イシス人インタビュー☆イシスのイシツ【ズレのネットワーカー福田恵美】File No.4

2020/12/17(木)10:59
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JR長野駅から北しなの鉄道で約20分、幾つのもりんご農園のあいだをぬって、電車は牟礼駅に到着する。車外に出ると気のせいか、微かにりんごの匂いがする。

 

りんごの里、飯綱町。黒い軽自動車で出迎えてくれたイシツ人は、「初めまして」の挨拶もそこそこに人懐こい笑顔を浮かべ、こちらが質問する間もなく超高速回転で喋り始めた。

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【イシツ人File No.4】福田恵美

30[守]、31[破]師範代、10[離]。食のマーケッター、コンサルタント。菓子製造販売大手や食の総合商社など7社を渡り経験を積み、菓子を中心とした商品企画やブランド開発に携わってきた。昨年、長野県飯綱町に移住。りんごを使った地域興し事業を経て食料雑貨商社「サンクゼール・久世福商店」勤務。林頭・吉村堅樹曰く「おっとり見えて〝謎の押しの強さ〟を持つパワフルなイシツ人」。眠っていた松岡正剛校長校話音源をテープ起こしする「蔵出し隊」を発案、提案、即結成。編集学校にニューロールをもたらした。著書に『夢みるコンフィチュール』 (金沢倶楽部)。一般財団法人「22世紀に残すもの」理事でもある。

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◎テンシツでイシツ。

テンシツとは?:転質。狭義にノマドな才能)

イシツ人の来歴を振り返るには、こちらも高速で筆を進めねばならない。何しろ海外ジョブホッパーのごとく華麗なる転職を繰り返し、いまも食品業界に名を残すブランドやヒット商品を次々と立ち上げてきた。

 

和菓子ブランドの《鎌倉五郎本店》、東京土産の定番となった《東京ばな奈》、10年経た今も行列の絶えない仏産高級発酵バター《エシレ メゾン・デュ・ブール》、日本初上陸オーガニックブランド《デイルズフォード・オーガニック青山》。

 

さらに舌を噛みそうな《コンフィチュール エ プロヴァンス》というジャムブランドの立ち上げでは、世に「コンフィチュール」という新しい概念を定着させ、同ブランド子会社の取締役社長として南仏プロヴァンスの製造工房立ち上げ、銀座一等地のアンテナショップも出店させている。

 

変な話ですけど私、母から保証人のハンコだけはついちゃいけないと言われていて、だから社長といってもそれほど大きな経営責任を負わされていたわけではないんです。当時は親会社の勧めで稲盛和夫さんの「盛和塾」に入ることになっていたのですが、経営者しか入れない塾で、それなら社長にしようかって、そんな感じで(笑)

 

コンフィチュールは銀座の家賃が月130万円なのに最初の月の売り上げも130万円。でも「家賃分出たねー」とかスタッフと言いながら、元気いっぱいでした(笑)。エシレはリーマンショックと重なったこともあり、当時の役員に採算採れるわけがないと訝しがられながらも、蓋を開けたら大ブレイク、「あなたはエシレの女神だ」とか言われましたね。

 

そのあと担当したオーガニックブランドブランドは、東日本大震災で人々の関心が無農薬でなく放射能残量に移ってしまい、厳しかったですね。1年ほど勤めた広島の菓子製造販売会社では、「じゃけんのう」が言えず四苦八苦しましたし。

 

色々ありましたけど、若い頃は人の倍働きました。夜中の1時が定時で土日出社は当たり前、いまの編集学校みたいな感じですかね。

インタビューが行われた丘の上のレストラン。

イシツ人は顧問コンサルタントとして関わる。

一瀉千里、立て板に水。人は過去の実績を光輝のフリルをつけて話したがるものだが、失敗談も人間関係の躓きも、成功譚と同じ勢いで滔々と話す。

最初に勤めた会社を辞めるとき、「お前はぜったい苦労するぞ、根回しじゃなく正面突破しか教えてこなかったから」と餞の言葉を送られた。売り上げやヒットはただの結果、次々与えられた売れ筋商品開発という場を正面突破で編集してきた自負がある。

 

東京ばな奈やエシレを担当したといえば、菓子業界ではイシツというよりイダイな開拓者。しかし食に対して特別なこだわりがあったわけではないという。

 

たまたま最初に入った会社が食品会社だったので、偶然を必然に変えて来た感じですかね。私飽きっぽいので、ある程度実績を上げて恩返しできたと思うと、別の面白いことをしたくなって。そろそろ次に行こうかなと考えていると、思いがけない出会いがあって「じゃあうち来る?」と声をかけていただいたり。

 

