どうして蝉は7日で死ぬのだろう。雨はなにをもって落ちてくるのか。自分の中にある地図をつくってみたい。小学校に通った二条烏丸から松原烏丸までの市電で編集稽古していた「たくさんの僕」。少年時代からずっと、70年お題と格闘した日々だった、と松岡校長は言う。
編集学校の核であり、編集稽古の起点である「お題」。そこに焦点があたった第79回感門之盟「ISIS題バシティ」。2022年の春から夏をお題とともに過ごし卒門・突破・放伝した学衆たちに、お題とはなにかをできるだけわかりやすく伝えたいと、松岡校長はふたりのダイバーを呼んだ。
守の36期でのお題改変や多読ジムのお題設計を牽引した福田容子[破]番匠。子ども編集学校のためのお題チームで活躍する『編集かあさん』松井路代[多読ジム]冊師。ふたりは校長の左右に座り、お題に問いで近づいていった。
向かって左側から福田番匠、右側から松井冊師が、中央の校長に問いを投げかける
型とお題はどちらが先?
[守]のお題に答えることでひとつずつ身につけていき、花伝式目でもはじめにまなぶ「型」。福田番匠がまず問うたのは「型とお題はどちらが先にあるのですか?」
子どもが成長する時、言語が国語になっていく時、あらゆるプロセスの中で、型とお題は同時に発生する、と校長は応じる。
知覚をどうやって再生するか、というお題に向かうには2つの型がある。ひとつには消えたものを想起する型。プラトンから三浦梅園まで、古来ここに挑む方法は多く生まれてきた。
しかし、より重要なのは、もうひとつの型。今ここにあるものを伏せて“お題状態”に入り、型をそこに感じながら喚起させることだ。ヒトの知覚は分節が効きすぎていて、漠然とした中でQを立てることができないようになっている。そこでAをマスキングしてお題にし、「らしさ」で再生させる。
この2つの型を織り交ぜて、編集学校のお題はできている。2000年に編集学校をスタートさせたときは、90年代の日本の状態を最悪だと感じていたから(今はもっとひどくなっているかもしれないが)、今までの学問が教えているような学習じゃなくて、ベイトソンの学習1から3にあっという間に移るようなスピードをもった仕組みが必要だと思ってつくった。そう校長は明かした。
うっすらのままで
「子どもは半分くらい、うっすら知っていることを聞いてくる」と松井冊師が切り出すと、「その“うっすら”が大事」と校長は応じる。
マスキングした残像に「らしさ」を感じるように、うっすら状態の中に「略図的原型」を捉えている。神や心理や予知や恋心はうっすらのままでないとつかめない。
うっすら状態を持ち続けるのは難しいけれど、それができれば相当の表現ができる。その状態のまま編集稽古をしてほしい、と校長は言う。「守のお題は“うっすら”したところを多様についている」と福田番匠も添えた。
遊びと稽古
子どもを見ていて「型を伝えることがヒトの営みであり、子どもは自然とお題に向かうようになっている」と発見した松井冊師。子どもの自発的な遊びと稽古の関係が気になっていた。
ヒトの知覚も認識も保存システムも、そんなにできがよくはない。うろ覚えや見間違いや記憶違いがある。校長はここから語り起こした。
ロジックや数学や記号や契約が、そんな間違いを訂正し、概念と分節を生み出していく。あいまいさがいけないものに思われる。
そういった中で「お題は正確で、契約になっていなければならない」と思うことが、遊びであり続けることのジャマをする。そう思っていなければお題はたのしいはず。校長は確信している。
編集稽古のお題には正解などない。お題は、ダイバシティをいくらでも注げるコップだ。
日々子どもからの問いを受け、子どもとお題に遊ぶ松井路代冊師
ちょうどハンカチ
教室名のネーミングは、とても大きなお題の挑戦だと思ってきたと校長は言う。感門之盟での教室名発表が冠界式と呼ばれるように、それはひとつの世界の誕生だ。
松井冊師は「教室名も、生まれた時につけられる名前も、自分でつけることができない。ここにコンティンジェンシーがあるのではないか」と問いを立てた。
校長は黒いジャケットからハンカチを取り出して話す。“ハンカチ”には、ハンカチになるために省いているものがあるのと同時に、ハンカチ以外の外部性が少し入っている。そのちょうどいい具合、ハンカチであり続けるために別様可能性を発揮できるところがコンティンジェンシーだ。それによって、不意打ちのような予測不可能なものが来ても大丈夫になる。
編集学校の教室やまなびのしくみには、コンティンジェンシーが織り込まれている。多点が生み出すゾーンを個と同時に感じるようになっているところがそのユニークネスだ。
お題状態
「編集稽古の一歩先を伏せていること、時間の制約をもたないインターネットに期限を持ち込んだことを、すごい仕組みだと思った」と長く講座を見てきた福田番匠は話す。
校長はこんなふうに明かした。
連想と限界は裏腹の関係になっている。ピークではなく持続性の中で連想できるように、なにを限界に使った方がいいのか。枠や数やノートの冊数や時間のような外部性が要る。伏せて喚起するお題のように、情報が隠れて出てくるための部屋やハンガーや隠れ棚を持っておくことが必要だ。お題だけじゃなく手続きを一緒にもっておくことで、自分をお題状態にしておくことができる。
編集学校はお題もしくみも複層的であり複合的であると語った福田容子番匠
Q→Eの波音
ダイバーのQが校長のEditの契機になり、そのEからQが創発していく。Aと関係が固定化されたQではなく、Eを起爆させるQこそがお題だ。
校長は「まずヤバい方を知った方がいい」と言う。破の方、カオスの方へ。そのうっすら状態のままで、「ちょうどハンカチ」のゾーンを感じながら、かわるとわかるとを繰り返す。その相転移の場はお題状態に入ることによって生まれる。
お題を解くというお題の中に、校長とふたりのダイバーの言葉が舞い、お題に遊ぶことの深みへと誘いながら、感門之盟はクライマックスを迎えた。左右から寄せては中央から大きなうねりとなって返ってくる―問答の場に居合わせたわたしたちは、いつまでもお題が泡のように生まれる波打ち際にいた。
写真:後藤由加里
林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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