「どろろ」や「リボンの騎士」など、ジェンダーを越境するテーマを好んで描いてきた手塚治虫が、ド直球で挑んだのが「MW(ムウ)」という作品。妖艶な美青年が悪逆の限りを尽くすピカレスクロマン。このときの手塚先生は完全にどうかしていて、リミッターの外れたどす黒い展開に、こちらの頭もクラクラしてきます。

梅雨曇の中、狩野山楽が描いた松と滝を背に、學魔が来たりて高座にあがった。去る6/15、英文学者・高山宏を特別ゲストに迎え、近江ARS・還生の会は第二シーズンをスタートさせた。高山は三井寺・光浄院客殿一之間にて高速の独演会を披露。その後には、末木文美士灯主・福家俊彦風主とともに鼎談も開かれた。
高山の講義は難題・珍題をふっかけて参加者を困らせることで有名だ。しかしこの日はそれだけでなく、端正な書院造りの空間に似合わぬほどの笑いを引き起こすドライブがかかっていた。最前列に座っていた旧知のエヴァレット・ブラウンに触発され、ブラウンと松岡正剛と初めて鼎談したありし日の思い出から語りが始まった。
山楽の絵が描かれた同じ1601年に、イギリスで公の場に初めて“real”という言葉が登場する。他にも“fact”, “data”など、1600年代最初の40年にイギリスでは相次いで近代科学のための言葉が発明された。これらの言葉には誰の目にも明らかな客観性というアイディアが共通している。
この時代に活躍した英国科学の立役者ロバート・ボイルは真空の存在を実証しようとしたが、哲学者トマス・ホッブズに猛烈に抗議されてしまう。伝統的なキリスト教の世界観では神の創造は完璧であり一部の隙もありえないため、真空、つまりなにもない空間などあってはならないからである。そこでボイルは科学者に加え一般市民も集めて、衆人環視のもと空気ポンプを使って真空を作って見せたのだ。
実験。論証。理論化。このように目に見える形で“fact”を一つずつ確定していくという科学的な考え方は、空気ポンプショーのように何が真実なのかを確定させる一般市民の合意形成手法にまで発展し「見えるもの=理解できるもの=正しいもの」という価値観にまで結実していく。この流れは1660年に創建される英国王立協会で決定的となり、現代における「その売上目標値ってエビデンスあるの?」といった思想的背景にまで続いていく。王立協会の設立によって、科学が宗教に代わり近代社会の世界観を顕示する王座についたのである。
しかし科学という文明の光が強まれば精神の闇に隠れゆくものも増えてくる。還生の会の今回のテーマは「心はどこへ」であるが、心はどこと問われたら左胸を指す人は少なくないだろう。「真心」とか「心から」というように、古代から心臓とは身体の中心に位置する重要な器官だとされてきた。生物学的に血液循環のためのポンプに過ぎない臓器だと知っているのに、現代人もいまだに心臓をハートとしてかたどって愛の象徴としている。この背景には、ポンプという客観的事実以上の意味を読み込んでしまう人間の癖と技がある。
科学者が実験によって“fact”とはなにかを突き詰め始めたとき、「事実」の覚束なさを謳い続けたのが恋愛詩人たちだった。「私はこころからあなたを愛している」という恋人のセリフが文字通りのメッセージを持つのか正反対の意味にひっくり返っていくかは物語のなりゆき次第である。科学は言葉を用語として一つひとつ定義づけて使うものの、日常生活では言葉と事物が必ず一対一に対応するとは限らない。割り切れない恋心や説明し切れない失恋などいくらでもありうるはずだ。言葉には揺らぎやパラドックスが埋め込まれているのである。
例えば、いくら「目の前にはコップがあるというのはファクトだ!」と叫ぼうが、その物体を楽器とも凶器とも呼びうる可能性はいくらでも残されている。そして、凶器に見えてくる危機的気配の淵源には目に見えない隠されたもの=オカルト的なるものがわだかまっていた。科学が産業革命を推し進め、自然現象も社会構造も全部理性の力で解明できるとする啓蒙主義が進む裏で、フロイトが無意識を発見する。十九世紀末~二十世紀初頭にかけて<見えざるもの>がようやくヨーロッパ社会の表舞台に舞い戻ってくる。