行く先々でユニークな創業経営者と出会うことが多く、その出会いがまた次の仕事を連れてきたりして、なんか不思議にご縁がつながっていきましたよね。

移住当初、飯綱に家が見つかるまで世話になった古民家カフェのオーナー夫妻と。「飯綱の親戚」と慕う。

東京から地元金沢、広島、長野と独り身の身軽さで目紛しく拠点を変え、しかるべきタイミングでしかるべき出会いを引き寄せる、掴みどころのないセレンディピティ。そのカタリに耳を傾けていると、「強さ」からも「弱さ」からもどこかズレた、あわいに位置するネットワーカーという気がしてくる。

 

ご縁に恵まれていたというのはありますね。ここ飯綱に来ることになったのも、理事をさせていただいている財団「22世紀に残すもの」の繋がりで飯綱を紹介いただいたからなんです。地方創生の仕事がしてみたかったのと、私もいい歳になって、気候変動激しい東京で独りで生き延びられるのかしらって根源的な問いもあって(笑)。

 

同財団の発起人はオーガニックコットンの母と呼ばれる企業家の女性なんですけど、盛和塾で知り合って以来すごく可愛がってくださって、彼女を通じて私もソーシャル界隈のネットワークがものすごく広がりました。

 

例えば企業の社長会長や芸術家、思想家、起業家の方々。でも人脈って名刺の束ではないですね。その時々でどれだけ一生懸命にその方たちと対峙して、10年経っても「あの時一緒に頑張りましたよね」と言ってもらえるかどうか。そういう風にしかご縁を繋げてこなかったという自負はあります。

 

◎モウシツでイシツ。

モウシツとは?:網質。狭義に網をひろげる力)

つど信頼を勝ち得てきたがんばりは、じつは学生時代の「ミーハー心」が支えていたらしい。

 

両親ともども教師という家庭で育ち、向上心は人一倍。常に「福田先生のお嬢さんね」と言われ小学校、中学校では学年トップ。でも地元一番の国立付属高校に入ったとたん、タガがはずれた。

「周りに頭の良い人がいっぱいいて、もう私トップでなくていいんだ~!って(笑)」。

 

大学で入部した少女漫画研究会には、学生フリーライターなどちょっととんがったユニークな人材が集まり、ミーハー心が刺激された。小さなバロック喫茶でアルバイトをし、夜な夜な集まってくる音楽家や芸術家たちと古楽談義をしたりと、キラキラした憧れはふくらんでいった。

 

仕事をしていてもじつはミーハーってけっこう大事でして、がんばれば憧れのパティシエさんに会えるとか、最先端スイーツの世界を見てみたいとか、それが楽しくて企画がどんどん前に進んだ部分は大きいんですよね。

イシツ人が飯綱で興した地域商社のロゴマーク。

紅玉りんごを使った古民家カフェのアップルパイは酸味と甘みのバランスが絶妙。

もっと上を、もっと上をと進む中で出会ったのはイシス編集学校だった。

 

そもそもイシスを知ったのは、当時勤務していたデザイン会社社長が、正月講話でいきなりホワイトボードに「松岡正剛」と書いたことがきっかけ。六本木の青山ブックセンターに走って、『日本力』(※1)を即買いし、イシス編集学校に入門した。

 

しかし上へ上へと進んでも、上にも、がんばりにも天井はない。「それはどこかでやっぱり苦しかったと思います」。

 

[破]が文字通りの突破口でしたね。イシス独特の「クロニクル編集術」の稽古で、自分史と歴史を重ね合わせたら、バカボンのパパみたいに「あ、これでいいのだ」とすうっと思えたんですね。

当時の師範からは、自分自身はこれでいいと思えたのだから、次は他者への眼差しですねと言われ、そのまま[ISIS花伝所]に進みました。

 

本人曰く「超ダメダメの劣等花伝生」。[離]や師範代ロールも経験したが、いまだに方法の取り出しが苦手で、勧学会でのお喋りの方が好きだった。

師範代登板時の師範には、箸の上げ下ろしを注意されるが如く何をやってもダメ出しされ(※2)、泣きながら指南をしていたというが、入伝式での校長の言葉が響いていた。

 

入伝したタイミングでちょうど仕事の新しいミッションが降ってきて、もう大変なんですと話していたら、後ろから「それでいいんだ」と声がしたんですね。頭が高速回転するからそれでいいんだ、と。あ、校長うしろに居たんだとびっくりしながらも、あの一言があったからやってこられたんだなと思います。

りんごオーナー制度を利用し、グラニースミス、ニュートンのりんごで知られるフラワーケントなど希少りんごのオーナーも務める(写真は別の品種。撮影者の映り込みはご愛敬)。

編集工学を深く理解するイシス人も憧憬の対象だが、イシスに次々と人材を送り込んでくるイシツ人もまた稀覯の存在だ。生保レディのようにイシスのパンフレットを持ち歩き、これはと思う人物をイシス編集学校入門に導いてきた。

 

