其処彼処に「間」が立ち現れる AIDA Season3 第4講

2023/01/15(日)13:00
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 徴、脇、綾、渝、寓、異、擬、縁、代、⾔、格、和、龢、道、空、境、異、感、狂、語、拡、化、仄、情、端…。

 

 AIDA Season3 第4講に、座衆たちはそれぞれの「しるし」の一字を携えて臨んだ。「日本語としるしのAIDA」について、これまでにそれぞれが発見したことを、今回のゲスト・松田行正氏の『にほん的』の方法に肖って漢字一文字に託す、という事前課題があったためだ。

 

 漢字のたった一文字も、膨大な記憶や思考やイメージを抱き込む懐の深さを持っている。東アジアの文字文化の核をなす漢字は、その意味で一種の「暗号」であり、さしかかったときに持っている鍵によって、意味として開いてくるものが違う不思議なしるしだ。イシス編集学校の[守]を体験した面々であれば、きっと013番の一種合成のお題を思い出し、深く頷くことだろう。

 

 事前課題で耕された座衆のしるし観に、本講でより深く鍬を入れていったのは、デザイナーの松田行正氏。かつては工作舎の仕事を手がけ、ツッカム正剛にも登場するなど座長との縁も深く、そのユニークな仕事により”デザイン知”を体現している人物である。

 

 第4講のメインプログラムは松田氏の「見ることば 日本語の視覚性について」というスライドから始まった。松田氏は、約物、句読点、半濁音など、日本語の表記の歴史を紐解きながら、その根底にあった島国の風土的特徴や、逆に、表記やその技術が日本文化を形づくっていった影響を、寄せては返す波と、それによって彫琢される浜辺の地形のようなイメージを喚起させながら語り上げた。

 

 「話が見えない」「百聞は一見に如かず」などの言葉にあらわされるように、私たちは「わかる」と「見る」をごく近いものとして認識している。ひとの名前の表記を間違えることは大変な失礼であるし、音が同じであっても「つばき」「ツバキ」「椿」という字面から受ける印象の違いは絶大だ。あまりにも身近すぎるがゆえに意識されてこなかった日本語の「見ることば」性と、座衆はおっかなびっくり出会い直したようだった。

 

 多くのテーマが語られた中でも、漢字のモドキとしての平仮名の発明については特に触れるべきだろう。平仮名は、漢字の持つグリッド性に束縛されない自由な書きっぷりを可能にし、見た目にも涼しげで、日本文化の好む適度な距離感や「間」を象徴している。近世日本において、活字が廃れ、かわりに版木による印刷が隆盛を極めたのは、効率よりもルビを含むレイアウトの自由度が、文字とビジュアルとの深い関係が大切なことだと考えられていたからだろうと、AIDAボードの田中優子氏が言葉を添えた。

 

 プログラムの2つめは、こちらもAIDAボードの山本貴光氏と、ゲストの松田氏との対談である。山本氏は先の講義を内容について、文字と文字の間、空と空の間、日本語表記の歴史的紆余曲折に含まれた時間的な間など、多くの「MA/AIDA」を考えさせてくれる講義だったと感想を述べ、さらに松田氏の編集方法の核心にせまるべく、問を重ねた。

 

 かつて『遊』の「相似律」の号に深い感銘を受けたという松田氏は、何かと何かが「似ている」ということに敏感だ。何かを集めていくとそこに「似ている」が出てくる。似ている=何かに見えてくる、というのが、松田氏の持つ強力な方法であり、断片的な情報が氾濫する現代において、それらをどうつないでいくのかという編集のコツが、山本氏が尋ねたかった方法の核心でもあった。デザインして形を作ることと、世界や社会や人間との間には断ち切りようがない関係があり、その要が日本語であり「しるし」である、と対談は締めくくられた。

 

 第4講の最後を飾るAIDAボードセッションは、前段の編集工学講義で取りあげられた「問・感・応・答・返」の実例ともいえる場の盛り上がりを見せた。連歌のようにつながっていく話題の中でも、ひとつの軸となったのはAIDAボードの大澤真幸氏の問題提起だ。ラカンが「(漢字に、ビジュアルな形で無意識が露呈しているのだから、普段から漢字を使っている)日本人には精神分析が要らない」と言った、という話題がきっかけとなった。大澤氏は、しかし、そのようにして日本語の特殊性が認識されたとして、それを生かすことが今の日本人にはできていない、という点をもどかしげに語った。

 

 日本語は「Being」を「存在」と訳すように、多くの外来語を漢字二字の熟語に置き換える慣例がある。意味を取るならば「存」でも「在」でもいいはずなのに「存在」としたがるのは、「存」でも「在」でもない、その間にほんとうがあるような気がするからだ、と大澤氏は例示した。そうした差異の優位は、ヨーロッパ的ではない方法として、なにか人類に意味を持つべきだ、と。われわれ(人類)の普遍的な問題に対して、われわれ(日本人)の方法が、解決策でなくても何かしらのブレイクスルーをもたらすかもしれない、そう真剣に考え、それを用いたときに、日本という方法の意味が出てくるのだ、という指摘は、AIDAという場の意義に迫る気迫溢れるものであった。

 

 日本という方法について長らく発信をし続けている松岡座長は、これを受け、日本語の持っている文化力は制度的ではなく、直接的に社会の「役に立つ」ことは難しいだろうと語った。日本という方法は、組み合わせに居場所を求めるべきであって、社会を律する哲学にはなり得ない。銀の弾丸としての可能性を否定され、やや重い空気になった場に対し、座長は最後にいくつかのヒントを授けた。

 

 ひとつ。土佐光起の「白紙も文様のうちなれば心にて塞ぐベし」を考えること。ふたつ。二拍とはなにかを考えること。日本では「2」がスタートであり「1」が片割れであること。このことは座長とレオ・レオーニの対談を収録した『間の本』に詳しい。そして、もうひとつ打開策を付け加えるなら、として、欧米の哲学や社会学を日本風に読み直すことをしてほしい、と語った。

 

 「答」が新たな「問」となって場に返され、「日本語としるしのAIDA」はますますの深まりを見せていく。リービ英雄氏をゲストに迎える第5講が早くも待ち遠しい、新年最初のAIDAであった。

 

 

  • 加藤めぐみ

    編集的先達:山本貴光。品詞を擬人化した物語でAT大賞、予想通りにぶっちぎり典離。編纂と編集、データとカプタ、ロジカルとアナロジーを自在に綾なすリテラル・アーチスト。イシスが次の世に贈る「21世紀の女」、それがカトメグだ。