一般に「コミュニケーション」とは、私たちの意思や思考などを互いに伝達し合う営みのことを言います。このとき、コミュニケーションを仲立ちするのは、言葉、身振り、音、信号、匂い等々の情報です。
けれどこれらの情報は、そのもの自体が意味を表わしている訳ではありません。任意の意味や価値をこうした「記号」に託すことで、私たちはそれらをようやく「情報」として運び、交換し合っているのです。
◆たとえば予備情報ナシで「31」という記号が差し出されたら、どんなことを連想するだろう? ◆「10+10+10+1」という辞書的解釈、31[花]入伝式の場面、「三十一文字」(五七五七七)、NY在籍時のイチローの背番号、等々。「31」から想起する意味や物語は人それぞれで異なるのではないだろうか。◆このように、どんな情報にも「図」として見えている記号のバックグラウンドには、発信者の文脈や視点や世界観など多様な「地」が紐づけられている。けれど、情報として運ばれ交換されるのは地を伏せられた「図」ばかりなのだ。
情報の発信者は発信者なりのやり方で記号に意味を宿らせ、それを受信者は受信者なりの方法で解読しようとします。このとき記号に託された意味を共有するためには、情報交換のための約束事を設定したり、互いに情報の「地」を見出そうとする努力が求められるでしょう。
つまり私たちがコミュニケーションの際に行っていることは、たんに記号を交換しあうだけではなく、情報についての編集方法の一切(=エディティング・モデル)を交換しあっていると見るべきなのです。
◆史上最も短い手紙として有名な通信文は、ヴィクトル・ユゴーによって発信された。◆1862年『レ・ミゼラブル』を書き上げて休暇の旅に出たユゴーは、本の評判が気になって仕方がなかった。たった「?」1文字の手紙をユゴーから受け取った出版社の担当氏は、その記号の意味を察してすかさず「!」と返した。「新作は大好評で飛ぶように売れているよ!」と。◆二人はたった1文字づつの往復書簡でハイコンテクストなコミュニケーションを交わし合ったのだ。
「エディティング・モデルの交換」を成立させるためには、そこで運ばれる情報の量は必ずしも重要ではありません。ユゴーと編集者が最小限の記号だけで意味を伝え合うことができたのは、「3A(アナロジー/アブダクション/アフォーダンス)」と呼ばれる生得的でエディトリアルな応答作法が躍動したからに他ならないでしょう。
記号に暗示された文脈を類推したこと(アナロジー)。相手のアタマに何があるかを仮説したこと(アブダクション)。意図が伝わるような言葉を探し合ったこと(アフォーダンス)。
情報はそれに対して受け応えする人間の営みが相互に重ねられてこそ、生き生きとした物語が宿り、意味や価値が交換され共有されて行くのです。
◆松岡校長による「問・感・応・答・返」の模式図。「問・答」の間で往来する「感・応」と、そこからスピンアウトする「返」の動向が描かれている。◆「答」は「問」から一直線に導かれるものではなく、問う者と問われる者が互いの「感」「応」を交錯させながら展開する相互編集なのだ。
こうした情報の相互編集は、ごく日常の会話の中でも息づいています。むしろ平凡な会話ほど、豊かな3Aがのびのびと羽を広げて「問・感・応・答・返」の間隙を飛び交っているのです。
A「ねぇ、おなかすかない?」
B「うん。何かある?」
A「ううん。どこかに食べに行く?」
B「近くで?」
A「いや、クルマ」
B「和食?イタ飯?あ、この前オープンしたラーメン屋!」
A「オーケー。外、ちょい寒だよ」
親しい間柄であるほど、こんなふうに情報の地は省略して語られることが多いものです。それでも私たちは互いに欠落した情報を察し合い、問われていることの方向、広がり、深さ、速度を感じながら情報を再編集し、応じ合っているのです。
そして、問答の場からは新しい意味や別様の価値のようなものが現れてくることもあるでしょう。上の会話では食事の支度の話題から始まった問答が、出かけるための準備へとシーンを展開させて行きました。
このようにコミュニケーションは「相互理解」を帰着点とするばかりではなく、「問・感・応・答・返」を交わし合うことで主題を一歩先のステージへと押し進める「相互編集」でもあるということなのです。
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
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