そうした客観的に目に見えるものと内面的で見えないもののせめぎ合いを予期しつつ1916年にこの世を去ったのが『こころ』の作者・夏目漱石だった。英国文学に熟達した漱石はパラドックスとはなにかを心得ていた。英国心霊協会がオカルトを広く世に問うていた二十世紀初頭に英国に留学した漱石がパラドックスを使って伝えようとした「こころ」とはなんだったのか。これから順次リリースされてゆく当日の記録や後日発売予定の記録映像を通して、高山宏の東西を跨ぐめくるめく「こころ」の旅に出てみてほしい。
高山、末木、福家鼎談。近代日本における霊魂論の移り変わりを交わし合う中で、神智学、スウェーデンボルグ、高橋五郎、ゴシック文学、万国博覧会、を巡っていく。
王立協会と近代科学は、一つの言葉に一つの意味だけを正確に対応させる客観性を徹底してきた。しかし十七世紀の恋愛詩から二十一世紀のポスト・トゥルース旋風まで、言葉と事物の関係など真に覚束ないことなど火を見るより明らかだ。客観的な“real”という近代的価値観を形成した英国の歴史を通覧し、見えるものと見えないもの、すなわち顕るるものと冥るるものが交叉する文化史的 perspective を用いて、初めて Antoher な Real が立ち現れてくる。目に見える世界において科学の名のもとに分断されてしまった意味を、目に見えない知下推脈でつながったままに再統合するマニエラ=方法の魂を取り戻すのが近江ARSだ。次回(10/13)はデザイナー川崎和男が登壇する。お申し込みはこちらから。
───────【当日6shots】───────
開幕の挨拶をする近江ARSプロデューサーの和泉加奈子。講演の第一部は特別なライティングが施された三井寺・講堂で行われた。
末木文美士灯主。日本の近代仏教学の仕組みや如来像思想批判に対する異議申し立てなど、既存の仏教学説に対する別なる姿を語り表す。
福家俊彦風主。ベンヤミン、石原吉郎、最澄などを持ち出して、多重な歴史を多重なまま言葉にしていく方法について語った。
本会のために特別に用意されたお菓子「葛焼き染め筆」。紫式部が石山寺で『源氏物語』を執筆するときに用いたとされる古硯を見立てたもの。黒豆の墨堂の上にまろやかな黒蜜が垂れる。
中村雅文チェアマン。東京一極集中の現在の日本を、次世代に伝えていきたい日本=別日本へと変えていきたい、そのために近江から日本を変えていくと意気込みを表した。
出演者全員が纏っていた Yohji Yamamoto のコレクション。松岡の言葉が刻まれている。ある一着にはこのように書かれていた。「天時を憾み 威霊を遊ぶ 出でて入らず 往いきて帰らず 魂魄はよろこんで 毅然たり」
写真:近江ARS提供
梅澤光由
編集的先達;高山宏。怒涛のマシンガン編集レクチャー、その速度と質量で他を圧倒。イシスの學魔と言われる。社会学研究者の卵とソムリエの二足の草鞋から、営業マンを経てITエンジニアに。趣味は火の動画(暖炉や焚き火など)を観続けること。
第十七季[離]で連離連行番(通称:連連番)を務めます梅澤です。連連番とは連離連行師(通称:連連衆)を束ねる者。連連衆とは学衆の回答を多角的に評価する目利きのプロフェッショナル集団です。しかし、[守]でも[破]でもたくさ […]
コメント
1~3件/3件
2025-09-04
「どろろ」や「リボンの騎士」など、ジェンダーを越境するテーマを好んで描いてきた手塚治虫が、ド直球で挑んだのが「MW(ムウ)」という作品。妖艶な美青年が悪逆の限りを尽くすピカレスクロマン。このときの手塚先生は完全にどうかしていて、リミッターの外れたどす黒い展開に、こちらの頭もクラクラしてきます。
2025-09-02
百合の葉にぬらぬらした不審物がくっついていたら見過ごすべからず。
ヒトが繋げた植物のその先を、人知れずこっそり繋げ足している小さな命。その正体は、自らの排泄物を背負って育つユリクビナガハムシの幼虫です。
2025-08-26
コナラの葉に集う乳白色の惑星たち。
昆虫の働きかけによって植物にできる虫こぶの一種で、見えない奥ではタマバチの幼虫がこっそり育っている。
因みに、私は大阪育ちなのに、子供の頃から黄色い地球大好き人間です。