どんなモノだって、どんなコトだって、「編集的視点」で語れる。深掘りできる。関係線を引ける。開講間近の第51期の[守]師範が、型を使って、各々の数寄を語るエッセイシリーズ。2人目は師範相部礼子。「教授」こと坂本龍一の訃報を受けた相部が、その思いを語り直します。
「BGM」は予想を裏切るアルバムだった。「TECHNOPOLIS」で東京をTOKIOにした軽やかさがここにはない。この「裏切られた感」が、ブームとして遠くに見ていたYMOに一歩近づきたいと思った理由だった。「もっと知りたい」と思った頃に「戦メリ」が来た。そして彼らは突き抜けたポピュラリティに向かう。
その頃、カードケースの下敷きに好きなアイドルの切り抜きを入れるのが流行っていた。教室ではマッチやとしちゃんが圧倒的多数を占めていたが、私が入れたのは旗本退屈男の格好をしておどけた教授の写真。そう、たのきんと並行して語っていても全然おかしくない時代だったのだ。
YMOのことは何でも知りたかった。だから本を買った。本の中で、今に至るまで忘れられない衝撃的な一言に出会う。
その言葉とは「24時間の生活者」。
高校時代はゲバ棒振るう学生運動の闘士だった教授が、赤軍の活動について問われた時の答えだ。
「24時間赤軍兵士というのはナンセンスだと当時から思っていたね。24時間生活者であって初めて権力に対峙できるのであって、24時間兵士の活動というのは、結局、革命にいたらない」(*)
「24時間の生活者」。私にとって「編集を人生する」を具体化するキーワードの一つだ。「生活」という言葉に、たくさんの私が含まれる。仕事に行く私、友達と遊ぶ私、買い物をする私。それぞれの私がいるからこそ、街に戻りつつあるインバウンド客や、コロナが収まりつつあることや、卵の値上がりだのに実感をこめてモノを言える。
同時に、相手の立ち位置があっての自分ではなく、自らの立ち位置を自分で確保している、そんな印象がある。体制に対する「反」体制、主流に対する「非」主流。「反」とか「非」とかをつけなくても自分が立っていられる。教授のこの言葉で、何かに完璧になりきってしまうことがむしろカッコ悪いと知った。
YMOが散開して、存在が遠いものになっていた頃、思ってもいないところで再会した。第三舞台「朝日のような夕日をつれて」で「The End of Asia」ライブバージョンが流れてきたのだ。舞台を見ていた「今の私」に、YMOを好きだったことを忘れかけていた私が重なり、忘れられない舞台になる。
「朝日のような夕日をつれて」のエンディングでは舞台後方がせり上がり、できた傾斜に立つ男達が語り始める。
「朝日のような夕日を連れて/僕は立ち続ける/つなぎあうこともなく/流れあうこともなく/きらめく恒星のように」。
教授の忘れられない言葉はきらめく恒星になった。
*:『YMO BOOK OMIYAGE』小学館
(アイキャッチ 阿久津健)
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相部礼子
編集的先達:塩野七生。物語師範、錬成師範、共読ナビゲーターとロールを連ね、趣味は仲間と連句のスーパーエディター。いつか十二単を着せたい風情の師範。日常は朝のベッドメイキングと本棚整理。野望は杉村楚人冠の伝記出版。
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