今年もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]の季節がやってくる。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、次なる2022年、あらたな「あいだ」に迫るべくプロジェクト・チームの準備が刻々と進んでいる。Season3の開催とEdistでの記事公開を楽しみにお待ちいただきたい。それまで、いまいちど[AIDA]をご一緒に振り返っていきたい。
2021年2月13日(土)に編集工学研究所のブックサロンスペース「本楼」で行われたHyper-Editing Platform[AIDA]シーズン1「生命と文明のAIDA」の対談セッションの模様をお届けします。政治史研究者、音楽評論家の片山杜秀さんはいかにして保守思想とクラシック音楽にのめり込むようになったのでしょうか。編集工学研究所所長でHyper-Editing Platform[AIDA]座長の松岡正剛が“知の巨人”片山杜秀さんに切り込みます。対談記事のVol.2、お楽しみください。
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[AIDA] 対談:片山杜秀×松岡正剛 Vol.1 ─“革命的な”保守思想としての水戸学、あるいは三島由紀夫の切腹
松岡 『近代日本の右翼思想』『未完のファシズム』などを拝見していると、片山さんは時代をしっかり受け止めてお書きになる印象が強い。三島さんの保守思想を書くにしても、陽明学だけでいくのではなく、彼が生きた時代全体に向かって思考の網を広げていく。今日お話しされた水戸学もそうでした。
片山 いわゆる保守思想については、若い頃から知的な興味としてもちろんずっと持っていて、それなりに本を読んではいましたが、私としてはどちらかというと、右翼と称されるものでも、どこか破壊的で革命的なものに関心が向いていたんです。だから、比較的新しい時代の保守政権、たとえば自民党とかにはもう全然興味がないんです。
松岡 そういうことが水戸学への関心に繋がるんですね。徳川光圀藩主時代の安積澹泊(あさか たんぱく。澹泊は号。諱(いみな)は覚(さとる))らの前期水戸学と徳川斉昭藩主時代の後期水戸学はかなり異なります。光圀は水戸第2代藩主で、斉昭は第9代藩主。光圀がはじめた「大日本史」の編纂は、光圀の死後、途中50年ほど中断されていたこともあります。前期と後期との大きな違いは、尊皇攘夷というか尊皇敬幕思想の存在でしょう。後期水戸学は幕末の佐幕派に大きな影響を与えました。
水戸学の歴史の背景には、日本に儒学は合わないのではないかと考える荻生徂徠や伊藤仁斎らの動きがありました。「日本儒学」みたいなことを言いだして、林羅山とか藤原惺窩らとは異なる立場で日本を考えた人たちです。契沖のような人も高野山に出てきました。『万葉集』とは一体何なのか。当時、日本人は『万葉集』をよく読めなかったのですが、契沖がこつこつ読み解いていった。さらには浄瑠璃、歌舞伎作者の近松門左衛門や浮世草子の作者 井原西鶴が出てくる。下河辺長流(しもこうべ ちょうりゅう)や賀茂真淵が登場し、そして、本居宣長が『古事記伝』を書く。後期水戸学はその後に出てきた。前期水戸学とは、そもそも時代からして、まったく異なっていたわけです。
片山 そうですね。
松岡 後期水戸学と会沢正志斎、その周辺についての片山さんの見解をお話しいただけますか。
片山 安積澹泊が長生きして「大日本史」の編纂事業をやっていた頃までが一応、前期水戸学です。儒学的な価値観というか、基本的に1人ひとりの人間の徳の高低を重視し、天皇は代々、徳が高いゆえにこれまで治政革命もなく続いてきたことを論証しました。そして、なおかつ、今後も続けていけるような歴史観、それが「大日本史」を貫いています。
水戸藩のミッションとしては、幕府を軍事的に守ることにありました。それが「天皇の国」を守ることでもありました。そういう理屈をそれこそ水戸藩が幕府とは別に作っていた。平時の場合は、藩の人たちがただそう思っていればよかったんですが、実際にロシアが蝦夷地にやって来たりすると話は別です。水戸藩はいざという時は江戸を守るという「対外防衛」にとても強い関心を持っていた藩なので、水戸学は彼らの軍事行動の思想基盤みたいになっていきます。
