54[破]第2回アリスとテレス賞大賞作品発表!テレス大賞 帆良邦子さん

2025/09/01(月)12:00 img
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物語編集術は[破]の稽古の華である。課題映画を読み解き、翻案の工夫で別様の物語として紡ぐ。

 

今日紹介する物語テレス大賞は帆良邦子さん(サルサかかりっきり教室)。大航海時代のオランダを、緻密な時代考証で人々の息遣いが感じられるほど見事に描いた作品だ。

クレヨンしんちゃんは、17世紀のアムステルダムというトポスで少年ヤンとして生まれ変わった。

海風を感じながら、あなたはヤンとともに出航する!

 


 54[破]≪アリスとテレス賞≫「物語編集術」


【テレス賞:大賞】

 

■帆良邦子(サルサかかりっきり教室)

『葡萄の木』            

原作:クレヨンしんちゃん

酸っぱい葡萄

 船尾の大きな白い象が朝日でいっそう眩しい。「明日、出航だ。寂しくなる。決めたの?」やらなければ、来年は徒弟に出される。でも言葉にできなかった。二つ上のクーンは船大工の息子で、この四ヶ月、父親について東インド航海船<白象>の整備を手伝っていた。クーンは気づかうように言った「無理するな」。旧教会の鐘が半時を打つ。「帰らないと」ぼくは、縄職人の所で撚り糸を受け取り、父の待つ工房に急いだ。「遅かったじゃないか、また道草か」父は息の詰まるような薄暗い工房でぼくを嗜めた。「ご飯よー!」母の声に救われ、食卓へ。タールの染み込んだ手を組み、父が祈る。ぼくはスープを食べ、パンはそっとポケットに隠した。「父さん、本を買ってくれるんでしょう?」「ああ、そうだったな」

 本屋に入るや否や『ボントク船長航海記』を手に取った。「そんな本、なんの役にも立たん」と父は『イソップ寓話集』を手渡した。口答えする勇気などなかった。

 寝つけない。『イソップ』をめくってみた。いつの間にか夢中になった。きつねがやって来る。何かくわえている。「え、葡萄?酸ぱいからいらないって…」「鶴に頭下げて背中借りて枝に飛びついてな、噛み切ってやったのさ」「案の定、酸っぱいけど、挑戦ってのは諦めの負け惜しみより尊いもんだなぁ」夢か…。よし、ぼくは目を擦り、石盤と蝋石、水筒とコップ、それに乾かしたパンを麻のズタ袋に詰め込んだ。そして夜明けとともに波止場に急いだ。

 

ド―ドの背中を借りて

 甲板の往来は激しい。今だ!ぼくは恐怖で震える膝をごまかしながらクーンの指示通りに進んだ。荷室に入ると樽の後ろの帆布や縄を掻き分け、そこに倒れ込んだ。ギシギシと船が軋む音で我に返った。出航だ。安心の涙が溢れた。翌朝、荷室に陽が射し込むと石盤にIの字を書いた。7つ揃えば一週間、バタヴィアまでは170くらいか、気が遠くなる10日目、喉の渇きに耐えかね水樽に手を掛けた。コップに水をなみなみと注ぎ、一気に飲み干した。だが蛇口がしっかり閉まらない。ポトポト音を立てて滴る水に狼狽した。まずい誰か来る。ぼくは立ち竦んだ。炊事番の少年だ「ずっとここにいたの?――ちょっと待ってて」と、豆粉の粥を持って戻ってきた。優しさにふと母を思った。「ありがとう。ぼくはヤン、君は?」「ドド」水夫だった父親がつけた愛称だという。なるほど大柄で、おっとりしてる。ドドはクーンと同じ12歳、でも孤児だった。ある夜、ドドはぼくを大きな小麦袋に詰めると、厨房まで担いで静かに置いた。そして「君は今日から小麦だよ」と笑った。満天の星の下、ぼくらはねずみのように声を殺して寄り添った。それは白象を見ながらクーンとヒソヒソ密航の計画を練って過ごした時間に似ていた。Iの字がいつの間にか90を超えたあの日、横波が船を襲った。厨房の木炭が甲板に飛び、炎が上がった。ドドは逃げずに炎に対した。だめだ、ちがう!ぼくはマストに飛びつき夢中で警鐘を鳴らし、大声で叫んだ「火事だ!」巣からアリが出てくるように水夫が次々と甲板に現れた。甲板長の号令でバケツリレーが始まると炎はすぐに収まったが、火傷を負ったドドは力なく甲板に横たわっていた。「ドッ、ドド――!」ぼくの叫びを甲板長の怒鳴り声が掻き消した――「密航者だ、捕えろ!」

 

海の掟

 マストに縛りつけられ、目を瞑ってクーンの言ってた鞭打ちを待った。歯を食い縛るが、甲板は静まり返り、コツン、コツンと靴音だけが響いた。「おまえの勇気が大事を防いだ。着いて来い」提督室に入ると、大きな海図に見入った。「名前?」「ヤン」「年?」「11歳」「父親は?」「新市場区の靴職人ハンス・ダース」「なぜ密航を?」「船乗りになりたいんです」「よかろう。密航者は次の寄港地で降ろすのが決まりだ」提督の言葉は、概ねクーンから聞いてた通りだったから、驚きもしなかった。

