『絵師ムネチカ』から目が離せない。天才は往々にして何かが欠けている。そしてそのこと自体がまた天才の天才性を引き立たせる。周囲の人々の鼻面を引き回し、人生を変えていく「天才少年」のデモーニッシュな魅力を容赦なく描いた怪作。
これまでにも「神童」もの(?)を数多く描いてきたさそうあきら先生だが、ご本人は極めて方法に自覚的な職人タイプ。長年、マンガ学科の教員として教鞭をとり、『マンガ脚本概論』などの技法書にも定評がある。
イシス編集学校のかなめは人。元・図書館司書から人材育成へとキャリアシフトし、専攻したドイツ語から方法日本へと原点回帰するのは花伝所きってのビブリオテカール、41[花]師範の山本ユキ。大学院で「学びの見える化」を日々研究するポリロールな師範の目で、「まなびのヒミツ」をひも解いていきます。
土佐弁(高知県の方言)で、「準備する」ことを「かまえる」という。
きょーお客するきにかまえちょいてね
(今日、宴会をするから支度しておいてね)
お酒好きな県民性もあって、すぐに料理やお酒の支度につなげたがるが、「かまえる」のは宴会準備にかぎらない。旅行の支度も、お金を用立てることも、ふいの来訪に備えておくことも「かまえる」という。
イシス編集学校には、師範代たちが、各期の講座がはじまる前や途中に実務的な指南の方法や事例を学ぶ「伝習座」という場がある。師範たちがさまざまに工夫をこらしてレクチャーを仕立て、師範代らに方法を伝授する。4月6日、53[守]開講に向けた伝習座がゴートクジの本楼でひらかれた。花伝所を放伝したばかりの新師範代たちが発する熱気は、オンラインのこちら側から見守る花伝所の指導陣にもリアルに伝わってくる。
座の中盤にかかり、師範の角山祥道は、こう切り出した。
指南は、「教え方」と「学び方」を分断しない
角山はベイトソンの学習3段階を持ち出した。学校教育における「教える」ことと、編集学校の「指南する」ことの違いにアテンションした。学校教育の現場では不足を指摘し、正誤を伝え、正解を手渡す。それはベイトソンのいうゼロ学習、確認の作業だと言い切った。他方、編集学校の指南は「発見」をともなう。発見することが指南だ、と角山は声に力をこめた。
文化人類学者のベイトソンは集団の学習過程を観察することによって、学びとは相互的で相補的であることを見出した。集団メンバーのあいだの学習過程に注目するということは、その「関係」が主語となる。学校教育のような現場では、学ぶ役割と教える役割は二項対立的に明確であり、基本的に単独で一方通行の学びだ。イシス編集学校は、そうではない。ベイトソンのいうところの相補的な学習をめざす。相補的であるとは役割の交換、入れ替えが可能であるということであり、別のことばでいえば、行ったり来たりするということだ。角山の言うように、「教える」と「学ぶ」は分断しない。

(グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』)
相補的な学習は「創発」を生む。ベイトソンは、学びは平坦なものではなく論理階型によって捉えることができるとして、学習I、II、Ⅲとした。なかでも「学習Ⅲは創発的な学習だ」と松岡校長も述べている。角山が「指南」と照合したかったのも、もちろん学習Ⅲだ。「学習Ⅲにおける指南の「南」は相転移を起こしていくことだ」と、角山はやや緊張した面持ちで目の前の師範代たちに語りかけた。

一気に核心へ斬り込む角山師範
48[守]の教室で、私は角山とチームを組んで師範代ロールを担った。ここだけの話だが、師範の角山は「花伝所で教えることを強調しすぎるのがマズイのではないか」と突っ込んだ。この角山の問いに、当時、花目付のロールを担っていた深谷もと佳は、「イシスの学びは相互編集として設営されているのだ」と遊刊エディストの記事で応じた。
