■アラフィフの日常
最近、老化と判断せざるをえない身体の変化を感じている。まず、満員電車で本が読みづらくなった。持っている本がまわりのおじさま方の背中によってぐいっと手元に近づくととたんに文字がぼんやりしてしまって読めないのだ。若いときだって本を近づけすぎたら読めなかったはず、と言い訳してみたけれど、満員電車の状況は変わらないのに本が読めなくなっているという現象は、「老眼」という言葉でしか説明がつかなかった。
満員電車で本が読めなくなる症状に前後し、夜に必ずトイレに起きる、予定よりも早く生理が来る、全身が乾燥してかゆい、などなど、睡眠の質の低下、女性ホルモン値の低下、表皮のターンオーバー機能の低下といった、下り坂サインの症状が出現した。加えて、ちょっとでも食べ過ぎて体重が増えてしまうと、そのあとがんばっても体重が減らないという、唯一の上り坂サインも出ている(基礎代謝の低下の裏返しだからやっぱり下り坂か)。息子も先日めでたく成人し、アラフォーからアラフィフに向かっている途中なのだから仕方ないのだけれど、やっぱり悲しくなってくる。バレエをやめたからだろうということにして、ピラティスをはじめてみた。
■老化治療がブームになる!?
今年の「医学界新聞」新年号特集は『老化を治療する』であった。タイムリーだなぁと思って熟読してみる。対談記事には、老化に効く薬の開発を進める、順天堂大学循環器内科の南野徹先生もやっぱりメンバーに入っている。昨年、大学行事で集まった際、前の席に座っておられたスリムでピシッとした背中が目に浮かぶ。
週刊医学界新聞 第3499号(2023年の新春号)
アンチエイジングという言葉は、美容が連想されることもあるせいか、医学界の中で“ちゃらちゃらしたテーマ”だと思われていた節もある。それが、癌の発症リスク、フレイル、認知症といった高齢化社会がもたらす諸問題がより深刻になっていってきていることと、老化のメカニズムが遺伝子レベルで解明されるにしたがって、かなり主要なテーマとして昇格しつつある。
先日、MEdit Labの動画教材にもゲスト出演してくださった堀江重郎先生も、ずっと前からアンチエイジングに対する関心を社会的にどう盛り上げていくべきかを考えて活動されてきた。男性更年期という言葉も早くから取り上げられてきたし、さすが先見の明がおありである。とにかく、老化は、満を持しての本年新年号の特集テーマなのである。
堀江先生と佐治晴夫博士との共著『男性復活!』春秋社
■老化研究のクロニクル
老化研究は、1882年にWeismann博士が、「加齢に伴う消耗した組織が臓器不全の基礎となる」という消耗仮説を提唱したことにはじまる。その後、Hayflick博士が、細胞分裂回数には限界があることが証明され、細胞老化の概念が提唱される。さらに、その16年後の1987年にGreider、Blackburnの両氏がテロメラーゼを発見し、両博士は2009年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。
老化研究のクロニクル
テロメラーゼとは、テロメアを分解する酵素である。テロメアとは、染色体の末端にあるDNAとタンパク質からなる構造で、染色体がまっすぐの形状に保たれるように維持する働きがあるのだが、細胞分裂のたびに、このテロメアが少しずつテロメラーゼによって分解されていき、ある回数に達すると細胞はそれ以上分裂することができずに細胞死をむかえる。これが老化のメカニズムの大きな要素のひとつである。実は、がん細胞はこのテロメラーゼに抵抗する力を有しており、いくらでも分裂できるようになってしまっている。
発がんのリスクにも深く関与しているのがテロメアとテロメラーゼであるが、老化自体のメカニズムには、これらの物質以外にも様々な因子が複雑に影響しあっており、特に慢性的な炎症と老化の関連が注目されている。加齢に伴い、正常な組織の中に老化細胞がだんだんと増えていく。すると老化細胞が分泌する様々な因子がまわりの細胞にも、炎症を引き起こすなど、悪影響をおよぼすことがしだいに明らかになっており、現在は、その老化細胞だけを選択に除去する技術“senolytics”の研究が世界的な潮流になっているようである。
老化細胞除去のプロセス
ちなみに、老化研究のクロニクルの中には、山中伸弥先生のiPS細胞の作成方法の発見も含まれる。体細胞の初期化の技術というのは、体細胞の若返りを意味するからでもある。
特に日本のように高齢化が加速している中、健康寿命をいかに長くするかについては、現在様々な研究が平行して進み、一部は臨床応用されている。上述のようなsenolyticsという薬物的なアプローチ以外に、炎症を引き起こさない代謝制御という観点で食事療法の確立や老化細胞除去ワクチンの実用化に向けて研究が進められている。
■記憶力低下のマイ・クロニクル
老化研究の第一線について、新年から医学界新聞を読んで見知ったアラフィフの私であるが、もう一つ、最近いよいよ日常的に実感している老化現象が、記憶力の低下である。
・記憶力のピーク…18歳