 「提督、炊事番を葬ります。お出でください!」

「う、うそだーー!ドド―――!」提督の低い声が響いた。「泣くな。船に乗るとは、こういうことだ。送ってやれ」

 鞭打ちを逃れたぼくに課されたのは水夫の手伝い、これもクーンの想定内だった。圧倒的な権力を振りかざす甲板長に水夫は脅え、保身のために平気で仲間を裏切った。厨房から物を掠めようものなら、容赦なく鞭で打たれた。

 

ドードーの住む島

 船団はモーリシャス南東の港に錨を下ろした。陸に上がれば甲板長などただの人。肉に飢えた水夫はここぞとばかりに棍棒でドードーを殴り、敵を知らぬ鳥は抵抗せずに息絶えた。身を守らず火傷を負って蹲っていたドドの姿が重なり、ぼくは泣いた。会社が西アフリカから連れて来た奴隷は休む間なく森林伐採に駆り出され、ドードーの住処を奪っていた。簡素な要塞には30人程が常駐し、酒を煽っては、船の寄港を今か今かと待っていた。罪の意識に襲われた。正義って、いったい誰が決めるんだろう。材木と食料と水が積み込まれ、白象の出航準備が整うと、提督が言った。「水夫として登録した。行く先は自分で決めろ」ありったけの勇気をぶつけた。「ドードーを守らないのですか?」提督は一瞬、顔を強張らせたが、言った。「我々商人が守るのは利益だけだ、覚えとけ」ぼくは渾身の力を込めて提督を睨み返すと、言ってやった。「ぼく、職人の息子です。必ず帰ると父に知らせてください」提督は頷くと、去った。力を使い果たし、その場に倒れ込んだ。どこからか、きつねの声が聞こえた。「よくやったぜ。飛びつかない方がいい時もある。葡萄なんてさ、熟せば、落ちる。生きて帰るんだな」今、何ができるか。ぼくは石盤と蝋石を取り出すと、ドードーの姿を忠実に残そうと懸命に写生した。絶対に忘れないと。

 

葡萄の蔓 

 5ヶ月が過ぎ、菜園の作業にも慣れた。熱帯では野菜を育てるのむずかしい。それでも毎日、芥子菜、キャベツ、サツマイモを採った。真っ黒い手は父の手に似て、なぜか嬉しかった。その時、要塞の鐘が高らかに鳴った。急いで要塞に戻り、双眼鏡を手にする。まちがいない、オランダ船団だ!新米水夫のぼくはハーレム号に乗船し、帰路に着いた。喜望峰を過ぎ北上中、南東風に煽られ、ハーレムは座礁した。乗員と積荷を他の二隻に振り分けるが、すべてを積みきるわけがない。バラックを建て、積荷とその見張りに60人もの仲間を残し、二隻船団は再び出航した。航海なんて聞こえはいいけど、ただの荷運びだ。8月末、16ヶ月ぶりにアムステルダムの波止場に戻ったぼくは12歳になっていた。父の姿が見えた。胸に飛び込んだ。タールの匂いが懐かしかった。父は同僚親方に言った。「三年で葡萄を実らせて、私に返してくれ」

そして、ぼくには「母さんが待ってる。クリスマスには帰れ」と言って、足早に去って行った。父らしかった。背後に穏やかな視線を感じ、振り返った。クーンが駆け寄ってぼくを抱きしめた。「父さんのように、根を張って、蔓を伸ばし、葡萄を実らせる木になるよ」と、ドードーを描いた石盤を託した。クーンはそれを見つめ、嬉しそう言った。「この町で一緒に親方を目指そうな!」

 

◆講評◆

 しんちゃんを少年に、イーサンをスパイに、寅さんをはぐれ者に翻案するとどうしても焼き直しに陥りやすいのですが、本作は、徹底した時代考証をテレスの帆として、見事まったく異なる世界に帰航しました。17世紀オランダ。大航海時代全盛期のアムステルダム。一切の緩みを見せずディテールを緻密に描き切り、撚り糸の手触りやタールの匂いから、熱帯の潮風、職人の子の価値観まで、細部の彫琢によって時代の空気感を立ち上げた手際は圧巻でした。

 物語の転機となったのは、モーリシャス島の固有種ドードー。欧州人に乱獲され絶滅したドードー鳥の悲劇は、その先触れとして散った心優しい炊事番の少年ドドの最期とも重なり、主人公に気づきを与えます。父と息子をつないだイソップ寓話のメタファーもきいていました。

 マタ・タミが序盤で死んでしまうことや、プリリンが誘惑者というよりある種の導き手になっていること、嫌々ながら召喚される英雄という原作モデルを外れていること、しんちゃんにしては立派に成長しすぎたことなど、クレヨンしんちゃんらしい翻案かと言われれば気になる点はあるものの、そんなことが吹き飛ぶほどの豊潤なテレスの滋味に敬意を表します。帆良さん、見事な稽古ぶり、書きぶり、描きぶりでした。テレス大賞、おめでとうございます。

講評=評匠:福田容子

 

 

54[破]第2回アリスとテレス賞大賞作品発表!

アリストテレス大賞 高橋杏奈さん
アリス大賞 中山香里さん
テレス大賞 帆良邦子さん

  • 戸田由香

    編集的先達:バルザック。ビジネス編集ワークからイシスに入門するも、物語講座ではSMを題材に描き、官能派で自称・ヘンタイストの本領を発揮。中学時はバンカラに憧れ、下駄で通学したという精神のアンドロギュノス。