コロナウイルスの影響が拡大していくにつれて、スティーブン・ソダバーグ監督の『コンテイジョン』(2011)のことがしきりに頭をよぎっていた。強大な致死力をもつウイルスのパンデミックを描いたディザスター映画である。私と同じような人が少なくないらしく、『コンテイジョン』はいまになって再注目され、さかんにダウンロード視聴されているという。そうかと思えば、カミュの小説『ペスト』(1947)が突然売れ始め、あっというまに増刷までされたというニュースも目にした。
『コンテイジョン』も『ペスト』も、いまの世の中の状況を見据えたり行く末を占ったりするのに格好のコンテンツとして、最初はツイッターやSNSなどで囁かれ、やがてどんどん広まっていったのだろう。憶測やデマや過剰反応があふれかえっているいまのネット&リアル社会のなかに、こういった映画や小説の話題が広まることで、はたしてどんな効能があるのかはわからない。もちろん、映画好き・本好きとしては、こういうことも積極的に熟慮や熟議のきっかけにしていきたいと思うのだけど、「パンデミック」が公認されてしまった今となっては、「恐れが助長されてしまう」という副作用のほうがどうしても心配になってしまう。
そんななか、3月の第二土曜日に開催されたイシス編集学校・千離衆による文巻共読サークル「東京声文会」では、呼びかけ人の冊匠こと大音美弥子さんの発案で、千夜千冊の『感染症の世界史』(石弘之著・第1655夜)と『情報化爆弾』(ポール・ヴィリリオ・第1064夜)を輪読した。『感染症の世界史』は2017年に、『情報化爆弾』は2005年に「千夜千冊」にアップされたものである。ウイルス騒ぎをものともせずに集った数人(+Zoom参加者)で、松岡正剛校長が綴った文章を音読しながら、自分たちの意識や知識を出入りするコロナ問題について悩ましい疑問や意見を交わし合うひとときは、まことに沖融たる気分になれた。このところの言い知れない閉塞感のなかで、ついつい凝り固まっていた編集思考に、痛快な「風穴」を開けてもらえた。
どんな「風穴」かといえば、たとえばニュース番組やネット記事などで、しばしばコロナウイルスを「見えない敵」「見えない恐怖」などと、またウイルス対策のことを「見えない敵との闘い」などと表現している記事を見かける。これはべつに「ウイルスはちっぽけだから目に見えない」ということを強調しているわけではなく、暗に「人間が感知も予測もできないやっかいなものが迫りつつある」といったニュアンスを、メタフォリカルに、ちょびっと“気の利いた”ふうに、表現した言葉なのであろう。
けれども、こういう“気の利いた”ふうの表現の蔓延こそ、編集的にはつねに要注意だ。そもそもSFパニック映画の紋切コピーっぽくていただけないと思うが、それ以上に、新型コロナウイルスは確かに新型であるがゆえの未知性や予測不可能性があるとはいえ、あたかも正体不明のものであるかのように、「見えない」などとひとくくりに言い放ってしまうのはあまりにも乱暴で無責任である(第一、無内容である)。
千夜千冊が『感染症の世界史』を摘まみながら説明してくれていることだけでも、ウイルスというものの “生態”や感染メカニズムについてはかなり明らかになっていることがあるのだということがわかる。こういうものを読めば、「見えない」といった言い回しを鵜呑みにするわけにはいかなくなるはずだ。
といった編集的なツッコミが起こりやすくなることが、「共読」のもたらしてくれる痛快な「風穴」なのである。
たやすくウイルスを「敵」などと決めつけてよいのかどうかも、千夜『感染症の世界史』を読み直すと、疑問に思えてくる。というのも、松岡の解説によると、本書は地球の生態系にかかわった海洋ウイルスの例や、哺乳動物とウイルスとの共生関係の例を取り上げつつ、人間とウイルスとの関係は敵対しているのか、それとも共生しているのかということを、重要なテーマのひとつとして問うているというのだ。“生物もどき”であるウイルスの側に“敵意”などないことは明白で、一方的に戦闘メタファーを駆使して敵愾心を燃やしているのは人間の側であるということも、この際は冷静に確認しておいたほうがよさそうだ。
声文会の千夜共読で改めて「共生」という言葉に触れるなかで、ある一人のお医者さんのことを思い出していた。5年前に日本財団の仕事でインタビューをさせていただいた医師の湯浅洋さんである。湯浅さんはハンセン病の標準治療法として確立している多剤併用療法の開発にたずさわり、世界中のハンセン病蔓延国でその普及活動に従事した方である。生涯を「ハンセン病制圧」に捧げてきた湯浅先生は、インタビューのなかで、意外なことに「ハンセン菌はやがて、人間と共生していくようになるはずだ」という話をしてくれたのだ。
ハンセン菌が生きていくためにも、人間のように長生きしてくれるホストを痛めつけるわけにはいかない。それが自然界というものである。それゆえ、これから人間が目指すべきは、「ハンセン病のない世界」ではなく、「ハンセン病問題のない世界」、すなわちハンセン病による医療的・社会的問題のない世界である。そのためにも、長いあいだハンセン病患者を差別的に隔離してきた人間の「まちがい」の歴史を、きちんと伝え残していくべきだ。そう、湯浅先生は語ってくれたのだった。
タイムリーなことに、我らがエディスト小倉加奈子さんも、「コロナウイルスショックから学ぶ共生」のなかで、さすがの専門家としての知見によって、ウイルスと人間のありうべき共生関係を示しながら、「この機会にあらゆる生物間の共生の歴史に学びたい」という世界読書家の気概を見せてくれている。私もぜひ、この小倉さんの姿勢に倣いたい。それとともに、いまこそ湯浅先生の謦咳を胸に刻み、「見えない敵との闘い」といった短慮な紋切スローガンに同調して、ウイルスどころか人間そのものを遠ざけたり押し込めたり、差別感情を植え付けたり助長したりしかねない言動や風潮には、断乎として異議をとなえたいと意を強くしているところだ。
追伸:湯浅先生は、その後ほどなくして亡くなられ、私の担当したインタビュー記事が、ラストメッセージになってしまった。しばらくして、記事をご覧になった湯浅先生のことをよく知る方から、「ハンセン菌との共生という話は、敬虔なクリスチャンであった湯浅先生らしいと思います」というメッセージをいただいた。千夜共読やエディスト共読を経たいまの私なら、「それもあるのかもしれないが、先生は透徹した生命観と社会観をもった医師として、サイエンティストとしておっしゃったと思います」というふうに答えられたのに。
追伸:画像は、『感染症の世界史』ほかいくつか感染症の歴史を扱った書籍の表紙を並べてみたもの。驚いたことに多くの類書が表紙に髑髏や人骨をあしらっていた。こういうところにも紋切イメージの蔓延が起こっているようだ。ペンギンみたいな人物像は、17世紀のペスト医師の図。鳥のくちばしのようなマスクにはハーブや藁が詰められていたらしい。
太田香保
編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。
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