“情報の扱い方や、情報との関わり方を学ぶということは、とりもなおさず「学び方を学ぶ」ということに他ならない。花伝式目では学衆の学び方を〈学ぶモデル〉と捉え、そこへ指南をつける師範代の〈教えるモデル〉が差し掛かり、互いのモデルを交換し合う場として編集稽古を位置づけている。イシスの学びは相互学習として設営されているのだ。
~【別紙花伝】「5M」と「イシスクオリティ」
守の教室でもっとも学び、カワルのは師範代だ。そのことを強く肌で感じたのは、だれあろう角山とチームを組んだ私自身だ。そこには、たしかに相転移があった。相転移とは、なめらかな変化ではなく、氷がだんだんに水になるように「相」(フェーズ)が変わっていくことだ。そこには行ったり来たりするゆらぎがある。師範代と師範、そして学衆。総勢10数名からなる教室のチームによる学びは、少しづつ行きつ戻りつしながら、しかし確かに、それぞれがそれぞれに相転移を起こしていった。その先で見た景色がカクベツのものだったことは言うまでもない。そして、その相転移のヒミツを知るために私は花伝所へと進んだ。
相転移を起こすには、「自己」を離れることが必要だ。自分を離れることは「他者のまなざしをわがものとする」ことである。世阿弥の風姿花伝に肖ったイシス編集学校の本丸・花伝所は、「教える」と「学ぶ」をインタースコアする「師範代の方法」を学ぶ場だ。学びは、とても動的でアジャイルで、そして、なにより愉しい。必要なことは発見的であることと、ふいの来訪に臨んでいつでもインタースコアを起こせるようにしておく「かまえ」だ。創発はふいの偶然を装ってやってくる。
文 山本ユキ
アイキャッチ 宮坂由香
本文写真 後藤由加里
千夜千冊1066夜ジョン・キャスティ『複雑系とパラドックス』
イシス編集学校 [花伝]チーム
編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。
【感門90】読奏エディストリート――44[花]放伝生が読む#14『世界のほうがおもしろすぎた』
第44回ISIS花伝所入伝式の3日後、くれない道場の多田昌史が[編集術ラボ]に、松岡正剛校長の『世界のほうがおもしろすぎた』(晶文社)の共読を呼びかけました。入伝生たちは、式目演習の合間に道場の垣根を越え、校長本を交わし […]
「乱世こそ花伝所」。松岡正剛校長の言葉を引用し、花目付の林朝恵が熱く口火をきる。44[花]の問答条々、式目の編集工学講義は花伝所をけん引するツインターボ、林・平野の両花目付のクロストーク形式で行われた。2025年10月2 […]
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先人は、木と目とを組み合わせて「相」とした。木と目の間に関係が生れると「あい(相)」になり、見る者がその木に心を寄せると「そう(想)」となる。千夜千冊を読んで自分の想いを馳せるというのは、松岡校長と自分の「相」を交換し続 […]
【書評】『アナーキスト人類学のための断章』×4× REVIEWS 花伝所 Special
松岡正剛いわく《読書はコラボレーション》。読書は著者との対話でもあり、読み手同士で読みを重ねあってもいい。これを具現化する新しい書評スタイル――1冊の本を数名で分割し、それぞれで読み解くシリーズです。今回は、9月に行われ […]
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2026-03-19
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2026-03-17
目玉入道、参上。
体を膨らませ、偽りの目玉(眼状紋)を誇張して懸命に身を守ろうとしているのは、カイコの原種とされるクワコの幼虫。クワコの繭から取れるシルクは、小石丸のそれに似て細く、肌触りがよいらしい。
2026-03-10
平和に飛び交うモンシロチョウも、地球史スケールでは、ほんの少し前に日本にやって来たばかりのパイオニアらしい。押さえきれない衝動に駆り立てられて彼方に旅立つ人たちの原型は、海をわたる蝶なのかもしれない。