「わたしの歴史」に事件が起きる?! クロニクル編集術の意外な効用とは【47[破]クロニクル】

2021/11/11(木)11:11
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■ なぜ年表編集が必要なのか

 

コップを眺めていたら、いつしか受精卵の成長段階に思いを馳せている。ふしぎなお題に誘われ、気づけば編集の奥地へと連れ去られるのが[守]なら、[破]はいきなり飛び出す予想外のお題と、出会いがしらに衝突するところから始まる。
イシス編集学校[破]コースでは、校長松岡正剛の実践的な仕事術を学ぶ。まずは創文法。これは納得だ。問題は次だ。「年表(クロニクル)編集術」ときた。年表? クロニクル?

▲47[破]伝習座でレクチャーを担当した北原ひでお

 

■ 歴史に事件を起こすクロニクル

 

師範北原ひでおは、クロニクル編集術とは「わたしの歴史に対して、事件を起こす方法」であると語った。47[破]伝習座で引用されたのが、さいきん松岡がイシスをはじめNewsPicks対談などでも薦め、古本市場から姿を消した『事件!――哲学とはなにか』(スラヴォイ・ジジェク、河出書房新社、2015年)だ。

ジジェクによれば「事件とは[…]、われわれが世界を知覚し、世界に関わるときの枠組みそのものが変わること」だという。

▲日本人の不安や孤独について問われた松岡が、この本に言及した。1時間の対談「日本をRethinkせよ」は上記リンクから閲覧可。

 

■ わたしは、「わたしの生まれ年」を知らない

 

[破]の稽古では、まず自分の誕生年の出来事を調べる。このとき学衆は痛感する。「生まれた年のことを、ほとんど知らない」と。『知らないこと』を知る瞬間である。2001年生まれの学衆M(脈診カーソル教室)は目を丸くした。「USJやSuica、Wikipediaと同い年だと初めて知りました」 Mがこの発見をしたのは、奇しくも10代最後の日だった。

 

私たちはたしかに生まれ年を経験している。けれど、その記憶はない。鶴見俊輔が「神話的時間」と呼んだ3歳前後までの時間は、自分では認識できないのだ。師範代華岡晃生は、「自分史を考えるうえで一番先に浮かぶ『誕生』という出来事は、誰かから伝え聞くことしかできません」と興味深げに応じた。

 

私たちの認知は、「既知⇔未知」だけではない。「『知っていること』を知らない」などの無意識や暗黙知や、「『知らないこと』を知らない」というようなまったくの無知状態もある。

▲北原によるスライド。世界を認知する枠組みを、二軸四方のマトリクスで表現した。

 

■ 「いまのわたし」は、
  「これまでのわたし」の堆積でできている

 

学衆は、生まれ年の『情報の歴史21』のページを読む。しかしよく見ると、知らないことだらけでもないことに気づきだす。
1963年生まれの北原は「今の自分が知っている出来事」「かつての自分が知っていた出来事」「両親が知っていたであろう出来事」などにマーキングをしていった。

この年発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔)は両親も喜んで歌ったであろう。ケネディ暗殺、黒四ダムの完成もニュースで聞いていたはずだ。北原本人も青年時代になれば、自分が赤ん坊のときにすでに活動していたピンチョンやリキテンスタイン、パイクにも出会うことになる。

▲『情報の歴史』は見開きで1年が見渡せる。それぞれ政治、産業、科学、芸術、文芸など5本のトラックに歴象データがジャンル分けされている。北原のマーキングルールは、知っていることに赤丸、知らないことには青丸。緑の線はいまの自分が感じる関係線、ピンクの線は親たちが感じていたであろう関係線。歴象同志のあいだをマーカーで引くことで、未知と既知で織りなされる歴史のネットワーク構造まで見えてくる。

 

