【三冊筋プレス】おとなをまとった子どもたち(大塚宏)

2020/11/28(土)10:31
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 「きみはどう考えるの?」

 たとえば、「どうして、ぼくはぼくなの」という質問を子どもから受けて、子どもの頃に誰しもが抱いたかもしれないと思っても、冒頭のようにそっくりそのまま問い返すことを、世のおとなたちは怠りがちだ。子ども特有の屁理屈とみくびり、目の前の課題を優先し、かと言って、自分で考えようともせずにその場をやり過ごす。当の子どもたちもみずから抱いた疑問をいつのまにか忘れ、成長するにしたがって次第に問うことをやめてしまう。

 

■子どもの頃の問いを持ち続ける

・哲楽6号:インタビュー「なぜ子ども時代の問いを持ち続けられたのか

 永井均(写真・インタビュー:田中さをり)

 

 永井均は、五歳の頃、自らの存在や善悪について疑問を抱いた。教室の中の「後ろから3番目で右から2番目の人が僕だな、それはなんでなんだ?」と考えた。小学校の担任は「なるほど」と頷き「そう考えるのは偉いね」と誉めた。永井はのちにそれが「独我論」という哲学の大テーマだと知った。

 

 永井はその問いを持ち続けて哲学者になり、『<子ども>のための哲学』を書いた。「老人と子どもは実在論者(リアリスト)だ」「子どもはまだ存在の世界から価値を眺めている」「老人はもう価値の世界を出て価値全体を存在に変換せざるをえなくなっている」と言う。対するに、「大人と青年は観念論者(イデアリスト)で、観念の世界に安住する上げ底生活者(ニヒリスト)である。しかも青年は大人の上げ底生活を攻撃する底上げ待望者にすぎない」と言う。執筆当時四十五歳の大人、現在は六十九歳の老人となった永井である。

 

 すでに大人から老人に少し足を踏み入れた私としては、ようやく〈子ども・老人〉に戻れることが嬉しい。青年から大人にかけての観念論の蓄積も少なく、不十分だらけだとしても、もういいのだ。

 

■「子どもの自分」を抱えて生きるすべての人へ

・吉本ばなな&糸井重里対談

 ほんとうのおとなになるために。(日刊ほぼ日新聞)

 

 吉本ばななの『おとなになるってどんなこと?』の帯は「『子どもの自分』を抱えて生きるすべての人へ、自分の人生は自分のもの!と思えるように」と呼びかけている。「大人になんかならなくっていい。ただ自分になっていってください」「おとなになった後は、子ども時代を取り戻して本来の自分に戻っていくことが一番大切です」「ただ、子ども時代に体験したことの価値や、自分がもともと持っているものの重要さというものは、いったんおとなになってからでないとまったく意味をなさない」。子どもを置き忘れて大人になるのではなく、子どもを携えたままでいったん大人になることを経て、自分になっていくことを勧めている。執筆当時五十一歳、現在五十六歳のばななである。

 

 永井とばななは、同じことを言っているのではないか。五歳児の心に浮かんだ問いかけは、身近な大人に肯定されて、潰えることなく育まれていく。大人になる過程でそれを無くしてしまわないように、大人になることを経て自分になっていく、ということを。

 

■幼な心をスポイルしないこと

 私は、ティーンズクリエイション(わかものなんでもぶんかさい)というイベントを地域で展開して七年になる。子どもを巡る課題に対応しようとすると、中学生になってからでは遅い。小学生でも遅い。対処すべき時期は幼児の頃へと遡り、さらには親の育児の問題となる。そして、まもなく親になるハイティーンの問題となる。結局、子どもが生まれついたときから持つイマジネーションやクリエイティビティを、大人がいかにスポイルしないかが大事なんじゃないか、と思う。ではどうしたらいいか、子どもの問いを受け止め、一緒に考え、子ども自身が考えること、やることを促す姿勢が必要なのではないか。

 

 

ティーンズクリエイション(わかものなんでもぶんかさい)

12月16日(水)〜20日(日)開催

 

・映画「小さな哲学者たち」(予告編)

https://www.youtube.com/watch?v=0h2XbQVo4vA

 

 かつて、フランス映画『ちいさな哲学者たち』の自主上映会をしたことがある。フランスの幼稚園で、三歳から五歳児が哲学を学ぶ様子をとらえたドキュメンタリーだ。愛とは、死とは、と子どもらが教室で話し合い、家に帰って親とも語り合う様子に驚く。しかし、フランス人に限らず、そういうことは子どもには可能なのだ。

 

■自分の幼な心に気づくこと

 実は誰もがおとなになっても幼な心を持って生きている。多くの人はそのことに気がつかないだけだ。

 多読ジムの奥には大音大明神(冊匠はその化身)が祀られている。三冊筋を鍛えんと二冊お持ちすると、三冊目にせよと、霊験あらたかな御神籤本を授けていただける。今回、幼な心を解き明かさんと持参した上記二冊の積読本に、手がかりにせよと下されたのは、正岡子規の『墨汁一滴』だった。御神籤箋にはこうあった。「『をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。しかし痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙ってこらへて居るかする。その中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。』といった記述を多くの俳句や不平や食べ物の話とともに浴びていくと、ほかでは感じられない『洗われ』の体験があり、やがては幼さの境地を見られるのではないでしょうか」と。

 

 子規は、言わずもがな、俳句・短歌界のヒーローだ。老成したように思えるが享年三十五歳。死に至る一年ほどの間、病床にて随筆を書き続けた。記者として勤めていた日刊新聞『日本』に掲載される自らの文章を読むことを励みに生を繋いだ。その『墨汁一滴』のなかに「わらべめきもの」という言葉を目にして息を飲んだ。「されどわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見えんとにはあらず、朝々病の牀にありて新聞紙を披きし時我書ける小文章に対して聊か自ら慰むのみ。」韜晦しつつ語るなかに、子規の抑えきれない幼な心の発露があることが伺えた。

 

 子規は脳内に去来するみずからの子どもとおとなの間を行きつ戻りつした。たとえばこうだ。三国志の主人公のひとり関羽が、腕の外科手術を受けながら本を読んでいる挿絵を見た子どもの頃、馬鹿に強い人だと子ども心にひどく感心したことを思い出す。だが、今考えると、自分と同じ、痛さを読書で紛らわせていたのだと推定する。

 

 私にもこういうことはよくある。子どもの頃に抱いたものの見方が大人になって転倒させられる。『墨汁一滴』やそれに続く『病牀六尺』には幼な心を抱きながら駆け抜けた子規の人生が、飾られることなく、凝縮する形であらわされている。

 

 永井の言う、老人はもう価値の世界を出て価値全体を存在に変換せざるをえなくなっている、ということや、ばななの言う、大人になることを経て自分になっていく、というメッセージの事例のひとつとして、『墨汁一滴』を手にすることをぜひお勧めする。

 


●スタジオNOTES

●書名:『〈子ども〉のための哲学』永井均/講談社現代新書

 書名:『おとなになるってどんなこと?』吉本ばなな/ちくまプリマー新書

 書名:『墨汁一滴』正岡子規/岩波文庫

 

●3冊の関係性(編集思考素):一種合成

『<子ども>のための哲学』・・・・・・・・・

                                                          ・・『墨汁一滴』

『おとなになるってどんなこと?』・・・・・

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  • 大塚宏

    編集的先達:糸川英夫。元校長から地域まちづくりの推進者、そして師範代へ。フリープランナーとして活動する一方、地口と俳句の日々の自己鍛錬で言語編集力を磨き続けている。地元・横浜でのエディットツアーも推進中。