そもそも水戸藩はいち早く、ロシアが攻めてきたらどうするかと考えていた藩でもありました。日本の船は外国船に比べて小さいけれども機動力では勝っているから、沿岸におびき寄せれば勝てるとか、敵軍を上陸させてから切り込めば勝てるとか、本土決戦の戦術を具体的に構想していたようでした。そのうち外国の脅威をリアルに感じるようになると、国を守るためには大勢を動員しなければいけない、となる。そのためにはどうすればいいか。「日本は『絶対神国』である」という考えを武士だけではなく、民衆にも徹底して信仰させる必要がある、となる。それで後醍醐天皇は悪い天皇だったけれども、そういう難しい話は全部なくしちゃおうということになるんです。
文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にイギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求めて上陸しました。この事件が決定的だったんです。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるもので、藤田幽谷ら一派はこの対応を弱腰と捉えました。この事件が水戸藩で攘夷思想が広まるきっかけになったのです。実際には、あの事件が起きる何年も前から、特にイギリスの捕鯨船は、毎年長い期間にわたって日本の海域で鯨を捕っていたんですが。『甲子夜話』にも出ていますけれども、水戸藩の漁師たちはイギリスの捕鯨船員たちと交流していて、色々なものを物々交換し、藩内で売っていました。
当時の漁師たちの考え方は開明的で「おれたちは船乗り同士だから付き合っている。それの何が悪いんだ」というものだったんです。海の民としてのインターナショナルなコミュニケーションができていた。そういう話はほかにいくつもあって、仙台の船が常陸の沖で迷っていたら、イギリスの捕鯨船が見えたので、一番近い日本の港はどこだと聞いたら教えてくれて、無事、那珂湊(なかみなと)に入ることができた、とか。どうも東北地方から九十九里浜までの漁民や船乗りはイギリス人やアメリカ人と付き合っていたらしい。
そして「大津浜事件」が起きます。水戸学的な立場からすると、イギリスやアメリカやロシアは結局、日本の海岸線や港の位置、浅瀬の場所を調べ、つまり、侵略戦争を仕掛けるための準備をしていると理解するようになる。ここで水戸藩の攘夷思想のボルテージが上がるんですね。
その後、徳川斉昭が第9代の水戸藩主になるドラマがあって、さらにボルテージが上がります。斉昭の前の藩主(第8代藩主・斉脩(なりのぶ))は別に尊皇攘夷思想の持ち主じゃなかったので、藤田幽谷らの言っていること(尊皇攘夷)には取り合わなかったのですが、斉昭は幽谷や会沢正志斎らが持ち上げて藩主になった人なので、藩をあげて尊皇攘夷思想でいくようになります。そこから水戸学は後期に入っていく。
日本が海禁政策を取っているうちに、イギリスでは産業革命が起こります。船が金属製になって、簡単には沈まなくなり、大砲も発達する。日本でも大砲を造っていたわけですけど、向こうの大砲の射程距離は日本のそれより断然長い。これまで日本人は「(日本は)海岸線で守られている」と思っていたけれども、こうなってくると、海岸線で守られていることにはならなくて、日本中どこからでも(外国に)秘密裏に上陸されてしまう時代になる、と思い始めます。
それで会沢正志斎らは、日本中の海岸に見張り台を建てて国を守らないといけないって話を真面目にするんですけど、それをやるには武士が足りない。じゃあ、どうするか。都市生活をやめて、民衆を屯田兵化しようと考えるわけです。
徳川斉昭は実際、助川海防城を築きます。つまり、海沿いに武士を住まわせ、自給自足をさせる。都市での華美な暮らしは全部やめさせる。その分、倹約して、武士の頭数を増やせと言う。そうしなければ国を守れないんだ、と。しかし、武士を増やすにしても限度があるから、他の都市の商人や農民も軍事に協力させなくてはいけない。じゃあ、どうやって協力させるか。神社を使って、日本は「神の国」だと信じさせる。「藩主に忠誠を誓え」では無理なので、神社を通じて「日本は神の国で、夷狄を寄せ付けてはいけないのだ」とやろうとしました。なぜ、夷狄を寄せ付けてはいけないと水戸学は強調するのか。水戸学は天皇が世界最高であるという思想を作りました。すると、天皇が世界最高の存在ではないという理屈を持っている宗教、たとえば浄土宗、浄土真宗、日蓮宗は排撃しなければならない。仏教は「あの世」という、現世秩序とは別のものに値打ちがあるとします。光圀は仏教が嫌いでしたし、斉昭は明治初期の廃仏毀釈の先取りみたいなことをやってそれが隠居の理由になりました。ちなみに、もちろんキリスト教も排除しようとします。キリスト教では神さまは天にいることになっていますが、神さまが天皇だという話にはなりませんよね。