ISIS編集学校では、ひとつの身体をもつわたしを「1人」だとは決めつけない。「たくさんのわたし」と考える。子のわたし、親のわたし、まじめな会社員のわたし、部屋が片付けられないわたし、ラーメンが好きなわたしなどなど。ひとつの肉体には、無数のわたしが折りたたまれ、場面によってone of “Is”が登場する。クロニクル編集術では、これを時間軸で展開するのである。自分史を作ることによって飛び出すのは、3歳のわたし、20歳のわたし、65歳のわたし。あるいは0歳以前のわたしにも出会うかもしれない。

 

クロニクル編集術では、自分史をつくる。つまり自分に関する情報を、時系列に並べる。[守]の001番でコップから多様な使いみちを考えたように、今度は自分を点検していくのだ。「コップは水を飲むものでしょ」そんな前提がやすやすと崩れ去ったように、わたしに対する意味づけもみるみる変わる。「情報体としての自己」に出会う。それがクロニクル編集術だ。ジジェクのいう「事件」が起きた状態である。

▲ジジェクは、たんなる災害や出来事を「事件」とは呼ばない。「もし福島の災害によって、日本がみずからに対して疑問を抱くようになり、[…](鎖国政策に)匹敵するような改革が生まれるとしたら、それこそは本物の〈事件〉となるだろう」(日本語版に寄せて「日本的事件とは」より)

 

■ 事件なき場に、編集なし

 

いま、社会には「事件」がない。事件を未然に防ぐべく、監視カメラを増やし、5人以上の食事を禁止する。ジジェクは嘆く。

ここ数年、われわれはずっと事件前夜のような状況下にあるが、目に見えない壁が、真の〈事件〉の発生、つまり〈新しい〉何かの出現を、繰り返し阻止しているかのようだ。

『事件!』p.191

 

社会は、リスクを恐れているのだ。リスクヘッジのための社会制度を整えてきた。松岡が9月25日の伝習座で「どうしても言わなければならない」と予定時刻を超過してまで、イシスの指導陣に強調したのはこのことだった。社会組織や社会制度がリスクに目を光らせているだけではない。もっと由々しき事態が進行している。

とりわけ、「思考のリスク」を冒すことを怖がっている。そのための自分のナマの思索力や連想力が奪われているのだ。

 

『インタースコア』p.92

「こんなことを考えていはいけない」と人々は自分の意識さえも監視下においた。思考の飛沫さえ、飛ばさない。富の分配でも、安全の分配でもなく、小分けにされたリスクが配られる社会のなかで、私たちはみずからの編集力を窒息させようとしている。

 

■ いつもと違う、イシスという場で

 

松岡がNewsPicks対談において『事件!』を持ち出したのは、漠然と広がる不安への対処法を問われたときだった。松岡は「不安は解消するべきものではない。不安のなかにこそシステムや思想がある」と語る。保留状態や宙吊り状態に耐えることの重要性を説いた。


リスクを恐れるとは、冒険などもってのほかということだ。私たちは美容院でいつもと違う髪型をオーダーしたり、ちょっぴり派手な服を着たりすることにさえ抵抗がある。「いつもとおなじ」は居心地がよい。しかし、イシスではそのガードレールからあなたを連れだす。
たとえば自己紹介。いつもならば、名前や仕事をなぞるだけだろう。でもイシスでは違う。自分をお菓子に喩えたり、フェチなモノを語ったり、少年少女時代の愛読書を紹介したりする。慣れぬやりかたに失敗することもあるはずだ。けれど、その先でしか新しい何かに出会えない。

 

リスク忌避の時代に、イシスではリスクを取りにいく。キズなき創造、リスクなき編集はありえないからだ。「こんな見方していいの?」「そんなこと思ってもみなかった」 いつものわたしのヒビ割れに、あおあおとした編集が芽吹く。

 

 

『情報の歴史』、レクチャー資料提供:北原ひでお

レクチャー撮影:後藤由加里

書影その他:梅澤奈央


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  • 梅澤奈央

    編集的先達:平松洋子。ライティングよし、コミュニケーションよし、そして勇み足気味の突破力よし。イシスでも一二を争う負けん気の強さとしつこさで、講座のプロセスをメディア化するという開校以来20年手つかずだった難行を果たす。校長松岡正剛に「イシス初のジャーナリスト」と評された。
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