どんな人生にも「失われた一日」というものがある。自分はおそらくもう二度と浮上できないと絶望し、行く当てもなく街を歩き廻った私は喉の渇きを覚え、目の前の店に入った。カウンターとテーブル席が3つだけの小さな店。お客の姿はなくジャズがかかっていた。「何か聴きたい曲はありますか?」と尋ねられ「マイルス・デイヴィス」と、少し考えてから言った。その頃の私はジャズなんてほとんど聴いたことがなく、ジャズ・ミュージシャンの名前で知っているのは「マイルス・デイヴィス」だけだったのだ。レコード棚から取り出されたレコードジャケットは黒く陰鬱だった。「フォア・アンド・モア」の「ウォーキン」。マイルスの設定したテンポは過激なほどに速く、ほとんど喧嘩腰である。彼は何も求めず、何も与えない。そこには求められるべき共感もなく、与えるべき癒しもない。そこにあるのは、純粋な意味での一つの「行為」だけだった。それは私が求めていた音楽だった。
和田誠が描くジャズ・ミュージシャンの肖像に、村上春樹がエッセイを添えた『Portrait in Jazz』は、39破で師範代を務めた時、松岡校長から頂いた先達文庫である。
共に十代でジャズに出会い、数多くの名演奏を聴きこんできた二人が選びに選んだのは、マニアを唸らせ、入門者を暖かく迎える選りすぐりのラインアップだ。心の底からジャズを愛し、自らジャズ喫茶を営んだ村上春樹にとって、ジャズは生きる上での欠かせない糧である。
「僕にとって真に優れた音楽とは、詰まる所、死の具現であり、その暗黒への落下を、僕らにとって耐えやすいものにしてくれるのは、多くの場合、悪の果実から絞り出される濃密な毒なのである」と村上氏は語っている。その毒がもたらす甘美な痺れであり、時系列を狂わせてしまう強烈なディストーション(ゆがみ)は、彼にとって「癒し」だったのだろうか。
村上氏は続ける。「それは「癒し」ではない。僕は決して癒されたりはしない。なにものによっても、それは癒されるものではない。ただ赦されるだけだ」と。
私たちは、なぜか多くの場合、好むと好まざるとにかかわらず、あらゆる道理を超えて、自堕落でだらしのない弱さを含んだ芸術に惹きつけられてしまう。私たちはアポロン神ではなくディオニューソス神を選ぶのだ。あの日も、神はマイルスに舞い降りて、レコード盤というメディアに乗って《衆生を救い給ふた》のである。
1978年4月1日は、神宮球場でプロ野球の開幕戦だった。村上春樹は、ヤクルト×広島外野席の芝生に寝そべり、ビールを飲みながら観戦中に、小説を書くことを思い立つ。ヒルトンが放った二塁打に乗って、神は舞い降りたのだ。神は「行為」だけをそこに求める。それからは、ジャズ喫茶を経営する傍ら、毎晩キッチンテーブルで書き続けた。
ジャズのように、村上春樹の書く作品も中毒性がある。ハルキストと呼ばれる熱狂的ファンは、村上氏の趣味や生活スタイルに影響され、ジャズを聴きながらパスタを茹で、小説の舞台となった場所を訪れる。深夜のデニーズ、バーカウンター、古いレコード店、ピンボール、首都高速道路、公園の滑り台、夜空に浮かぶ二つの満月…。まるで巡礼だ。その行動はジャズっぽいとは言い難い。しかし、好きな人の好きなものを好きになるというのは世の常である。
ハルキストたちの巡礼は、四国八十八か所を巡るお遍路さんよりも観音信仰の「西国巡礼」に近い。その歴史は四国遍路よりも古いが、観光地に近いせいか巡礼姿をした人は一人もなく、そんな恰好をしていると宿屋も泊めてくれない。巡礼とみればどこでも宿を貸し、親切にされる四国の場合とは雲泥の差だ。そのかわり設備は万端整っていて巡礼バスやハイヤーの便もある。そのように時代に即して変っていくところが観音様らしいし、ハルキストっぽい。
平安朝から続く「西国巡礼」の歴史は、白洲正子の著書『西国巡礼』に詳しい。著者初めての巡礼の旅であり、後の多くの名著の出発点となった美と魂の発見の旅であった。タクシーなどで目的地に直行するというのではない。わざわざ迂回して舟に乗ったり、険しい山道を選んでようやくにたどり着くようなこともしている。この三十三か所の札所の旅に白洲正子を駆り立てたものはいったい何だったのだろうか。
それは、能の『山姥』のように山めぐりを続ける彼女の本性だった。観音という形で顕現した人間の魂の光と闇とを、それを育んだ山々里々の自然という舞台の中に見いだそうとした旅だったのだ。
神仏混淆の思想では、天竺の仏が衆生を済度するために、仮に神の形に現じて、垂迹したことになっている。しかし、事実はそれと反対で、仏教を広めるには、神の助けを必要としたのではないだろうか、という白洲氏の言いっぷりは、当時の権力者に対する痛烈な皮肉であり、なんともジャズっぽいように思える。
音楽も小説も私たちの孤独や失意に黙って寄り添ってくれるが、手紙もまた時として神の乗り物と化す。『マルテの手記』で知られるオーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケの、詩人志望の青年との間に交わした書簡集『若き詩人への手紙』(1903年~08年)、子どもとの二人暮らしを支えるために働く若い女性、ハイゼとの文通の集成『若き女性への手紙』(1922年~24年)の中に私たちはその形跡を見てとることができる。リルケの母は、リルケを5歳まで女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によって、リルケの生と人格に複雑な陰影を落とした。しかし、ハイゼがリルケの言葉にきよめられていったように、リルケもまたハイゼが彼の助言を受け入れ、勇敢で気高い心の女性へと成長していく姿に大いに清められ、母をも赦せたのではないだろうか。
1922年、リルケの代表的作品『ドゥイノの非歌』と『オルフォイスに捧げるソネット』が完成した。奇しくも同じ年、アメリカではジャズ・エイジが絶頂期を迎え、ルイ・アームストロングがキング・ジョー・オリバーのバンドに加わった。全ては起こるべくして起こり、出会うべくして出会うのである。