話が少し逸れますが、当時、吉田松陰は水戸藩に憧れていました。尊皇攘夷の本場だと思って、ペリーが来航する前に水戸藩を訪ねたんです。
松岡 会沢正志斎に会いに来ていますよね。
片山 そうなんです。会沢正志斎に会って、教えを受けました。それで、藤田東湖の親戚の家に泊まるんですけど、夜、不思議なことがあると松蔭は言うんです。水戸藩では寺の鐘が聞こえない、と。斉昭系の水戸藩の武士に問いただしたら「水戸藩では仏教はよろしくないという考えがあるので、お寺の鐘はみんな潰して大砲にしてしまった。水戸藩ではもう夜には鐘が鳴らないんだ」と言う。国防とはかくなるものだ、と吉田松陰が感激したらしい。
松岡 斉昭が第9代の水戸藩主になり、会沢正志斎が彰考館の総裁になっていた頃の話ですね。その後、正志斎は『新論』で、いま片山さんがおっしゃったようなことを書いた。
片山 日本には天皇、将軍、副将軍、武士が上にいて、みんなが穏やかに治まっている、この秩序が破壊される可能性があるから、西洋の夷狄を入れてはならない、というのが水戸学の理屈で、しかし、これは徳川幕府のいわゆる海禁の理屈とは違っているんです。
松岡 そうですね。違います。
片山 幕府は別にそんなことは考えていない。もし得になるんだったら、ということで、オランダ向けには長崎に出島を作って貿易をしていた。下田、浦賀、横浜、函館でもよかった。港が増えて、それで儲かるんだったら、という思惑が当然、幕府の外交戦略にはあったわけです。それで、結局、水戸の攘夷思想と対決することになってしまうんですけれど。
水戸学では、天皇が将軍より上に位置していて、いざという時は、天皇が日本の政治の中心になるべきだと考えています。徳川将軍家の理屈からすると、考えられないことです。松平定信が大政委任論みたいなのをやりましたけれども、それよりもずっと早く光圀の時代からそういう理屈を掲げて、リアルに「天皇が政治を指導しなくちゃいけない」と言い出したのが水戸藩でした。そういう藩でしたので、天保時代、徳川斉昭はお寺を迫害したり、蝦夷地をくれと言ったり、勝手に軍備を強化したりした。あくまで外国に対する備えだと水戸藩は主張するんですけど、幕府ではそう思わなくなっていて、水戸藩は反乱を企てている可能性があるということになり、徳川斉昭や藤田東湖、会沢正志斎たちはみんな、謹慎になっちゃう。
その後、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリー率いるアメリカの海軍艦隊が浦賀に入港しました。ついに来たということで、阿部正弘という当時の老中首座が徳川斉昭にいろいろ意見を聞くことにして、海防参与として、幕政に参加させる道を開きます。なんでそんなことが起きたのか。幕府の政治の常道は「老中政治」です。老中首座はいまの首相に相当します。外交はじめ何でも老中で相談をして決めていた。たとえ、「副将軍」と呼ばれていた水戸藩主であろうと、幕政には関われないという大原則があったのに、阿部正弘はペリー来航後、さまざまな藩の意見を聞いていたんです。松平春嶽とか島津斉彬とか、それこそ徳川斉昭に。
松岡 それだけびっくりしたんでしょうね。
片山 そうですね。でも、それには背景があるんです。謹慎させられて水戸藩主ではなくなった後、徳川斉昭は阿部正弘と文通を始めているんです。この文通は『新伊勢物語』としてまとめられていますが、この文通を通して斉昭は、老中首座の阿部を水戸学思想に「洗脳」しているんですね。それで、いざという時は挙国一致体制だ、と。当時はもちろん、挙国一致とは言いませんけれども、外様大名を含め、力のある藩のエネルギーを束ねて国を守らないと無理だ、とやった。江戸城で老中が相談して諸藩に命令を出しても動かないので、本当の危機の時は島津や毛利だけではなく、松平もみんな政治に参加させないといけないと吹き込んでいたんです、手紙で。
