【多読アワード】仮説を立てる心は科学である(畑本浩伸)◎【忠】の宝珠 SEASON19

2025/01/11(土)08:00 img
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去ること、多読ジムseason19では「三冊筋プレス◎アワード」が開催されました。お題は「古典に親しむ三冊」。今回は古典にちなんで「八犬伝」仕立ての講評です。【智】【忠】の宝珠を得たお二人の創文をご紹介します。どうぞお楽しみに。

 

三冊筋プレス[古典編]◎【忠】の宝珠は、下記の作品に贈られました。

 

受賞者:畑本ヒロノブ/スタジオかのん

●タイトル:仮説を立てる心は科学である
●書籍:

 『科学と仮説』アンリ・ポアンカレ/岩波書店
 『非線形科学』蔵本由紀/集英社
 『ソリトン 非線形のふしぎ』渡辺慎介/岩波書店
●3冊の関係性(編集思考素):三間連結

 人類の営みのなかで仮説が果たす役割の大きさを説いた知文です。役に立つかどうかという基準で研究予算がつけられる昨今の状況は、不確実性に耐える芯の太さが失われた社会の表れといえます。そんな世の中に対して、仮説は成功しても失敗しても勲章を与えられるべきで、仮説を立てるという人間の営みを信じていきたいという畑本さんの心意気を爽やかに描きだしました。
 科学哲学の古典に解説書二冊を加えて、科学と社会の相互作用を馴染みのある事例で表現されているところに、「読む」から「書く」への良質な再編集が見て取れました。一方、最後の「情緒や心」と「科学的な営み」の関係が急ぎ足になっていました。畑本さんの読みを含めた解説を読んでみたかったです。
 さて、多読ジムとしては、読んだ本の何に注目し、いかに次の本へ移っていったかという読書の道すじが丁寧に取り出された点に注目。三冊がつながっていくポリフォニックな読書の描写がお見事でした。また、三冊から共通して「仮説」の効能を取り出したところに、複数の本を再構築して読むという編集的な方法が織りこまれています。畑本さんのイシスの方法に富んだ取り組みに選匠一同感じ入り、ここに「忠」の珠を進呈いたします。

講評:吉野陽子 選匠

 

「仮説を立てる心は科学である」畑本ヒロノブ/スタジオかのん

 

1.仮説の裏切りを怖れない。

 2003年に学界で注目を浴びたロシアの数学者がいた。幾何化予想およびポアンカレ予想の証明に成功したグリゴリー・ペレルマンである。彼は2006年に数学分野でのノーベル賞とされる「フィールズ賞」の受賞を辞退したことで、2度も世界を騒がした。1995年にフェルマーの最終定理がアンドリュー・ワイルズによって解かれたときのような、知的興奮に溢れる賑わいだった。ポアンカレ予想とは、フランスの数学者ポアンカレが1904年に提起した予測で、「三次元の閉じた多様体が1点に縮むとき、この多様体は球になる」というものである。現代数学や現代物理を研究するために必要な図形の一種「多様体」について、人類の理解を深める予測であった。

 ポアンカレは数学者だけでなく、優れた科学評論家の顔を持っていた。最も早くに出版されたのが、1902年の『科学と仮説』である。科学についての真理を示すために、仮説の役割について吟味している。仮説には3種類あり、検証可能なモノ、我々の思惟を固定させるために使われるモノ、見かけ上なだけで偽装された定義や既約に帰着するモノがある。ポアンカレの視点によって、2番目と3番目の意味での仮説が果たす役割の大きさを知ることが肝心と説かれる。ポアンカレの生きた時代は数学の分野でも物理学の分野でも変動の激しい時代である。勇敢に立てた仮説が砂上の楼閣のように崩れ去ることもあった。「覆された仮説は不毛なものだったということになるのだろうか。とんでもない、それは真なる仮説以上に役立ったというべきである」とポアンカレは述べる。仮説という計画書がなければ実験というプロフィールを経て、検証結果となるターゲットへと進むことはない。失敗した仮説にも本来は勲章を与えるべきなのだ。

 

2.リズムとソリトンの夢を見る。

 ポアンカレがいた時代から半世紀以上過ぎ、計測技術の進歩とともに、自然界の内側に明確な法則が宿っていることが次々と明かされる。物理学者・蔵本由紀は『非線形科学』の中で「どれほど身近で重要なものでありながら、科学としてのリズム現象は近年までごく未発達でした。非線形科学の展開とともにこの閉塞状況は打ち破られ、今では生物学、脳科学、医学、工学などのさまざまな分野でリズムと同期の理論は不可欠のものになりつつあります」と語る。例えば、音楽のテンポを客観的に示す器具「メトロノーム」の周期的活動を当たり前のように見ていないだろうか。現象だけでなくメカニズムに注意を向け、振り子の原理を応用したぜんまい仕掛けの動きをイメージしたり、動画で見てほしい。

 蔵本氏はカオスに基づく力学運動にも注目していた。カオスとは決定論的法則に従ったシステムが示す全く予測不可能な挙動である。この運動の兄弟となるのが、物理学者・渡辺慎介の『ソリトン』で示される運動だ。ソリトンとは非線形方程式に従う、粒子のようにふるまう孤立波である。波形や速度を変えず、頑丈に伝搬する。互いに衝突しても、その性質を変えずに通り抜ける波は、葛飾北斎の代表作の情景にも映っていた。横大判錦絵『神奈川沖浪裏』で描かれる波頭は、内側に巻き込まれたままに確固たる意思をもって突き進む。「ソリトンはある特別な媒質に存在する特異な現象ではなく、非線形分散系にみられる普遍的な現象である」とされている。この現象については、基本的方程式を導き、その解を求めるプロセスまで明らかになっている。物理学者が北斎の絵を観るとき、奥にある富士山をターゲットにしつつ、荒波に呑まれた舟に乗っているような気分で、ソリトン方程式をアタマの中で解きながら舟の揺れと波の動きを予想していそうだ。

 

3.心は科学である。

 ポアンカレは『科学と仮説』の中で、ニュートンやライプニッツが考案した微分積分で使われるような記号を創り出す能力が人間に備わっており、記号の組み合わせによって固有の概念システムを構築したことを強調していた。ペレルマンが証明した多様体の現代数学にしても、蔵本氏が先駆者となった現代物理学にしても、学術論文に掲載されるのは抽象化された数式と証明、それらを補足する実験データである。人類の宝ともいえる定理や法則をじっくりと整理し、蓄積する必要がある。

 導かれた数式を工学や医学などの具体的な現象を扱う応用学問へと適用し、モノやコトのイノベーションとして展開することで、基礎科学への投資が社会に還元される。すぐに役に立たない科学の予算を虫の目の見方でカットして、ないがしろにしてはならない。日本の数学者である岡潔と津田一郎は情緒や心に数学が宿ると信じていた。ポアンカレは彼らの先達として、俯瞰的に人類の科学的な営みを確信していたのだ。

  • 畑本ヒロノブ

    編集的先達:エドワード・ワディ・サイード。あらゆるイシスのイベントやブックフェアに出張先からも現れる次世代編集ロボ畑本。モンスターになりたい、博覧強記になりたいと公言して、自らの編集機械のメンテナンスに日々余念がない。電機業界から建設業界へ転身した土木系エンジニア。