タッパーウェアはそのまま飼育ケースに、キッチンペーパーは4分割して糞取り用のシートに。世界線を「料理」から「飼育」に動かしてみると、キッチンにあるおなじみの小物たちが、昆虫飼育グッズの顔を持ち始める。
多読アレゴリア2025年ラストシーズン、「ISIS co-mission」メンバー、武邑光裕慧匠監修の「OUTLYING CLUB」では、慧匠の自伝『Outlying―僻遠の文化史』をキーブックとして多読に挑戦した。メンバーは『Outlying』から各自が連想するサブブックを2冊選び、創文に向き合った。2024年冬の「OUTLYING CLUB」スタートから1年を通して、「外縁」「社会」「日常」「女性」「メディア」など、それぞれが心に抱える日常の違和感クラブでの体験とキーブック、サブブックとを交差させながら読書(読み書き)を進めた。
僻遠のポイエティーク──眼と身体と世界の再編へ
小野泰秀
●サブブック:
『アート・スピリット』ロバート・ヘンライ(国書刊行会)
『変幻する神々 アジアの仮面』杉浦康平(NHK出版)
武邑慧匠の『outlying-僻遠の文化史-』を読むと、〈僻遠〉とは単なる地理的な遠さではなく、世界の周波数の配列が変わり、関係線の結び目が組み替わる地点=zoneを示す概念だとわかる。僻遠とは中心への服従でも反抗でもなく、世界の“密度”を別の配置で読み直すための偏位点である。そこでは知覚・身体・世界が、わずかなズレを契機にして再び編み直されていく。
OUTLYING CLUBの一年間は、まさにその「僻遠のゾーン」へコレクティブに往還しつづけた、媒体論的な実験であり、図像論的な探索であり、知覚論的な訓練でもあった。
新・メディアの理解を読むという共読会では、AIという新しい知の器(medium)に触れることで、思考そのものの場所(topos)が揺らぎ、「どこから世界を受信するのか」という感覚的前提が問われた。これはメディアを外在的な道具として扱うのではなく、自分自身の知覚がすでに“媒体化された身体”であることを自覚するプロセスだった。
世界模型の設計では、「世界はいかに分節されうるか」を可視化することが求められた。複数の時代、文化、象徴体系を一枚の平面へと並置する作業は、ヴァールブルクのムネモシュネ・アトラスが行ったように、像を再配置し、その関係線を組み替える思考そのものだった。中心を疑い、関係線を結び直すという行為は、まさに僻遠的編集にほかならなかった。
そこから別典祭での制作を通して、CLUBは「生成される場」へと変容した。誰もが自分固有の題材を持ち寄り、複数の世界像が同時的に層を成し、互いの作業が他者の思考を媒介しはじめる。ドロップアウト(中心値からの逸脱)という通底するテーマが新しい創造の回路として働いた。媒体が単なる道具ではなく“関係線の編集装置”へと変わるということを経験する。
僻遠とは、独りで踏破する孤立した極地ではなく、複数の主体が互いの認知的・知覚的空白を媒介し合うことで初めて開く領域なのだと理解した。
このCLUBでの一年の経験を背景にロバート・ヘンライ『アート・スピリット』を読むと、芸術家の仕事とは、世界の側に潜む僻遠の周波数へ知覚を偏位させる営みだと見えてくる。ヘンライが語る「見るとは、対象の生命の側へ移動することだ」という言葉は、単なる観察ではなく、対象が帯びるもう一つの密度への接続を意味している。これは一年を通して私たちが行ってきた、視点をずらし世界像を重ね合わせ、他者の知覚への感応と響き合う。芸術家とは、中心の重力から距離を取り、世界の僻遠部分、図像的・知覚的余白へ自らの身体を調律する者なのだ。
一方、杉浦康平『変幻する神々-アジアの仮面』が扱う仮面は、主体を中心から偏位させ、別の存在圏へ接続するための“僻遠的メディア”として働く。仮面とは、顔を覆うための装具ではない。人の身体を別の周波数へ切り替える「変身の回路」である。その背後には、「人と神」「生と死」「身体と宇宙」といった本来わけて考えられてきた領域を往還させる 像の運動=図像的運動 が潜んでいる。仮面は、象徴そのものが移動し、結び替わり、境界を揺さぶる動きとして働くのだ。
僕がOUTLYING CLUBで経験したのも、この“語りの変身”であった。発言の構造が変わり、言葉の射程が変わり、編集の単位が変わる。それは仮面が示す「主体の偏位」を、そのまま知的実践として体験していたということだ。
一年の実践と三冊が重なると、次の三つの筋が浮かび上がる。
■第一の筋:僻遠とは〈眼=知覚〉の偏位である。ヘンライのいう「対象の生命へ移動する視線」は、世界模型作りの場で私たちが繰り返し行ってきた“視線の位置そのものを組み替える訓練”にほかならない。
■第二の筋:僻遠とは〈身体〉の変容である。
杉浦康平がアジアの仮面に見て取ったのは、形態が“変身の回路”として働くという事実だった。仮面は顔を隠す道具ではなく、身体を別の存在圏へ媒介する装置である。
■第三の筋:僻遠とは〈世界〉の再編である。
zoneへの偏位とは、世界の中心を放棄することではなく、関係線を組み替え、世界の像を可塑的なものとして扱う編集行為である。
アート(表象)、仮面(身体)、僻遠(世界)。三つは互いに補完しあいながら、世界の相を組み替えるひとつの図像的編集回路を形成している。
そして、この回路は一年間のOUTLYING CLUBを通して、僕自身の知覚と身体の内部にゆっくりと沈降していった。
僻遠とは、遠方にある特異点ではない。感覚と思考の座標を静かにずらすことで開く、私的かつ共同的なzoneである。
芸術家が対象を見るとき、仮面という形態が身体に介入するとき、人が日常のただなかでふと中心を外すとき、そのzoneは立ち上がる。
この一年の実践を経て、内側にひらけた小さな確信を記しておきたい。僻遠を、理念ではなく《日常的実践のポイエティーク》として生きること。
世界は、微細な制作行為の積層によって、つねに別の配置へと編み替わっていく。中心にとどまらず、静かな偏位としての実践を重ねながら、これからも歩んでいきたい。
OUTLYING CLUB
メディア美学者・武邑光裕氏の監修するクラブが誕生。アンドリュー・マーシャルのOUTLYINGアプローチを手すりに、常識、主流派の見方を疑い、異端者の思考を追求する。
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コメント
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2026-01-27
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2026-01-22
『性別が、ない!』新井祥
LGBTQなどという言葉が世間を席巻するはるか以前、このマンガによって蒙を啓かれた人も多いのでは?第一巻が刊行されたのが2005年のことで、この種のテーマを扱った作品としてはかなり早かった。基本的に権利主張などのトーンはほぼなく、セクシャルマイノリティーの日常を面白おかしく綴っている。それでいて深く考えさせられる名著。
2026-01-20
蛹の胸部にせっかくしつらえられた翅の「抜き型」を邪険にして、リボンのような小さな翅で生まれてくるクロスジフユエダシャクのメス。飛べない翅の内側には、きっと、思いもよらない「無用の用」が伏せられている。