松岡 斉昭という人はそのくらいのことはやりかねないですね。一方、朝廷とも吉川神道を通して、宮廷と結び付いたりしている。つまり、幕府だけではなく、朝廷ともネゴシエーションしている。
片山 そういうもろもろの活動がペリー来航の時に利いたんです。いままで、政治や外交は幕府がやることであって、朝廷に政治的な意見を聞くことはあり得なかったはずなのに、阿部正弘は朝廷にペリー来航の件についてお伺いを立てちゃったんですよね。それで「朝廷は攘夷だと言っている」と。これはあり得ないことなんです。だって、聞く必要はないんだもの。その後、朝廷は政治にずっと絡んでくるわけです。
松岡 そうですね。
片山 幕府は「これは困った。阿部正弘がおかしなことをが始めてしまった」となった。その後、堀田正睦が老中首座になっても幕府は朝廷の意向を無視できなくなってしまった。その時、斉昭は慶喜を将軍にしようとしていたんです。このまま行けば、水戸学が完成する可能性がありました。朝廷、将軍 徳川慶喜、(副将軍である)水戸藩主 徳川昭武(慶喜の異母弟)、その後見人の徳川斉昭という完全なる「水戸シフト」で日本を支配できた可能性があったんですが、大老 井伊直弼の登場でひっくり返されてしまいました。
大老とは、国家危急の際に老中の上に臨時で置かれる最高職です。古代ローマ帝国でいうところの緊急独裁官ですね。大老は全部勝手をやっていい。将軍にも何も言わせない。大老はもちろん徳川斉昭や朝廷の意見を聞く必要もありません。老中たちを指揮して、開国なら開国を全部お膳立てしてやることができる。そういうやり方が幕政の常道なんです。ペリー来航時の日本国内の議論について、多くの人は「開国か、攘夷か」という日本対外国の対立構図で考えがちなのですが、実は「幕政の常道か、朝廷を巻き込むか」という議論も非常に重要でした。幕府と朝廷のパワーバランスの争いでもあったということです。それがたとえば、水戸藩と彦根藩の対立の背後にあります。譜代大名筆頭 井伊家対天下の副将軍 徳川水戸家の戦いです。
大老 井伊直弼は朝廷の意見を聞かず、アメリカと日米修好通商条約を結んでしまった。それに文句を言ったのは特に水戸藩ですけど、井伊直弼は「安政の大獄」でみんな片付けてしまった。吉田松陰もそうです。吉田松陰は水戸藩と繋がっている人ということで捕まったようなものです。
その後、幕政の常道に戻ったと思っていたら、今度は「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されてしまいました。その結果、二度と幕政の常道には戻らなくなってしまった。公武合体ですね。幕府は朝廷の意見を聞かないと政治はできないというふうになり、天皇の奪い合いが始まる。
Vol.3 へつづく…
プロフィール
片山杜秀 かたやまもりひで
政治思想史研究者・音楽評論家
1963年、宮城県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。音楽評論家、政治思想史研究者。1980年代から、音楽や映画、日本近代思想史を主たる領分として、フリーランスで批評活動を行う。慶應義塾大学法学部教授。学生時代は蔭山宏、橋川文三に師事。大学院時代からライター生活に入り、『週刊SPA!』のライターなどを務めた。クラシック音楽にも造詣が深く、NHKFM『クラシックの迷宮』の選曲・構成とパーソナリティを務める。『音盤考現学』および『音盤博物誌』で吉田秀和賞、サントリー学芸賞。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞。
松岡正剛:1944年1月25日、京都生まれ。編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。情報文化と情報技術をつなぐ方法論を体系化した「編集工学」を確立、様々なプロジェクトに応用する。2020年、角川武蔵野ミュージアム館長に就任、約7万冊を蔵する図書空間「エディットタウン」の構成、監修を手掛ける。著書に『遊学』『花鳥風月の科学』『千夜千冊エディション』(刊行中)ほか多数。
撮影:川本聖哉
編集:谷古宇浩司(編集工学研究所)
エディスト編集部
編集的先達:松岡正剛
「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。
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