Info
⊕アイキャッチ画像⊕
∈和田誠・村上春樹『Portrait in Jazz』(新潮文庫)
∈白洲正子『西国巡礼』(講談社文芸文庫)
∈リルケ『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』(新潮文庫)
⊕多読ジム Season06・春⊕
∈選本テーマ:旅する三冊
∈スタジオふらここ彡(福澤美穂子冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):一種合成
『西国巡礼』 『若き詩人への手紙』
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『Portrait in Jazz』
⊕著者プロフィール⊕
∈和田誠
1936年〈昭和11年〉4月、大阪府に生まれる。日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。
多摩美術大学図案(現・デザイン)科を卒業。『グレン・ミラー物語』(1954年)を観て、ジェームズ・ステュアートに似顔絵付きのファンレターを出す。返事で絵を褒められたのが絵を職業にしようと決心した理由の一つである。1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し、採用される。1964年に灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、横尾忠則らと東京イラストレーターズ・クラブを結成(70年解散)。退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙や星新一著作の挿絵などを手掛ける。2019年10月7日、東京都内の病院にて肺炎のため死去、83歳没。
∈村上春樹
1949年京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒。1979年、『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。その他の主な作品に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダー
ランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している。2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている。精力的に、フィッツジェラルドやチャンドラー作品などを翻訳。また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も多く出版している。 大学時代、大学へはほとんど行かず、新宿でレコード屋のアルバイトをしながら歌舞伎町のジャズ喫茶に入り浸る日々を送る。1970年代初め、東京都千代田区水道橋にあったジャズ喫茶「水道橋スウィング」の従業員となった。大学在学中の1974年、国分寺駅南口にあるビルの地下でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開店。夜間はジャズバーとなり、週末は生演奏を行った。
∈白洲正子
随筆家。東京都生れ。父は実業家・政治家で伯爵の樺山愛輔(かばやまあいすけ),夫は実業家で吉田茂の側近として活躍した白洲次郎。1924年に女子学習院初等部を修了。梅若流の能を学んでいたため,同年女性として初めて能舞台に立つ。その後,アメリカのハートリッジ・スクールに留学。第2次世界大戦後は早くから評論家の小林秀雄,骨董(こっとう)の目利き青山二郎らと親交を結び,文学や骨董の世界に切り込んだ。この当時の東奔西走する姿を,青山二郎は〈韋駄天(いだてん)お正〉と命名したという。その〈健脚〉ぶりは晩年になっても衰えず,自分の眼で見,直接足を運んで執筆する姿は,終生変わらぬ基本姿勢であった。著書は《お能》《かくれ里》《謡曲・平家物語紀行》《西行》《白洲正子自伝》《両性具有の美》など多数。
∈ライナー・マリア・リルケ
ライナー・マリア・リルケは、オーストリアの詩人、作家。シュテファン・ゲオルゲ、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールとともに時代を代表するドイツ語詩人として知られる。 プラハに生まれ、プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表し始める。当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を発表していたが、ロシアへの旅行における精神的な経験を経て『形象詩集』『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだした。1902年よりオーギュスト・ロダンとの交流を通じて彼の芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表、それとともにパリでの生活を基に都会小説の先駆『マルテの手記』を執筆する。第一次大戦を苦悩のうちに過ごした後スイスに居を移し、ここでヴァレリーの詩に親しみながら晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。『ロダン論』のほか、自身の芸術観や美術への造詣を示す多数の書簡もよく知られている。
中原洋子
編集的先達:ルイ・アームストロング。リアルでの編集ワークショップや企業研修もその美声で軽やかにこなす軽井沢在住のジャズシンガー。渋谷のビストロで週一で占星術師をやっていたという経歴をもつ。次なる野望は『声に出して歌いたい日本文学』のジャズ歌い。
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