『星条旗の聞こえない部屋』で、ベンは「それ」が聞こえない場所を探し求めて「それ」がはためく部屋を出た。「それ」はアメリカであるが、そのアメリカの家の中には上海出身の継母と中国学者の父親と中国語で書かれたたくさんの本がある。だから、「それ」は大陸中国でもあった。たどり着いたのは日本語であり、新宿かいわいの畳を敷いた木造アパートであり、日本語でものを書く自分である。つまりベンは英雄(ひでお)そのものだ。しかしそれは「成長」であったのか?英雄は先に進んだのか? そうでないことが、本書をはじめ複数の本でわかる。彼の脳裏を行き来するのは、ガラスの破片を打ち込んだ分厚い塀のある、台北の日本家屋なのである。英雄は10歳まで、その家の畳の部屋で暮らしていた。アーリントン墓地に近いワシントンの家もケネディ大統領の記憶と共に描かれる。しかしそれはすでに13歳になった英雄の記憶である。「記憶」と「根の国」とは異なる。英雄にとっての根の国は台北にあり、そこは、英雄が両親と弟と4人で暮らすことができた最後の幸福の場所だった。
「根の国」とは本来、祖先のいる黄泉のことである。しかしそれを一人の人間のなかに写してみると、決して動かすことのできない、まさに自分の根がそこにあって生涯離れることができず、ついにそこに埋もれて死んでゆく、そういう根の国があるのではないか、と思うのだ。幼な心とはふわふわした記憶ではなく、しっかりと張り巡らされた自分の土台なのではないだろうか。そう明確に思うようになったのはリービ英雄を読んでからだが、以前から石牟礼道子を読みながらそう考えていた。石牟礼道子の場合、『椿の海の記』に代表されるが、やはりその一作だけでなく、作品のありとあらゆるところに現在の水俣市にある栄町と「とんとん村」と、そして不知火海とその浜辺、その周辺の山々が登場し、そこに生きる動物と植物と海の生き物たちと、そして川や山の神さんたちが生き生きと存在しているのである。石牟礼道子の場合、根の国は家そのものではなく、地域共同体である。その共同体の感覚が島原天草一揆を書いた『春の城』や、そのヒントとなった『苦海浄土』に形となって表れた。チッソ東京本社で展開する『苦海浄土』第3部は運動の記録というより共同体的なるものの記録であり、その「根の国」があったからこそ、水俣病と向き合うことができたのだった。
英雄は、根の国をみつめながらそれを日本語による作品群の創造というかたちに変えていった。道子は自分を根の国に置きながら、この現代社会との「ずれ」に苦しみつつ、母親として、観察者として、運動家として、物書きとして、歌人として、詩人として、いくつもの自分を作り出しながらなんとかかんとか生きていった。どちらも、幼な心を手放さず、それを創造に移し替えていったのである。
そう考えると、この二人についても「大人への成長」という言葉は似つかわしくない。そこでオスカルである。この「手放さない」という方法を「意志」として選び取り、物理的にも生理的にも幼い形を維持し続けたオスカルは、「根の国に居続ける」極限のかたちをとったのである。現実には不可能な方法だが、この極限から見ると、記憶を通り抜けて日本語という根の国を創造し続けている英雄と、人間動植物一体となった前近代的共同体という根の国にしっかり足をつけながら、自分を分岐することでそれを喪失せずに創造に結び付けた道子は、オスカルの方法を「現実的に展開する二つの方法」に分岐させているように見える。そこで二点分岐型とした。
オスカルは自分自身は変わらないので、そこから周囲の変化が見える。隠されている事実も見える。だからこそ残酷であり、破壊し、自らを傷つけ、癒しとしての「看護婦」への執着も強烈だ。執着し決断し、大人を騙さねばならない。根の国に居続けるのはそれほど残酷なことだ。しかし実際、我々もまた、そこから離れることはできない。そして結局、そこに戻って死んでいくのではないか? 根の国が黄泉であることは、そこで生まれそこに死ぬことを意味しているように思う。
私にも根の国がある。それが横浜の下町の裏長屋にあった貧相な平屋と、その家の前のイチジクの木である。道子におもかさまという祖母がいたように、私の祖母も根の国の一部を成している。よくよく考えると、私の発想はそこから離れたことはない。そしてそこで死んでいくのであろう。
Info
⊕アイキャッチ画像⊕
∈リービ英雄『星条旗の聞こえない部屋』(講談社)
∈石牟礼道子『椿の海の記』(藤原書店)
∈ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』(河出書房新社)
⊕多読ジム Season03・夏⊕
∈選本テーマ:幼な心へ
∈スタジオ935(浅羽登志也冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐
┌────『星条旗の聞こえない部屋』
『ブリキの太鼓』──┤
└────『椿の海の記』
⊕著者プロフィール⊕
∈リービ英雄
名前はIan Hideo Levyで、Hideoは本名である。1950年生まれのユダヤ系アメリカ人。父は外交官。著者が10歳の時に離婚している。本書には弟のことが書かれていないが、知的障害者で時々痙攣発作を起こす弟がいて、離婚後、著者と弟を連れて母親はワシントンに帰る。本書の背景である1967年、著者は初めて日本に来た。中国語はできるが日本語はまったくできない状況のなか、ひとりで横浜や東京を歩き、日本語を学び、早稲田大学に出入りし、友人ができる。アメリカに帰国してプリンストン大学に入ると本格的に日本文学を学び、柿本人麻呂論で博士号を取得。『万葉集』の翻訳で全米図書賞を受賞。プリンストン大学、スタンフォード大学で教鞭をとるが、1992年に日本語で書いた『星条旗の聞こえない部屋』で野間文芸新人賞を受賞。その後も日本語で著書を書き続ける。日本に定住し、法政大学国際文化学部教授となり、今年の3月に定年退職した。
∈石牟礼道子
1927年に天草で生まれるが間もなく水俣に転居し、3歳からは水俣の栄町に暮らす。8歳のときに父の事業の失敗で家を差し押さえられ、「とんとん村」と呼ばれる貧しい地域に移る。小学校を卒業後、実務学校に入り、そのころから歌作を始める。16歳で代用教員になり、18歳の時に終戦。戦後も教員を続けるが、20歳で退職して結婚。結婚そのものを望んでいなかったが、父の意志だった。その年に3度目の自殺を試みている。次の年に子供を出産。そのころから歌集を出し、次に詩を書くようになる。1958年、31歳から谷川鴈、森崎和江などの文学運動「サークル村」に入る。次の年から小説を書き始める。1960年、のちの『苦海浄土』のもとになる文章を発表しはじめ、それが1969年に『苦海浄土』として刊行される。
∈ギュンター・グラス
1927年にポーランドのダンツィヒ(現グダニスク)に生まれた。国籍はドイツで、ドイツのリューベックで2015年に没している。1999年にノーベル文学賞を受賞している。ナチスの労働奉仕団員や武装親衛隊にも入っていた。そのため、戦後はアメリカ軍の捕虜収容所に入っている。その後、デュッセルドルフで美術学校に通い、1959年に『ブリキの太鼓』を書く。
金 宗 代 QUIM JONG DAE
編集的先達:水木しげる
最年少《典離》以来、幻のNARASIA3、近大DONDEN、多読ジム、KADOKAWAエディットタウンと数々のプロジェクトを牽引。先鋭的な編集センスをもつエディスト副編集長。
photo: yukari goto
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