サッショー・ミヤコがお応えします
とても他人事とは思えません。「夢を持ちたい」という前向きな気持ちから始まって、リバース・エンジニアリングしようとしたまではいいものの、そもそも「今」が見えないことに気づき、考えるほどに落ち込んでしまわれたのですね。サッショーもいつもそのくり返しです。もしかして自分が幽体離脱して投稿したのでは、と疑ったぐらいです。なぜなのか、一緒に考えてみましょうか。
サッショーの場合、今まで生きてきた人生が虚しく感じるのはしょっちゅうです。というか、「今まで生きてきた人生」について考えると、例外なくそうなるのがわかっています。なのに、気がつくと考えてしまっている。これでは井上陽水の「人生が二度あれば」だと思いながら、分岐点を探っては、戻れないことに気づかされる。昔の人はそれを名付けて「小人閑居して不善を為す」と言ったのですね。
虚しいのは、これもサッショーを引き合いに出すと、おそらく「酔生夢死」と言われる状態だったからではないかとかんがえています。その場その場で、場や時に応じた夢に向かって生きては、その到達とともに死んでいる。それをくり返しているわけですから、人生いつも夢の中。つまり、サッショーは夢を持つ必要のない人ということになります。未来が見えないさんは、いかがでしょうか? というか、「未来」というのは見えないから「未来」なんだと思いますよ。
千悩千冊0020夜
アーシュラ・K・ル=グウィン、谷垣暁美訳
『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(河出書房)

未来が見えない自分はひとまず棚上げして、未知に向かうのが得策だとサッショーは考えます。入門も行動開始もよいですが、本は、その最も手近な入口。1969年に『闇の左手』で世界を震撼させ、SFやファンタジーや女流の意味をことごとく塗り替えていったアーシュラ・K・ル=グウィンは、81歳になる1週間前にブログを始めました。その中の選りすぐりを集めたのが、本書です。少し変わったタイトルは、ハーバード大学が1951年度卒業生へのアンケートのなかで、「余暇には何をしますか?」と質問してきたのに対して、猛烈に反発したもの。「私は来週八十一になる。余っている時間などないのだ」と言ってブログに取り組みだし、彼女の考えてる「大切なこと」を読ませてくれるようになったのですから、結果的にハーバードはビンゴだったわけですね。
彼女の考える大切なこととは、たとえばホメロスの『イリアス』に比較できるような戦争物語は『マハーバーラタ』ぐらいだな、とか、ファンタジーを逃避だという人には、そもそも逃げるとはどういうことなのか、それは何に対する非難なのかを聞いてやりたい、とか、経済学者はなぜ経済を「成長」というメタファーから解放することができないのか、とか、とかとか。そして、今現在を生きる子どもたちのこともいっぱい考えています。未来、子どもたちのなかに見いだすこともできそうですね。
ル=グウィンは2018年に亡くなりました。帯には「このブログ全体が、ながら仕事へのささやかな批判であり、ひとつのことを全力でやることへの讃歌である」と記され、その理由を聖書の「陰府(よみ)には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」という記述に負うています。