ありがたいことに未だに「東京ばな奈はどうやって発案したんですか?」なんてプランニング界隈の人たちに聞かれるので、それならイシスへどうぞ、って(笑)。東京ばな奈はもちろん私がすべて考えたわけじゃないですけど、私自身も企画をやる中でもっと頭をやわらかくしたいと思ってイシスに来たんです。企画畑や経営者の人など、自分に「足りないもの」があると思っている人に、イシスは効くなーと実感しています。

 

ご紹介した一人、マーケティングアドバイザーの裏谷惠子さんは現在[物語講座]の師範代をされていて、今まさに物語講座受講中の私の師範代。こういうロールの逆転が起こるのもイシスならではの楽しさです。長野にも知を面白がる人はたくさんいると思うので、そういう人たちと繋がってイシス内実業ネットワークなんて作れたら面白いなと思ってます。

イシツ人ネットワークには、古民家カフェで飼われるヤギも?

現在もイシツ人をハブとしたネットワークはじわじわ広がっており、これまで幾度か期や教室をまたいだ汁講(会合)を発起人として企画し、「蔵出し隊」は様々なイシス人を巻き込みながら成果のお披露目に向け動いている。

 

いろいろやってきましたけど私、人の作為なんて大したことないと思っているんですね。結果を出したところで商品はせいぜい数十年で消えていきますし。それより人を育て「方法」を受け継いでいってもらうほうが、よっぽど面白いんじゃないかと最近思い始めているんです。

 

人を育てるのが上手な人って、世の中にそうそういないですよね。

幸い私には企画を立ち上げてきた経験があり、何をすれば目標に到達できるか、そのヴィジョンとロールが少しは見える。しかもこれからは、自分が何を知っているかより、その道のスペシャリストが誰なのかを知っていることが重要で、わからないことはその人に聞けば良い。前述した通り名刺の束ではなく、彼らと信頼関係を築けているかどうかが問われます。

 

編集的方法の取り出しは得意ではありませんでしたが(笑)、本業で培ってきた方法を人に伝え、次は人を育てる名人になりたいですね。花伝所で学んだ「受容・評価・問い」、「エディティングモデルの交換」(※3)を意識しながら、早く「人たらし」にならないとなーと思っているんです。

 

自身が関わるレストランや、りんごの町興し事業で世話になった古民家カフェを紹介しながら、東京からやってきた取材者を歓待してくれたイシツ人。

 

帰りの電車に乗り込み一息入れると、メールが届いていた。

「めっちゃ楽しい時間でした。編集学校用語が通じることが楽しく、ドキッとさせられる質問がたくさん。羽根木さんからどんな福田像が見えて来たのか、興味深く楽しみにしております」。

 

うーん、イシツ人はすでに立派な「人たらし」なのではないだろうか。しかし、取材者は〝羽根木さん〟ではなく羽根田。

 

やっぱりどこか、「ズレて」いる...?

◎イシツ人のイシツブツ

師範代初登板した際の教室名は「トーマ四重奏教室」だった。元となったのがレジェンド漫画家・萩尾望都の『トーマの心臓』と、35年来おっかけをしているという『古典四重奏団』。少女漫画研究会に入るほどの漫画好きで、萩尾望都やよしながふみに通底する無償の愛や魂の救済は自身のテーマでもある。古典四重奏団のチェロ奏者・田崎瑞博氏は学生時代からの大ファン。天涯孤独のオルガニストを介護したという氏のエピソードも無償の愛に通ずる。イシツ人が所属する趣味のバロック合唱団の常任指揮者がこの田崎氏となった偶然は、ネットワーカーとしての引き寄せパワーによるものとしか思えない...。

(上記写真はご本人提供)

【おまけ◎イシツ人の超高速トーク】

1秒間に12~13文字。イシツ人の言語密度だ。高速ブラインドタッチには定評のある取材者であるが、イシツ人のトークスピードは遥かその上をいき、テープ起こし作業にタッチが追い付かず職業病の腱鞘炎が悲鳴をあげた。取材当日、お喋りが大好きというイシツ人のトークについつい巻き込まれ、1時間に一本しかない電車を逃しそうになると、駅まで見送ってくれたイシツ人はさらりと言った。「乗り遅れたら、またどこかでお喋りしましょう」。

 

(※1)『日本力』(松岡正剛、エヴァレット・ブラウン著/パルコ出版)

 

(※2)この時も師範に長いメールを書き「正面突破」。師範の受容によって以後は本人曰く「ラブラブの関係」に。担当は「野武士のようにカッコいい」という渡辺恒久師範だった。

 

(※3)師範代を養成する[ISIS花伝所]で学ぶ、とっておきの指南の基礎。人間関係のあらゆる局面に応用可能である。

  • 羽根田月香

    編集的先達:水村美苗。花伝所を放伝後、師範代ではなくエディストライターを目指し、企画を持ちこんだ生粋のプロライター。野宿と麻雀を愛する無頼派でもある一方、人への好奇心が止まらない根掘りストでもある。愛称は「お月さん」。