編集は「対話」から生まれる。誰かと話しているとき、自分の価値観が浮き彫りになり、ひとりでは気づかなかった「わたし」に出会う。イシス編集学校が重視するのは、「相互編集」なのである。イシスの推しメン10人目は、起業支援を通じて、相手の視界をクリアにしていく対話の達人。20年以上、現場で編集術を実践しつづける彼女の願いとは。
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聞き手:エディスト編集部
推しメン プロフィール
久野美奈子
NPO法人起業支援ネット代表理事。イシス編集学校が開校した2000年、育休中に2期に入門。以来子育てしながら編集稽古を続け、2002年、6[守]ちょっとバロッコ教室で師範代登板。イシス史上はじめて「全員卒門」を達成。名古屋在住、2020年にはヴァンキコーヒーロースターで小島伸吾とともにエディットツアーを開催。品格と知性が匂い立つその語り口は、イシスが誇る「ワークショップ四天王」として名高い。
■母が紹介した「いい男」
2000年、開校初期のイシス編集学校の実情とは
――久野さんは、編集学校が開講した2000年に入門されているレジェンドのお一人ですね! 入門のきっかけは?
じつは25年以上まえに、母から紹介されたんです。亡くなった母は、松岡正剛校長の大ファンでした。『ルナティックス』や『フラジャイル』『空海の夢』を愛読しながら、「すごくいい男がいる」って喜んでましたね(笑)。
――いい男!
そう。母は、いま私が代表をつとめている起業支援ネットの創立者で、女性起業家の支援をしていました。その一環として開催する講演会に、校長をお呼びしたんです。まったくツテもないのに、母はせつせつとお手紙を書いたんでしょうね。謝金もほとんどお支払いできなかったのに、校長は太田香保さんとともに東京から名古屋まで来てくださって。
――校長を名古屋まで呼ぶというのは、相当な熱意と行動力ですよね。
私はその講演会に、受講生のひとりとして参加していました。校長が「おもかげ」や「たそがれ」のお話をしてくださったのをよく覚えてます。それから数年経って、母のもとに編集学校が開校するという案内が届きました。校長のお話もおもしろかったし、ちょうどそのころ育休に入るときだったので、タイミングよく入門できました。2期の直立猿人教室(川崎隆章師範代)です。
――そのときはいまのように[守][破]という講座が分かれていなかったんですよね?
そうそう、当時は1年間のコースでした。私は前半だけは修了したんですが、後半は育休が終わってしまって続けられなくて。2002年になると後半だけやれるらしいと聞いて、5期の応用コース[破]に入り直しました。
――久野さんは[破]を突破すると、すぐ6期[守]の師範代として登板。当時は師範代養成コース[花伝所]もなく、師範代は面接で選んでいたとお聞きしましたが。
師範代やりますと立候補したら、松岡校長や木村月匠がいらっしゃる赤坂の事務所にうかがって「師範代面接」という名の雑談をしましたね。そのときにいただいたお茶とお菓子がすごく美味しかったという記憶があります(笑)。
――イシスのおもてなし文化は当時から健在なのですね! とすると、いまのように指南のトレーニングはせずに、いきなり教室に立ったんですか?!
いちおう、先輩の師範・師範代たちが集う詰所に放り出されて「この回答に指南して」とお題を出され、見よう見まねで指南すると「どういう意図で指南したの?」と、寄ってたかって指導が飛んでくるという2週間ほどのトレーニングはありました。
――イシス黎明期のこのような集団指導が、いまの[花伝所]の充実へとつながっているんですね。久野さんが師範代に登板しようと思ったのはなんでだったんでしょう。
入門した教室での稽古が、とにかく楽しかったんですよね。めくるめく体験でした。熱中する私を見て母は「ここまでハマるとは」と驚いてましたよ。
■新米師範代を襲った“事件”
それでも〈対話〉をやめなかった
――久野さんは、お母様の創立したNPO法人「起業支援ネット」を継いでおられるとのことですが、もともとそのつもりだったんですか。
ぜんぜん! まったく想定もしてなかったです。当時は民間企業で人事や営業の仕事をしていて、企業のなかで出世しようと思っていましたので(笑)。
――なんと、意外な過去が。
意識が変わったのは娘が生まれたあとですね。仕事に復帰したあと、はじめてワークライフバランスを考えたんですよ。当時の仕事は、勤務時間がとても長く出張も多かったので、すこし人生の休憩するつもりで、母の組織で見習いをしてみようと思ったんです。いろんな人に会えるかなという期待もありましたし。
――起業支援ネットでのお仕事が始まったころに、師範代登板なさったんですよね。
私はもともと、生身の人に対する興味関心が強いのかもしれません。関わりたいというか、知りたいという欲望でしょうか。だから、教室運営は大変だったけれど、すごく面白かった。教室では事件もありまして、開講してすぐ「なんでこんなお題に答えなければならないのか?」と年上の受講生から声があがったんです。
――えっ、それは師範代として試される場面ですね。
当時は30才そこそこで経験もなくて、どうしたらいいかわからないわけですよ。マニュアルに対応方法が書いてあるわけでもないし。でもそういうときこそ、編集エンジンがフル回転する。「なんでこの人はこういうこと言ったんだろう?」って。とにかく必死でしたが、それを考えるのは楽しかったんですよね。
