天にはハッブル望遠鏡 OTASIS-15

2020/05/27(水)10:38
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提供:NASA

 

 雑誌を読むなら「ナショジオ」。「ナショジオ」すごい。「ナショジオ」大好き。そんな私は当然のこと、黄色の窓枠でおなじみの『ナショナル・ジオグラフィック』を定期購読して毎号かかさず眺めている。「ナショジオ」の何がすごいって、やっぱりあの、地球に残された最後の極地のような場所で、わずかなシャッターチャンスを逃さず撮影された驚異的な写真の数々だろう。それと編集デザインの曲芸さながら精緻に構成された図解の数々。見開き展開なんて当たり前、ときには観音開きや別添特別付録にまでして、年表や地図やグラフや模式図を「これでもか」と言わんばかりに見せつけてくれるのだ。

 

 ちょうどゴールデンウィーク直前に届いた5月号は、瑠璃色の蝶々の羽が表紙いっぱいに拡大され、「昆虫たちはどこに消えた?」と特集タイトルが刻印されている。一瞬、めくるめく虫尽しを予感して怯んでしまったが(ナショジオといえども虫尽しは勘弁してほしい)、おそるおそる開いてみれば、巻頭にはハッブル望遠鏡がとらえた天体写真がズラリと並んでいる! どれどれ、なになに、はくちょう座の超新星爆発、かに星雲の中性子星、りゅうこつ座のイータカリーナ星雲、“宇宙の薔薇”とも呼ばれる三連銀河「Arp273」(本稿冒頭の写真がこれ)……。かねてより天文好き・宇宙好きをうっとりさせてきた有名な天体写真ばかり、まさにオールスター傑作選のような豪華さではないか。

 

 解説をよく読むと、今年はハッブル望遠鏡の打ち上げからちょうど30周年なのだという。驚いたことに、NASA(米航空宇宙局)とESA(欧州宇宙機関)は、当初この望遠鏡の寿命をせいぜい10年ほどと見積もっていたらしい。つまり、ハッブルは想定された寿命の3倍もの長きにわたって、宇宙探索の前線ではたらき続け、いまなお老体に鞭打って深宇宙の謎を解く鍵に眼を光らせているわけだ。かっこよすぎるぞ、ハッブル望遠鏡。

 

 もちろん、ハッブルがこんなにも長生きできているのは、故障や不具合が起こるたびに宇宙飛行士が駆けつけて、部品の交換や修繕をやり続けてきたからだ。このサービスミッションはたんにハッブルを延命治療するだけではなく、性能をバージョンアップさえしてきたという。ハッブルは躯体は老体ながら、最新鋭の装置を搭載した不死身の“ターミネーター”なのだ。そして、「ナショジオ」5月号巻頭に輝くオールスター傑作選は、ハッブル望遠鏡と宇宙飛行士たちによる、まさに30年間のミッション・インポッシブルの成果なのである。

 

 折しもこの4月からゴールデンウィークをはさんで5月まで、松岡正剛事務所では、6月刊行の千夜千冊エディション『宇宙と素粒子』の編集の佳境だった。COVID-19による緊急事態宣言下にありながら、おかげで至福の数週間を過ごすことができた。というのも、私は高校生のころから宇宙論や理論物理学に憧れをもちながら、数学オンチが禍いしていまひとつ理解を深めることができずにいたのだが、「千夜千冊」のサイエンスもののおかげで、やっと相対性理論や量子力学のおもしろさを得心できたという経験をしてきたのである。松岡正剛が案内してくれる、「宇宙の見方」ではない、「見方の宇宙」というものを手すりにすることで、まさに「宇宙の晴れ上がり」のように眼がひらかれた。そんな「千夜千冊」がまとめられた『宇宙と素粒子』は、私にとって待ちに待った垂涎の一冊なのだ。

 

 『宇宙と素粒子』には、むろんのことエドウィン・ハッブル『銀河の世界』(第167夜)も収められている。「いま新聞やテレビでハッブルという名前が出てくれば、それはたいてい宇宙を飛んでいるハッブル宇宙望遠鏡のことである。が、ぼくの時代は、ハッブルといえば《ハッブルの法則》か《ハッブル定数》のことを意味していた」の書き出しで始まり、ハッブルの偉業を簡潔に紹介する一編である。松岡は「エディション」用にこの書き出しのところからかなりの加筆を施し、ハッブルが1910年代当時最大の口径2.5メートルの“お化け”望遠鏡を駆使してつきとめ法則化した「膨張する宇宙モデル」が、宇宙像の基本原理をめぐる議論にどれほど劇的に影響を与えたかということをさらにリスペクトを込めて強調している。

 

 そのハッブル大先生の名を冠したハッブル望遠鏡は、30年にわたり地球の600km上空の軌道上を飛び続けながら、ハッブルが端緒を開いた「新しい宇宙モデル」を裏付けるような深宇宙の痕跡や現象をとらえ続けてきた。まさにハッブル望遠鏡は、ハッブル先生の“眼”そのものなのだ。宇宙年齢がおよそ140億年と特定されたのも、銀河系をとりまいている暗黒物質(ダークマター)の存在が明らかになったのも、銀河系の中心に潜んでいるブラックホールが捉えられたのも、みんなハッブル望遠鏡の成果である。もしハッブル先生とハッブル望遠鏡がいなかったら、今日の宇宙論も宇宙像もまったくつまらないものになっていただろうし、千夜千冊エディション『宇宙と素粒子』が生まれることもなかっただろう。

 

 ただここで、ひとつ気になっていることがある。「ナショジオ」の記事によると、2021年にNASAが新たにジェームズ・ウェッブという宇宙望遠鏡を打ち上げる計画らしい。これとハッブルの二つの望遠鏡を駆使することで、さらに深宇宙の奥までのぞき込むことができるというわけだ。そうなのか、ハッブルはさらに老体に鞭打って、この若い望遠鏡とともに新しいミッションに挑んでいくのか。でも、そのあとは? いつか寿命がつきてハッブルの“眼”が閉じるときがくるのだろう。そのときは、ジェームズ・ウェッブがきっと主役の座を奪ってしまうのだろう。で、そのあとは? ハッブルは、地球を周回する宇宙デブリ(宇宙ゴミ)となり果てて、徘徊老人よろしくやっかいもの扱いされていってしまうのだろうか。

 

 ああ、それだけはやめてほしい。せめて永遠の眠りについたハッブルを、地球の重力から解き放って、宇宙の彼方に送るなりして、昇天させてあげてくれないだろうか。

 

おまけ:じつは、「ナショジオ」のウェブサイトでは、ハッブル望遠鏡が30年にわたってとらえた天体写真がさらにたくさん、50点も公開されている。これらはもともとNASAのHPで公開され、クレジットさえ付ければ自由に使うことができるものだ。ハッブルの研究成果は広く一般に還元されるべきという方針にもとづいているらしい。だから、5月号巻頭のハッブル特集にかぎっては、「ナショジオ」がすごいわけではない。

 

 本稿の冒頭に掲げた写真もそのひとつ、“宇宙の薔薇”こと「Arp 273」。アンドロメダ星雲の方向約3億光年彼方にあって、3つの銀河が互いの重力の影響によって、不思議な形状変化を起こしたものだという。2010年にハッブル望遠鏡が“激写”した。


  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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