に入門して四半世紀、花伝所や物語講座の師範、風韻講座の連雀や離の火元など、編集学校で何某かの役目を務め続けた私が、その場に関わっていながら、そこで感じ続けてきたことを置いて「通りすがりの顔」をしたからだ。思えば編集学校ではいつも何かが動き出し、まったく飽きることがなかった。いったいそれは、松岡校長のどんな編集的背景によるものなのだろう。
迫る感門之盟のテーマは「律走エディトリアリティ」だった。「エディトリアリティ(編集によって生まれるニューリアリテイ)」は『知の編集工学』にもある松岡校長による造語だ。既存の言葉では取りこぼす、知覚が捉える精妙な動向を言語化するところに編集工学の凄みがある。そう思う私が、この言葉がどうやって生まれたのか問うと、画面の向こうの校長はふわりと煙を吐いて語りだした。
「何かをもう一度見ると、自分が見てる行為以外のものがソコにはじまりますよね。これを僕はアクチュアリティって捉えたんですよ。それはもう単なるリアリティではない」
このアクチュアリティの捉え方には、若き校長がめざしたアルフレッド・ホワイトヘッドの概念「アクチュアル・エンティティ(活動的存在/活動的生起)」がヒントになったといい、続けた。
「編集って既存のものを動かすんだから二度目だよね。じゃあ編集によって動き出すものは何かってことでエディットしたアクチュアル、エディットリアリティとネーミングしてみたんだね」
枠のなかの私はよほどポカンとした顔をしていたのだろう。感門之盟当日の壇上でホワイトヘッドの話はあまり出なかった。しかし後日私は、ホワイトヘッドを語る千夜千冊を通して編集学校に出会いなおすことになる。
そのような関係性を失わない現実的な出来事こそが、アクチュアル・エンティティであって、その内部には“point-frash” が秘められていたのだった。(995夜 『過程と実在』)
ようするに、世界は「かかわり方」なのである。「場」とのかかわり方なのである。「関係性の森」なのだ。ネクサスなのだ。それが世界というものの本質であって、それ以外の世界は世界観には入らないということなのである。(1267夜 『ホワイトヘッドの哲学』)
エディトリアリティも関係づけのあり方のなかで生まれていて、「場」と新たな関わりをつくり続ける編集学校は常に新たな世界をつくり出している。教室の名前は別々のイメージが合成され、師範代は期ごとに新たに組まれ、文体編集術では知との出会いを大切にする。ラウンジでは誰かの言葉を次の誰かが繋ぎ、その過程で新たな意味が生まれていく。校長は、ホワイトヘッドの「関係性の森」の上に編集の森を築いたのだ。問い方への校長の注文は、その場にしっかり関わってアクチュアルであれということだったのだ。感門之盟ではいつも和装する私に洋装での登壇を求めたが、それも、場への関わりを新鮮にするためだったのだ。“その場” というXとYを特別にすることで、編集学校を生き生きとさせるZがやってくるのである。
2024年6月1日の破講座の伝習座は、校長にとっての最後の伝習座となった。休憩時間に私は、20年以上前の上方伝法塾の「アナザージャパン」と現在進行中の近江アルスの「別日本」は同じですかと聞いた。「そのとおり。よくおぼえてたね。大阪はねぇ……」。ゆっくり息を継ぎながら思い出を語る声が、ところどころ消えていく。私は黒い大きなソファの横にしゃがんで頷いていたが、肺への負担を思い会釈して立ち去ろうとした。去り際に校長は、私の腕をポンポンと叩いてくれた。その手のひらは戸惑うほど軽く、やわらかかった。この原稿を書くことで、あの瞬間は、もう単なるリアリティではなくなった。手のひらごしに託されたものを問うていきたい。
イシス編集学校 師範 野嶋真帆
野嶋真帆
編集的先達:チャールズ・S・パース。浪花のノンビリストな雰囲気の奥に、鬼気迫る方法と構えをもつISISの「図解の女王」。離の右筆、師範として講座の突端を切り開いてきた。野嶋の手がゆらゆらし出すと、アナロジー編集回路が全開になった合図。
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2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。
2025-06-30
エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。
2025-06-28
ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。