[ISIS for NEXT20]#1 局長佐々木千佳の膝枕力
[ISIS for NEXT20]#2 林頭吉村堅樹の志向力
[ISIS for NEXT20]#3 教頭宮之原立久の仕組力
[ISIS for NEXT20]#4 所長田中晶子【別紙花伝】「秘すれば花」を解く
2020から2021への越境は、ラジオエディストの編集に没頭していた。
当初の構想では、イシス20年史を鳥の目で俯瞰した返す刀で「次の20年」をアブダクションするコラムシリーズだったのだが、取材と編集の過程でいくつかの想定外が重なって、遊刊エディスト初の音声コンテンツとしてスピンオフする運びとなった。2021年は、これを拡張展開することを目論んでいる。
そこで今号はラジオエディストの編集後記を兼ねて、私なりに[ISIS for NEXT20]のパースペクティブを描出してみたい。
■情報伝達と情報生成
情報コミュニケーションということを考えたとき、その一般的な定義は「情報伝達」を目的にしたものだろう。任意のメッセーが、発信者aの意図した通りに受信者bへ伝達されれば、コミュニケーションは成功したと評価される。いわゆるシャノン=ウィーバー型のコミュニケーションモデルだ。
とはいえ日常での会話は、下の例のように微妙にズレながら進展する場合が常だろう。
a「知り合いがさあ、海外の工場に発注したらえらい目にあったって」
b「えらい目って?」
a「部品がぴったりはまってないから、使い物にならないんだって」
b「だってそりゃ、マクドナルドとモスバーガーじゃ全然違うじゃん。日本の製品はしっかりしてるよ」
a「それを言うならスタバとドトールじゃない?俺はマック派だもん」
はじめaが切り出したのは、海外工場の製品精度をめぐる話題だ。これをbは「日本のものづくり」の事例として受容し、「マックvsモス」の対比を例示しながら応じる。同業種の海外企業と日本企業としてモデリングしたのだろう。ところがマック派のaはこの例示に賛同できず、あらたな例示を提案した。
aとbの会話は、互いが発話するたびに着眼点が変転し、意図された文脈からは逸脱しているように見える。とすれば、この会話は情報コミュニケーションとして失敗なのだろうか?
言うまでもなく上の会話事例では「エディティング・モデルの交換」が起きている。
会話の文脈は必ずしも当事者の意図したハコビではないかも知れないが、まるでフィールドのプレイヤーがパスを送り合うように、会話のなかで互いの言葉がイメージの連想を誘い合い、新たな視点を発見しながら意味やメッセージを生成している。
加えて、情報交換における役割分担が発信者⇔受信者というスタティックなロールではなく、双方向的にボランタリーに機能しあっている点も特徴的だ。
コミュニケーションは、情報を伝達する「行為」としての側面ばかりではなく、情報を生成する「場」でもあることを忘れてはならない。
ラジオエディストは、上のようなメディア観をもって企図した。
AやBが従来型のパッケージ化された発信形態だとすれば、ISISが向かおうとしているメディア像はCやDの象限にあるだろう。「インタースコア」という概念は、対極に「ブロードキャスト」を置くことによって輪郭が鮮明になるように思う。
■わかりたさ/関わりたさ/確かめたさ
とはいえ、情報伝達と情報生成の2択を迫っている訳ではない。情報を伝えずに意味だけを生み出すことはできないし、一切の意味を排除して情報だけを交換することもあり得ない。
場合や場面によって伝達と生成の配合比率が異なることを承知しながら、その按配を自覚的かつ変幻自在に付置していきたい。
また、情報を「どう伝えるか」という問題は、「どう伝えたいか」という意図を孕んでいる。とすれば、相手や情報と「どう関わるか/関わらないか」というメトリックが浮上する。
インタースコアの現場では、メッセージは結論へ向かって閉じていない。「異」や「他」や「別」を取り込みながら、大小の問感応答返を往還する。そこには複数の語り手が出入りすることもあって、情報をノンリニアに媒介する。
運ばれゆく情報の様子によっては、相手にとっての「わかりやすさ」に翻弄されるばかりではなく、相手の「わかりたさ」を触発するスタンスを貫いたって構わない。そこに「確かめたさ」という万有引力も介在するだろう。それら力学が相俟って、編集は冒険を志向する。
折しも、思考が物質化されようとしている時代である。
最早デジタルコンピューティングは、「数」の属性を「概念」から「物質」へと変換している。アルゴリズムによって記述されたプロセスばかりが「汎用知」としてオーソライズされつつあるのだ。
ではそもそも「知」とは何なのか?
深遠なQに対して、いささか非論理的な回答ではあるが「好奇心」というキーワードを仮留めしておきたい。
即ち、「わかりたさ」「関わりたさ」「確かめたさ」の三位一体が「知」を起動するのではないだろうか。
他方、デジタルコンピューティング時代において、「ハッキング」という概念が「好奇心」をアップデートしつつあるようにも見える。
■「3M2.0」の可能性
ハッキングという言葉は不正アクセスのニュアンスを纏って流布しているが、本来は高度なリバースエンジニアリングを行う技術を指す用語であって、善悪に中立な行為だ。
対象に深く入り込んでデータをカプタへ変換する作業、と定義し直せば編集工学的な方術として受容できるだろう。
私はここに「3M2.0」(*)の可能性を見出したい。
メッセージもメディアもメソッドも、ブロードキャストを指向するばかりでは、ワールドワイドウェブに増殖するアルゴリズムからのハッキングを逃れられない。むしろ能動的に自他をハックして、身体性を保ったままインタースコアへ持ち込むのだ。
そのためには、メッセージへの「わかりたさ」、メディアとの「関わりたさ」、メソッドによる「確かめたさ」といった具合に、情報への接地角度を想定する必要があるだろう。
つまり、他者とコミュニケーションする際に、私たちは自己を匿名化したり一般化したりすべきではない。自分から他者への「まなざし」と、他者から自分への「まなざされ」とは不可分に補完しあっており、「わたし」は他者を介してようやくアクチュアルに像を結ぶのだ。
*3M:
3つのMは、メッセージ、メディア、メソッドの頭文字。[破]の編集稽古では、この3Mをふまえてイメージやヴィジョンが端的に伝わるように編集術の統合と実践を図る。
「3M2.0」とは、いわば「世界の再魔術化」ならぬ「ハッキングの再好奇心化」なのだと思う。
このとき「好奇心」のシソーラスには「数寄」「遊び」「連想」「冒険」「想像力」「幼なごころ」などが連なるだろう。どれもイシスが大切にしている編集資源だ。それらはエディティング・キャラクターを発露させるが、アルゴリズムの標的として晒されもする。
編集工学を学ぶことの功利は、培った編集術で他者や社会を編集していくことにもあるのだろうが、それ以上に「編集されるわたし」と出会うセレンディピティを強調しておかなくてはならない。
イシス編集学校のダントツなユニークネスは、「まなざし」と「まなざされ」をデュアルにライブで学ぶ場であることだろう。そこは編集的自己の自立へ向かう者にとっては苗代となり、フラジャイルな「わたし」にとってはアジールとしての機能が求められている。
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
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