――そんな事件があっても、久野さんの教室はイシスで初めて「全員卒門」を成し遂げて、『インタースコア』にも掲載されました。師範はどなたが担当なさったんでしたっけ。
冨澤陽一郎道匠です。師範としては厳しい方でしたが、とにかく対話を続けるという姿勢だけは冨澤さんも認めてくださっていたのかな。
――僕吉村は、久野さんを「ワークショップの四天王」と呼んでいます。何が上手いって、相手の言葉の「受け」が上手い。「編集は与件から始まる」とよく言うのですが、それが抜群にお得意ですよね。
そうなんでしょうかねえ。自分では「編集術がわかった!」と思ったことは一度もないのですが、でもひとつ言えるのは、「たくさんのわたし」というお題に出会って、私の人生が変わったということです。
■「たくさんの私」が人生変えた
相手の可能性をひらく「師範代という方法」
――「たくさんのわたし」って、「私は◯◯な□□である」という形式で自分を語り直すお題ですが、なにがそこまで響いたんでしょうか。
昔から自分の器用貧乏さに若干のコンプレックスを抱えていたんです。例えば、起業支援においても起業家さんはほんとうに目指したいものを見つけたんだろうなと感じるけれど、自分にはなにもない。私は、ボールを受けることは多少得意かもしれないけれど、ピッチャーにはなれないという不甲斐なさがありました。
――相手の言葉を「受ける」だけでいいのだろうかと思っていたんですね。
はい。でも、あの「たくさんのわたし」というお題に取り組んで、「すでに『私』はいくつもあるじゃん!」って心から思えたんです。
20年以上経っても、あのお題が出たときのことは覚えていますよ。一日中ずっと「私は◯◯」とメモに書き出していました。食いしん坊な私とか、口ばっかりな私とか。かっこよかったり社会的に評価されたりする私じゃないかもしれないけれど、すでに自分はあった。そのことにほんとに救われたんですよね。
――起業を目指す方の相談を受けるというお仕事は、イシスでの師範代の役割とかなり共通しているようにお見受けしますが。
そうですね、仕事では、来てくださった方からの相談を受けるのが好きなんです。その時間って、ふたりで一緒に「たくさんのわたし」を発見する時間なんです。
――相談者さんが気付いていない「わたし」を見つけるということでしょうか。
私のまえに座ってくださるみなさんは、「自分にはこれくらいの経験しかない」とか「起業するには○○が足りない」などの問題を抱えておられます。私の役割は、その人の可能性を開いていくこと。「それって景色でいえば、雨なの? 雪なの?」とか「大型旅客機でびゅーんと飛ぶ感じ? それとも、山道を一歩ずつ踏みしめる感じ?」など、聞いていったりしながら、その方がいらっしゃる世界を確かめていきます。
――なるほど、ご本人も気付いていない可能性をひらくということはまさに師範代的ですね。
相談を受けるとき、《物語編集術》がいつも根底にあります。「相手がどういう《ワールドモデル》をもっているか」という視点をすごく大事にしているんです。
――《ワールドモデル》って物語を構成する5要素のひとつで、その物語の舞台となる「世界構造」。
そう、一般的な言葉だと「価値観」とか「信念」とか「認知の枠組み」などと言われるものですが、私は「物語のワールドモデル」という言葉でとらえています。たとえば、なかなか一歩が踏み出せないと思っている人は、「そういう物語に閉じこもっている」ととらえる。そしてそれを否定せずに受け止めて、そこから自由になるにはなにが必要でしょうねというような対話をする。その方はそんなご自身の現状をなんとかしたいと思ってきてくださっているので。比喩的にいうなら、その人がその世界のなかで小部屋から広間に出たら、それを言語化していく、という感じです。
――まさに《受容・評価・問い》という師範代の3つの骨法が使われていますね。相手のようすを言葉にしてフィードバックすることで、物語の書き換えをしていると。
ええ。私がいちばんやりたいのは、そういうことなんだと思います。売上をアップさせたり、販路を拡大したりするのは、私よりも得意な人がいる。でも、私は、目の前の人がご自身のナラティブを語り直すのに立ち会いたいと思うんです。自分を語るのには聞き手が必要です。そういうときの「よい聞き手」でありたいと思いますね。
――お話をうかがっていると、久野さんは、編集工学の方法をお仕事で体現しておられるようです。
目の前の人への興味は尽きません。「この人の見ている景色を見たいな」と思ってそれを実践できるのは、イシス編集学校での師範代経験があったからですね。
イシス編集学校の根底に流れるのは、世の中の「かすかな声に耳を澄ます」という哲学だと感じています。平たい言い方をすれば、それは世界や知や人間を信じたり、関心を持ち続けたりすることのあらわれじゃないですか。私はそういう世界観に共鳴しているから、20年以上もずっとイシス編集学校に恩義を感じているのだと思います。
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梅澤奈央
編集的先達:平松洋子。ライティングよし、コミュニケーションよし、そして勇み足気味の突破力よし。イシスでも一二を争う負けん気の強さとしつこさで、講座のプロセスをメディア化するという開校以来20年手つかずだった難行を果たす。校長松岡正剛に「イシス初のジャーナリスト」と評された。
イシス編集学校メルマガ「編集ウメ子」配信中。
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