まず何といっても記憶力のピークは、大学受験時の20歳直前だったと思う。女子大を半年で中退して、なんとしても医学部に入りたいという切実な想いと、時間がないという切迫感の後押しもあって、英単語も化学式も生物用語もすいすいと頭に入っていったような記憶がある。
・記憶力の減退初期…24歳
最初に老化を感じたのは、医師国家試験、24歳の時である。6年間の医学部時代に学んだ膨大な医学知識を総復習して臨む医師国家試験の勉強の過程で、記憶力のピークが確実に過ぎ去ったよね~と同級生とよく嘆いていた。病態のメカニズムを理解しないと医学用語が頭に入って来ず、記憶に苦労するようになっていて、やみくもな一問一答式の過去問対策のみでは心許なくなっていた。
・記憶力の本格的曲がり角…30歳
さらに、その数年後、だいたい30歳前後に専門医試験が待っているのだが、この試験では、さらなる老化の進行を実感することになった。病理専門医試験が、他の専門医試験と異なる点は、網羅しなくてはいけない疾患が全身に及ぶということ。国家試験の再来、あるいはそれ以上なのである。病理専門医試験は国家試験同様、2日間におよび、病理解剖報告書を作成する2時間半の試験と、数分間で1症例の病理診断を行うスライド鏡検試験60問、それに加えて、病理の基礎知識や法律に関する筆記試験や面接試験もある。日常的に診断している症例に関しては問題がないものの、希少な疾患については何度勉強しても頭にぜんぜん定着せず、悲しくなった。幼い息子と娘の子育て中という環境もあって、勉強できる時間もかぎられる。「とにかく受かってしまえば、こんな試験は受けなくても済むんだ~!」と自分に言い聞かせて試験を乗り切った。
・記憶力の低下いよいよ…45歳
そして、現在。過酷な試験は受けなくてすんでいるものの、今度は、日常的に新たな知識がなかなか定着しないフェーズに入ってきた。各悪性腫瘍の取り扱い規約やWHOブルーブックに載っているような診断の決まり事に関して、何度読んでも全く定着しない。「先週も確認したよなぁ」と思いつつも、何度も何度も同じ本の同じページを開くことが増えた。
がんの診断の際、参照する3セット。写真は乳癌の例。
特に『がん取り扱い規約』と俗称”WHOブルーブック”と呼ばれる、『WHO classification Tumours~』は必ず熟読。
ちょっと前に診断した症例のことも頭に残っていない。驚異の忘却力である。「おぐら先生、先日ご相談させていただいた頚部リンパ節の生検なんですが…」と、後輩に言われても「えーっと、そんな症例あったっけ…?」となる。病理医の性は本能的なところでしみついているため、標本を眺めると「はいはい、この症例ね!思い出したー!」となるのは幸いである。
この先は、どうなるのだろう。70歳過ぎても現役病理医としてばりばり診断をこなし、プロ雀士から一目置かれるスーパーアマチュア雀士としても活躍のわがボスの姿を見ていると、忘却する暇をあえて作らないことも一つの方法なのかなと思ったりする。
■老化で頭が良くなる!?
このように、とにかく忘れてばかりの日常なのだが、最近、なんだか以前よりも頭が良くなってきたような気がしているのだ。診断精度もさらに高くなったような。何度も何度も忘れ、時には一度読んだことすら忘れていたりするため、新鮮な驚きや喜びを持って、勉強できるのである。1回では確実に定着しないため、何度も何度も本に戻ることで、否応なく、いろんな細かな情報が目に入るようになる。そのおかげで、若いころはわかったつもりになって、無視してしまっていたことも目に入るようになり、その診断基準となっているバックグラウンドや疾患のメカニズムについても深く理解できるようになった。
優秀な後輩の頭脳を活用することも以前よりさらに上手になった。限られた時間の中で、あらゆる疾患の診断ポイントをつねに最新のものにアップデートしていくのは難しい。MEdit Lab用に企画を考えたり連載コラムを執筆したりしないといけないし、イシス編集学校での仕事もある。大学病院の様々な会議も病理診断科の運営の雑務もたくさんある。そんななか、優秀でやる気に満ち溢れた後輩たちが、細かな点まで資料を読み込み、「先生、つまりはこういうことでした」と、調査結果をサマライズして報告してくれるのだ。私の方では「どうしてこういう診断ポイントに変わっちゃったのかなぁ~」と問いを発していれば、いつの間にか学びが進んでいる。なんとありがたいことか。感謝の気持ちと心からの賞賛を述べると後輩もとても喜んでくれる。病理医みんなで共有知を発展させていけば、レベルの高い病理診断が可能なのである。
老化も考えようによっては、「思考を遅らせたり、途切れさせたりして、何かを創発する余地を残す現象」とポジティブに捉えられるんだと最近、編集的開き直りの境地に達した。「忘却の分節化」とも言い替えられるかな。
老化の治療薬が開発されることを楽しみにしつつ、老化の別様の可能性こそを感じたい。
参考文献:
2023.01.02 週刊医学界新聞(通常号):第3499号より
城村由和「新たなフェーズに入った老化研究」
小倉加奈子
編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。
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